一、くわすの神

 窓の外を高速で並木が流れていって、洪水のようだと思った。



「大丈夫、酔ってない?」

 凌子りょうこが身を屈めて聞く。新幹線の中で俺と向かい合っているのが切間きるまじゃないのは変な感じがした。


「酸っぱいもの食べると治るかも」

 凌子は乗務員から買った冷凍みかんを剥く。皮に貼り付いた霜が弾けて眼鏡に飛んだ。

 凌子は照れくさそうに笑って俺に蜜柑を寄越した。


「どうも」

 穏やかな旅だ。切間と一緒じゃこうは行かない。

 何故今回はあいつじゃないのか聞きたかったが、この前の対策本部での言い争いを思い出して、何となく踏み込めずにいた。



「切間くんは上への報告で出張なの。せっかく慣れてきたのに、急に私と同行でごめんね?」

 凌子は俺の考えを見透かしたように言った。

「全然。暴力刑事よりよっぽどマシだ」

「そんなこと言って。いいコンビだって評判よ。というより、烏有うゆうくんのお陰かな」

「俺の?」

「ええ、貴方が来てから未確認の領怪神犯の真相が立て続けに三つもわかった。上も喜んでいるの」

「上は気楽でいいよな。こっちは溜まったもんじゃねえや」


 俺はもらった蜜柑を齧る。果物というより、汁を凍らせた氷袋が口の中で潰れたようだった。

 凌子は苦笑を浮かべた。


「烏有くんの霊感は勉強やスポーツと同じ才能だよ。活用すればひとの役に立てる。神と同じようにね」

 その言い草に俺は鳥肌が立った。

「冗談だろ。化け物も、化け物が見えるのもいいことなんかねえよ」

「そんなことないわ。私の故郷もそうして成り立っているもの」


 俺は思わず聞き返した。凌子は眼鏡を外し、蜜柑の汁をブラウスの裾で拭った。

「故郷には疫病から村を守ってくれる神様がいてね。昔から烏有くんみたいな普通のひとより神様に近いひとに神様のお世話をしてもらって、村を運営しているの」

「それ、何かの比喩か?」

「事実だよ」


 凌子は事もなげに笑う。俺は何と答えていいかわからない。俺はふと凌子が名字を隠していたことを思い出した。


「……凌子さんが名字で呼ばれたくないのって、故郷と関係してんのか?」

「うん、そうかな。珍しくはないんだけど、こういう仕事だとわかるひとにはわかるから」

「あんたの名字って……」

 宮木みやきかと問いかける前に凌子が遮った。


三原みはらよ。故郷には一原から十原までいる。私たちが祀る神様は『こどくな神』と呼ばれているから、村人たちが揃って寂しくないようにしてあげるの。面白いでしょ?」

 裸眼の視線はナイフの先のように鋭かった。俺が言葉に詰まったとき、新幹線が停止した。



 新幹線が停まるようなデカい都市に俺たちの仕事はない。

 例の如く鈍行列車を乗り継いで着いた村は、夏とは思えない奇妙な光景が広がっていた。



「何だよあれ、正月みてえだな」


 思わず呟いたのは、木造の駅舎に文字通り正月飾りのようなものがぶら下がっていたからだ。

 葉のない枝に桃色や橙や紫の玉の飾りが蕾のようにびっしりとついている。

 大昔に見た覚えがあると思ったが、貧乏なうちで年中行事なんかやる余裕はなかった。たぶん親父が生きてた頃だろう。


 記憶の中では食紅で練った餅を飾っていたはずだ。飾りに手を伸ばすと、明らかに食用ではないかさついた感触に触れて、俺は手を引っ込めた。


「繭玉だね」

 凌子はくすくす笑う。

「小正月に豊作を祈願して飾るの。元は養蚕地帯が豊産を祈ったものだから繭の形を模して餅を飾るんだけど、ここは本物の繭みたい」

「こんな爺婆の指みたいなカサカサのもんが絹になるんだな」

「酷い言い方ね」

 優しく諭す口調は、最初に会ったときの小学校教師のような雰囲気のままだった。新幹線の中の底知れなさはない。



「ここは養蚕で有名だったみたいね。ほら、桑の木がたくさん」

 凌子は錆びた線路の向こうを指した。逃げ水で歪んだ木々の葉は、偽物よりもわざとらしい光沢で輝いていた。


「こんなとこにも領怪神犯がいるのかよ」

「他所の人間にはわからないものだよ。それに、繭は多産や生命力を意味する縁起物だし、蚕の話は日本神話にも出てくるの。信仰との関係は深いはず」

「流石民俗学の教授だな」

「まだ准教授」



 凌子がふざけて眉を吊り上げたとき、駅舎の方からゆらりと影が覗いた。


「あんたら、何しに来た」

 しわがれた声と鋭い口調に、俺と凌子は視線を向ける。

 出てきたのは麻の和柄のシャツを着ていて老人だった。駅員らしいが、定年してないのが不思議なほどの年だった。呆けた老人が自分を駅員だと思い込んでると言われた方が納得いく。


 掴みかからんばかりの剣幕に俺は少し苛ついた。

「何で言わなきゃならねえんだよ」

 老人が膜の張った目を見開く。凌子が俺を制止して前に出た。


「やめてったら。急にごめんなさい。私、東京の大学の准教授をしております。フィールドワークで伺って……」

 凌子が名刺を差し出すと、老人は急に大人しくなった。権威ってやつだ。


「繭飾りがあったのが気になって、急遽降りたものですから、アポイントメントも取らずにごめんなさいね。学生にいろんな文化を体験させたくて」

「学生ね……」

 老人は俺に軽蔑の眼差しを向けてから、凌子には幾分か表情を和らげた。


「悪いが、文化なんてもんはここには残ってないよ。もうろくでもないもんばっかりだ」

 無愛想は元かららしい。老人は追い払うように手を振って駅舎に戻っていった。


「何だあの爺い」

 凌子が俺の脇腹を小突く。切間なら肋骨にヒビが入っていたかもしれない。いなくてよかったと思った。



「ろくでもないもの、ね……」

 凌子は呟いて、無人の改札を潜った。

「若い奴らが来るのが気に入らないんじゃねえの」

「そういう話じゃないみたいよ」


 俺は凌子の視線の先を見た。

 古びた掲示板がある。錆びた画鋲で指名手配や夏祭りのポスターが貼られる中、真新しいセロハンで止められた一枚の紙があった。


 コピー用紙の真ん中に奇妙な絵が描かれている。

 楕円の中に胎児が蹲っているような薄気味悪いモチーフだった。

 紙の下には乱雑に引き剥がされた紙の断片が残っている。今貼られているポスターの絵と同じ切れ端だった。何度も剥がされて、その度に貼り直しているようだ。


「気色悪い……これが領怪神犯か?」

「どうかな。比較的新しいみたいから新興宗教の類かも」

 凌子はしばらくポスターを注視してから、村の方へ向けて歩き出した。

 あの楕円が眼球を連想させて、背後に視線を感じるような違和感を覚えた。



 ど田舎という言葉がぴったりの何もない村だ。

 舗装の剥がれたアスファルトから雑草が飛び出し、民家と廃屋と見紛う無人の商店がまばらにある。


 しばらく進むと、ひとつだけ内部に人影が覗く建物があった。

 凌子が視線で俺を促し、飴色のガラス戸に近づく。俺たちが触る前に引戸が開いた。


「お客さん?」

 現れた小太りの男は三十路に見えたが、子どものような恐竜柄のTシャツを着ていた。凌子が多少面食らって頷く。


 店内には村の人間全員かと思うくらいのひとが集まっていた。コインランドリーらしいが、黄ばんだ洗濯機と乾燥機の間には麻雀卓があり、それを囲む丸椅子に初老の男女が屯している。村の溜まり場らしい。


 中年の男は俺と凌子を導き入れた。

「ママ、お客さん」

「他所様の前でママはやめなさい」

 卓を囲む白髪混じりの女が顔を上げた。

「ええと、うちのお客さんじゃないですよね? 先生の?」

「先生?」

 俺の問いに、周りの連中が一斉に頷いた。


「やっぱり遠くからも来るんだな」

「本当なら何年も予約待ちって言うから」

「俺もすっかりリュウマチが治してもらって」

「偉い先生なのにこんなところに来てくださってありがたいわよねえ」


 店内にさざなみのような笑いが満ちる。

 不気味さに目を逸らすと、凌子も苦笑いを浮かべていた。


 白髪の女が立ち上がる。

「先生のお客さんなら仲間みたいなもんです。どうぞ休んでいって。四時から集会ですから。アイスコーヒーまだある?」

 小太りの男が店の奥へパタパタと駆けていった。


 知らないうちに話がどんどん流されていく。

 こいつらは何の集まりで、先生って誰なんだ。凌子の言葉が頭をよぎった。新興宗教。



 老人のひとりが尻を動かして奥に詰める。

「ほら、座んな」

 仕方なく踏み出したとき、靴底に違和感を感じた。砂利でも入ったかと思ったが、もっと柔らかい。


 俺は屈んで靴紐を解き、スニーカーを逆さにする。手首を無数の赤ん坊の指がなぞったような感触が走り、靴から大量の虫が溢れた。


 俺は声を上げて靴を蹴り飛ばす。

 スニーカーが乾燥機にぶつかり、上から古い漫画本が落ちた。

 転げた靴には泥がついているだけで、虫一匹いない。またいつもの俺にしか見えないやつだ。


 俺は心臓がバクつく胸を抑える。虫たちは芋虫に似ていたが、白くて太かった。

 あれは蚕だ。

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