序、くわすの神
話すことなんか何もない。
アンタもこんな老人の話なんか聞いても仕方ないだろ。年寄りは迷信深いし、記憶はあてにならん。
それでもいいってか。仕方ないな。
うちの家はな、代々養蚕をやってたんだ。
絹ってわかるか。あれを取るために蚕を繭から育ててたんだよ。
うちだけじゃない。昔はどこの家でも蚕を飼ってた。この村は養蚕業で栄えてたんだ。桑の木が文字通り山ほどあったからな。
そのうち、化学繊維だ何だが出て、皆どんどんやめていったがな。俺が生まれた頃にはもう、うちと後数軒しかやってなかった。
親父は頑固者だったからな。儲かる儲からんの話じゃない、養蚕は誇りだって。
だから、うちには蚕を飼うデカい納屋があった。蚕が一斉に桑の葉を齧る音を聴いてると、晴れの日でも雨みたいで、あれは楽しかったな。
だが、絹糸っていうのは蚕を殺さなきゃ採れないんだ。あんなにコロコロ太って可愛かった虫が、冷えた繭の中に収まって死んじまう。可哀想だと思って、あまり蚕に愛着を持たないようにした。
親父は養蚕を続けたが、それでも、飯が食えなきゃやっていけん。
あるとき、酷い冷夏があって大事な桑もみんな枯れて、いよいよ立ち行かなくなった。
その年はちょうどお袋が俺の弟を死産して、少し精神をおかしくして、うちは酷く暗くなった。
人間様が飯を減らして何とか耐え凌いでも、蚕は呑気に桑を齧ってて、好きだったあの音もどうしようもなく苛ついたのを覚えてる。
俺は親父にいっそ養蚕なんてやめちまったらどうかと言った。普通の父親ならそんなどら息子ぶん殴ってただろうが、親父は手を上げたりはしない。
ただがんとして首を縦に振らなかった。
蚕は天の虫と書くだろう。あれは本当にこの村の神様なんだ大事にしなきゃいけんだ と言ってな。あの目つきはどっか恐ろしくて、ぶん殴られた方がマシだと思った。
親父もおかしかったが、お袋はもっとまずかった。
夜な夜な死んだ弟の墓を掘り返したりするくらいにはな。
親父が作った絹で弟を包んで納屋に行って、「ほら、父ちゃんの仕事場よ。大きくなったらあんたもお兄ちゃんと一緒にこれを手伝うんだからね」なんて言い聞かせてた。
弟の死骸は繭の中で干からびた蚕みたいだった。
親父は食い扶持のために他所の村の畑の手伝いなんかに出て、よく家を空けていたが、戻ってくると必ず「納屋には近寄るな」と俺に行った。
そんなこと言われなくても近づかない。おかしくなったお袋と、ろくに桑を食わせてやれなくて痩せた蚕たちがいるだけだったからな。
それから、夜になると納屋の近くで妙な音を聞くようになった。ぐちゃぐちゃとか、ずるずるとか、長い髪や肉を土に叩きつけてるみたいな音だった。
お袋が何かしてたんだろう。俺はそれこそ繭みたいに布団にこもって朝が来るのを待ってた。
ある日の真夜中、すごい雨の音で目が覚めたんだ。
暗い家中に雨音が響いて、昼間は雲ひとつなかったのに、こんな土砂降りになるなんてと思った。
だが、雨戸を開けてみたら雨は一滴も降ってなかったんだ。
それで気づいた。蚕が桑を食う音だって。
音は納屋の方から聞こえた。
ただいつものさくさくと乾いた土に雨が染みるような音じゃない。じくじくと激しいが湿った夕立みたいな音にだった。
俺は仕方なく入るなと言われてた納屋に入った。
真っ暗な中、奥の養蚕台に大きな影があった。繭だ。ひとひとり入れるような巨大なやつだ。お袋が弟の死骸を絹で包んだのを思い出した。
繭は小刻みに震えてた。
蚕が中で動いてたんじゃない。何かが動かしてたんだ。薄い紗みたいな白い羽根を持った何かが、繭を転がして少しずつ、少しずつ繭を大きくしていた。
繭の中の何かがそれに抗うように繭を震わして……。
それからは覚えとらん。
納屋の繭は次の朝には消えて、蚕だけが残ってた。
お袋もいなくなった。跡形もなく。
捨てられたのかって? どうだろうな。よくある話だ。戻ってきた親父は俺が伝える前から全部知ってたように落ち着き払ってた。
ただひとこと「神様が守ってくれたんだ」と言っただけだ。
確かに、それからは養蚕も持ち直して、万事上手くいったがな。
訳のわからん話だって?
だから、聞いても仕方ないって言ったんだ。呆けた老人の話だと思って忘れてくれ。
アンタに理解してもらおうと思ってない。
誰も知らなくてもお天道様が見てくれてるみたいに、俺たちだけがわかってわかってればいいんだ。
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