二、くわすの神

 俺が青い顔をしているのを見て、凌子は俺をコインランドリーから連れ出した。


 放り投げた靴を引っ掴んで、片方裸足のまま外に出る。

 日差しが暑くて身体が冷たい。靴を履いている方の足裏にぐにゃりと柔らかい感触が走った気がして、すぐに脱ぎ捨てたが、中からは何も出て来なかった。


 ランドリーの連中の怪訝な視線を感じたが、俺は裸足のまま砂利道に座り込んだ。素足の裏を石と枝の切れ端が刺した。


 凌子は俺の肩に手を置いてそっと覗き込んだ。

「何か見えたの?」

「蚕だ……靴の中からうじゃうじゃ出て……すぐ消えた」

 凌子は困ったような顔をして、俺が捨てた靴を持ってきてくれた。


「履けそう?」

 俺は恐る恐るスニーカーの潰した踵に足を捻じ込む。平べったい靴底の感触があるだけだった。


 凌子は例も言わずに靴を履いた俺を詰るでもなく、穏やかに見下ろしていた。何となく、玄関で靴を履く俺を見送る母親を思い出した。


「烏有くんは本当に"見える"んだね」

「こんな風に手がかりにもならねえ気色悪いもんが見えるだけだ。最悪だろ」

「手がかりにはなるよ。だって、蚕が見えたでしょう?」

 凌子は静かに言った。

「駅の繭玉、蚕の幻覚、この土地の領怪神犯は養蚕に関わるものだとわかった。大きな進歩だよ」

「流石准教授だな。俺じゃそんな風に思えねえや」

「仕事は足りないところを補い合うものだよ。烏有くんは見るだけ、利用方法は私が考える。それが組織でしょう?」


 眼鏡の奥の凌子の瞳はまた刃物の輝きを帯びていて、どこもお袋には似ていなかった。



 俺と凌子は村落の細道を歩いていた。


「村人たちの言う『先生』に会わなくちゃね。四時から集会らしいからもうすぐかな」

 俺はまだ靴を半分脱いだ状態で小石を蹴った。


「あんたの見立てじゃ新興宗教なんだろ。ここの神とは無関係じゃねえか」

「断定はできないよ。何せ神は信仰が作るんだもの。鰯の頭も信心から」


 凌子は早足で前に出て、俺が蹴った小石を蹴飛ばした。石は竹藪にずぼっと突っ込んで見えなくなった。

「ゴール」

「先生、子どもみてえだな」

 凌子はガッツポーズをした。



 周りの家は、田舎によくあることだが、古くて金はなさそうなのにやけにデカい。

 三階建てが多いが、奇妙なのは一階は低くて平べったいくせに二階三階はやけに長いことだ。平家を押し潰して二階建ての家が生えたみたいだ。


「養蚕農家はそういうものよ」

 凌子は言う。

「一階は居住区だから天井は低くて、二、三階は蚕棚の規格に合わせて高くするの。縦長の窓が見えるでしょう」

 その通り、白壁にはひとの腕がやっと通る程度の細い窓がついていた。


「あれは掃き出し窓。窓枠を床まで下げて簡単にゴミを外へ出せるから蚕棚はいつも清潔にできるの」

「ひとじゃなく蚕が基準の家かよ。人間が虫の奴隷みてえだ」

 ここの神様が蚕ならそれがぴったりかもな、と付け加える。


 凌子は汗ばんだ髪を掻き上げて笑った。

「神は人間より上位の存在とされるけど、私からすれば、神は人間の奴隷だよ。パンと水程度の信仰ほしさに何でもしてしまう哀れな奴隷」



 俺は口を噤む。凌子は見てないからそう言えるんだ。

 俺の見た化け物はひとつだって人間の姿なんかしていなかった。


 今だってそうだ。

 視界に入れないようにしていたが、デカい家の間からチラチラ覗いてくる。

 卵のような巨大で歪な楕円の塊が。



 近づきたくないと祈ったが無意味だった。優しい神なんかいやしない。


 凌子がどんどん足を進め、卵型の繭に近づいていく。

 異形に目を奪われて気付くのが遅れたが、いつの間にか道が舗装されて、周りの建物も少し近代らしくなってきた。この辺は行政が金を回しているんだろうか。


 それと同時に、道端に白くて脆い糸のようなものが絡んでいるのが見えた。

 凌子に聞くと不思議そうな顔をする。また俺しか見えていないんだ。



 顔を上げると、夏は暑く、冬は寒そうなプレハブの小屋があった。

 木製の看板で公民館と書かれている。


 周囲にはひとだかりができていた。ランドリーにいた連中だ。

 凌子は堂々とその中心へ向かっていった。


 恐竜のTシャツの息子を連れた白髪混じりの女が振り返る。

「あら、さっきの。大丈夫でしたか」

 女は心配の言葉とは裏腹に奇異の目で俺を見た。

 急に靴を脱いで悲鳴を上げて飛び出したんだ。イカれた奴だと思ったんだろう。


 凌子は「お世話様で」と頭を下げた。

 女は素早く凌子に歩み寄って耳元に口を寄せた。

「あの、そちらの方も……?」

 俺は意図を測りかねて黙る。


 凌子は合点が入ったように頷いてから俺を指した。

「ええ。甥っ子なんですけど、都会生活で疲れてしまったみたいで……何とかなるでしょうか」

「先生ならきっと大丈夫。いい方に向かいますよ」

 女は早くも同族への気安さで凌子の肩を叩いた。


 女が再び人だかりに戻ると、凌子は肩を竦めた。

「ごめんね。あることないこと言っちゃった」

「別に。切間と違って聞き込みが楽でいいや。それより先生ってのアイツか?」



 俺は村人の輪の向こうを指す。

 油ぎった頭の群れの上に、ひとり清潔そうな顔の男がいた。

 真夏に黒いスーツを着込み、髪を真ん中に分けた、どう見ても村人とは違う。それどころか能面じみた薄笑いは人間ともかけ離れて見えた。



 男はにこやかに村人の話を聞き、わざとらしく何度も頷いていた。

「奥さんは腰痛でしたね。お加減は?」

「今じゃ配達もできるようになって。本当に先生のお陰です」

「貴女の力ですよ。思い込みというと語弊がありますが、意志の力というものが存在します。気力ひとつで病は治る。私はその手助けをするだけです」


 男は神父のように手を広げる。凌子はまた目つきを鋭くした。

 俺は黙っていたが、鼓動が早くなるのを感じた。

 男の真後ろに粘ついた糸を引く何かが見えた。その更に後ろの公民館の屋根、汚れたプレハブに白い繭が鎮座している。

 こいつは一体ここで何をしてるんだ。



「おや?」

 男がこっちに目を向けた。奴は俺の顔を見たと思ったが、すぐに視線を横に振った。

 俺も振り返ると、少し離れたところに藍染のシャツの老人が立っていた。駅員の爺さんだ。


 村人が険しい顔になる。ひとりの中年が言った。

「また来たのか、爺さん。邪魔するなら帰ってくれ」

「そうですよ。私たちは誰にも迷惑かけてないんですから」

 白髪混じりの女も語気を強める。


「皆さん落ち着いて」

 先生と呼ばれた男は村人を嗜め、老人に向き直った。

「貴方のお話も聞かせていただけませんか? お力になれるかもしれません」


 老人は喉を鳴らし、内臓が出たのかと思うくらいデカい痰を吐いた。俺の足元に飛沫が飛んだ。何でジジイだ。村人も軽蔑の目線を向けた。


 白髪の女が呟いた。

「これだから伝統なんか拘ってるひとは……ここの神様が何をしてくれたって言うんですか」

 男は微笑を絶やさず女の手を取る。

「私は皆さんが信じてくださるだけで構いませんよ」



 凌子が俺に囁いた。

「烏有くん、よく見て。何か始まりそう」

 男は鞄をゴソゴソやった。

「ここで人数も多いですし、ここで始めてしまいましょうか」

 出てきたのはプラスティックの洗面器と医療用のメスだった。黒革の鞄にも、田舎の公民館にも不似合いなふたつに俺は目を奪われる。


「ゆうくん、ちょっと」

 白髪の女が息子を呼びつけた。

 小太りの男は従順に踏み出して、半袖の腕を差し出す。

「痛いのは最初だけですからね」

 先生は女の息子の腕を取り、メスを走らせた。

 俺と凌子は息を呑む。

 蛇のように血が伝い落ち、洗面器の音が軽い音を立てる。明るい黄色のプラスティックをどす黒い赤が満たしていった。


「古来から悪い血が全ての病の元です。こうすることで一緒に病気も身体から出てくんですよ」

 村人は何の疑問も持たずに聞いていた。男は血の杯を湛えて糸のように目を細める。


 気が遠くなりそうな光景だったが、凌子に肩を叩かれ、我に返った。

 よく見ろと言われたんだった。



 俺は目を凝らし、すぐ顔を背けた。

 メスと血で満ちた洗面器を持つ男の背に、公民館の繭から無数の白い糸が繋がっている。

 羽化するのを待つ幼虫のように、粘性の糸が。


 こいつは何なんだ。

 新興宗教で、本当に神を作ってるのか。


 後退った俺は、先程の老人とぶつかった。

 老人は猛禽類じみた眼球で男を見つめている。


「ありゃあ駄目だ。くわすの神が来てる」

 老人の掠れた声は、炎天下の中で氷のように冷たかった。

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