二、すずなりの神

 長閑な川沿いの空気が一変した。


 今までで一番マシな村だなんて勘違いだ。元からこの村はイカれてやがる。この婆さんが何よりの証拠だ。



「どうかしましたか?」

 老婆はにやにやと俺を見上げてる。エプロンの染みと同じ色の黄ばんだ歯が覗いていた。


「いや、急に耳鳴りが……」

「鈴の音ですか!」

 老婆は柏手のように手を打った。

「よかったですねえ。本当はここのひとじゃないと中々聞けないんですよお」

 婆さんは薄く目を閉じて、耳を傾ける仕草をした。


 俺は曖昧に笑って老婆から距離を取った。切間が俺のシャツの背を猫の子みたいに掴んだ。


「何か聞こえたのか」

 相変わらず尋問みたいな口調だが、視線には少しだけ気遣いが混じっていた。

「鈴の音だった。あんたもか?」

「……何処かの家の風鈴だと思ったが」

「そんなもんじゃねえよ。何十個も一斉に鳴ってるみたいだった」

「すずなり……か」


 切間は古い立て看板を見上げた。

「鈴生りっていうのは、果実が房に大量になってるように、大勢が一箇所に集まってることを言うんだ」

 俺はへえ、と答えてそれ以上何も言わなかった。また最悪なことになる予感がした。



「人柱を埋めたところを見たい、ですか……」

 切間の申し出に、老婆は頰に手をやって考え込んだ。

「ちょっと雁金かりがねさんの許可を取らないとねえ」

「雁金とは?」

「あの橋を建てた地主さんのお家ですよ。今でも一応雁金さんの私有財産ってことになってますから」


 俺は渋る老婆と切間の間に割って入り、馬鹿な大学生らしい顔を繕った。

「何かあ、うちの先生が学会のすごい偉いひとで、この村のこと隅々まで調べてこいって言うんですよ。それで一冊本書いて、観光事業とかと併せて色々展開したいって」

「あらまあ!」


 婆さんの目の色が変わる。郷土愛は強いが、実際大した土地でもない田舎の連中はいいカモだ。

「じゃあ、石室だけでも案内しましょうか。ここは見せていいことになってますから」


 老婆はそそくさとエプロンを脱ぎ出す。切間が嫌そうに俺を見た。手伝ってやったのに。



 婆さんが支度をする間、橋を眺めていると若い夫婦が横切った。一度足を止め、耳に手を当てる。土産屋で蒸籠から湯気を上げる饅頭を蒸していた店主も同じ仕草をしていた。


 不気味な村だ。誰もが皆、聴こえて当然のように鈴の音を聞き、いいものだと思い込んでいる。



 老婆に案内されながら、俺たちは土手に降りた。

 土と草の匂いが強くなり、ジーンズの脛を夏草が突く。川の水面は死んだ魚の腹のようにギラついていた。


 よたよた歩く老婆の後ろで切間が言う。

「烏有」

「兄弟の振りする気あんのかよ」

「……定人さだひと

「下の名前がすぐ出てくんの気色悪いな」

「刑事は記憶力が肝だからな」

 俺は足に絡みつく草を蹴った。


「あんたの下の名前何だっけ」

「必要ねえだろ」

「兄貴なんて呼ばねえぞ」

「……蓮二郎れんじろうだ」

 確かに対策本部にあった資料で見た名前だ。でも、資料の奴は切間って名字だったか。 



「こちらですよお」

 思考は老婆の声に断ち切られた。


 生い茂った草が隠す橋の根元に石が積み上げられていた。

 岩屋の形に積んだ石と、木板が組み合わさり、簡単な祠のようになっている。覗き込むと、祠に床はなく寒気がするような孔が広がっていた。まるで罠だ。


「捨身行に使う石室のようですね。即神仏を目指す僧侶が篭って写経をする……」

 切間の声に老婆が答える。

「そうですねえ、修行に近いかもしれません。身を捨てて神様と村のために仕える有難い行為ですから」


 切間が「失礼」と断って、ペンライトで穴の中を照らした。

 俺は息を呑む。暑さによる汗が冷汗に変わった。

 切間の呻く声も聞こえた。


 石室は中が緩い傾斜になり、奥底まで見渡せた。壁一面に夥しい傷と赤茶けた線が広がっている。


 血塗れの手で引っ掻いたみたいな痕だ。石室の底に草と落ち葉と何か黒い液体が澱んでいる。そこに桜貝に似た薄い欠片が浮かんでいた。人間の爪、直感でそう思った。


 また、鈴の音がした。



 俺たちは意気消沈して土手を上がった。

 とんでもないものを見せられた。切間が俺に囁く。

「見たよな?」

「おう……」

「あの石室は大きすぎる。二人、いや、詰めれば四人は入れるぞ。捨身行は集団でやるものじゃねえ」

 俺は切間を見返した。そこまで気づかなかった。


「でも、本当に修行に使った訳じゃねえんだし」

「まあな。それより不自然なのはあの傾斜だ。中の奴が登ろうとしても出てこられないようになってる。望んで入った奴にそんな仕掛けが必要か?」


 人間を突き落とし、石と木板で蓋をする。中の奴が出ようと爪でガリガリ引っ掻く音が夜通し響き、川の流れと鈴の音がそれを掻き消す。

 俺は嫌な想像を振り払った。



 前を歩く老婆が足を止めた。

「あら、雁金さん家の」

 橋の前に女子高生が立っていた。

 俺は目を見開く。あの橋の上で、耳を塞いでいた女だ。


「登校日? ちょうどよかったわ。お家のひとはいる? 東京の学生さんが橋について詳しく調べたいって……」

 朗らかに言う老婆に、女子高生は小馬鹿にしたように唇を曲げた。

「学生?」

 奴は俺と切間を眺める。どう足掻いてもそうは見えないだろうな。


 一蹴されると思ったが、女子高生は鼻で笑うと俺たちに近づいた。

「いいよ、その代わり何か奢って」


 俺たちは顔を見合わせる。切間が溜息をついた。

「経費で落ちる」

「あいつすげえクソガキじゃん……」

「お前が言えるか?」

 俺は舌打ちした。



 俺たちは橋のすぐ近くの喫茶店に入った。

 和風の店構えにはドアがなく、鈴を描いた藍色の暖簾が揺れている。


 俺たちは女子高生に促されて、奥の背もたれのない座席に座った。

「かき氷、ブルーハワイで。ソフトクリームトッピング」

 奴はメニューも見ずに店員に言った。切間がアイスコーヒーふたつと付け足す。


 店員が去ったのを確かめてから、女子高生は足を組んだ。行儀の悪いガキだ。

「学生って嘘でしょ」

 切間は表情を変えない。

「じゃあ、何に見える」

「刑事と……無職?」

「正解」

 俺が答えると、切間にメニュー表で引っ叩かれた。女子高生は笑って表情を和らげた。



 コーヒーふたつとかき氷を乗せた盆が運ばれてくる。

「雁金ってことはここの地主だよな?」

 切間の問いに女子高生が頷く。

「そう。地主とかもうないけど、田舎ってそういう上下関係とかうるさいから」


 雁金はソフトクリームをスプーンで崩して、青い氷の海に捩じ込む。嫌な食い方だと思った。


「刑事さんが何しに来たの。何百年も前の殺人罪の調査?」

 切間は眉を顰めた。

「殺人?」

「そっちのひとは気づいてそうだけど」

 雁金は俺をスプーンの先で指した。俺は手で跳ね除ける。

「指すんじゃねえよ」

「お前もやるだろうが」

 切間は余計なことしか言わない。雁金はまた笑った。


「無職のひと、あの橋で青白い顔してたでしょ」

 やっぱりあのとき気づいてたのか。

「お前もだよな」

「聞こえちゃうんだ。あんた霊感あるの?」

 俺は目を逸らした。雁金はアイスとブルーハワイが混じった氷を啜る。


「私はないんだけど、地主の家の人間だから」

 切間がストローを使わずコーヒーを煽った。

「家と関係が? 橋を立てたことか?」

「まあ、そうだね。あの伝説変だって思わなかった?」

 切間が迷っている間に俺は答える。



「望んで人柱になったって嘘だよな」

 切間が睨むのに構わず、俺は続ける。

「村で一番貧しい奴なんて無理矢理選ばれたに決まってる。人柱の女の両親だって自殺してるしな」

「そう、でも、娘が選ばれたのは貧しいだけじゃない。地主の息子が愛人になるのを断ったから」

 ビンゴ、そんなことだろうと思った。


「娘は救いを求めて鈴を鳴らし続けてた。それを聞いて助けようとした両親は、村人に見つかって川に沈められた。それが本当の話」

「じゃあ、何でわざわざ橋を改装したりすんだよ。伝説の信憑性のためか?」

 雁金は表情を消した。元の小綺麗な顔立ちが目立って妙に怖く見える。


「鈴の音は何週間も何ヶ月も聞こえた。とっくに娘が死んだはずなのに。村の皆は怖気づいた。ひと殺しの癖に馬鹿な奴ら。橋を石で固めてもまだ聞こえる。より堅牢に、より豪華に、何度も橋を強化してやっと鈴の音が聞こえなくなった。事実が捻じ曲げられて、嘘くさい伝説に変わった今もその風習が続いてるの」

 切間が絶句する。思ってたより最悪の村だった。


 雁金はおしぼりで口を拭って息をついた。

「最近、また鈴の音が強くなったの。どう思う?」


 覗いた舌は青くて化け物のようだった。

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