一、すずなりの神
俺が対策本部の扉に手をかけると、中から怒鳴り声が聞こえた。
「あまりに危険すぎる」
腹の底からドスを効かせた声は
扉の隙間から盗み見ると、腕を組んで仁王立ちする切間に対し、凌子と、見たことのないスーツ姿の連中が向き合っていた。
「危険は承知でしょう、切間くん」
「我々の危険なら幾らでも承知してますよ。だが、これは民間人への危険にも繋がりかねない」
後ろ姿で初老とわかる白髪混じりの男が答えた。
「対策本部の本懐は領怪神犯から人民を守ることだ。神の記録を記すだけならば我々は要らない。小を犠牲に大を守ることも必要だろう」
何を言ってるのかわからないが、揉めてることだけは確かだ。関わらないのが一番いい。
俺は気づかれる前にドアノブを手放した。扉が閉まる寸前、切間の声が聞こえた。
「火中の神を収容したら、村人たちはどうなるんです!」
廊下は対策本部の騒がしさと嫌な空気とは別世界のように静かだった。
「何の話してんだよ……」
興味を持ちそうになる自分に嫌になる。関係ねえ話だ。上の奴らの考えなんか俺にはわからねえんだ。
俺はとっとと役目を終えて、化け物退治から解放されることだけ考えてれば良い。
自分に言い聞かせて煙草でも吸いに行くかと踵を返したとき、真後ろに少女がいて、俺は思わずギャっと叫んだ。
「何だよ、ジャリの遊び場じゃねえぞ。どっから入った」
バクバクいう心臓を抑えて見ると、少女は呆れ気味に俺を見た。
少女は凹んだ紙パックのオレンジジュース片手に言った。
「お母さんと来たんです。ちょっと待っててって言われて……」
「お袋と?」
「
髪をひとつに縛った少女は大きな目を瞬かせてお辞儀した。五、六歳くらいだが既に俺より賢そうだ。
「宮木なんて奴いねえぞ」
言いかけてから思い出す。凌子の名字は「み」で始まると言っていた。
「凌子さんの子か?」
宮木礼は困ったような顔をした。子どもの相手は苦手だ。
俺はジーンズのポケットに手を突っ込んで小銭を探る。
「何か知らねえけどしばらくかかりそうだぜ。ジュースでも飲んでな」
「お昼ご飯の前だからあんまり飲んじゃいけないんです」
俺は少女の手に百円玉を握らせ、さっさと逃げ出した。
屋上の喫煙所で煙草をふかすと、紫煙が夏雲に溶けていった。
真下のビル街からゴミ回収車の苛つくほど明るい音楽が聞こえる。神をどうこうしようと揉めてる奴がいるなんて全く知らない呑気な街だ。
非常階段に通じるドアが開き、呑気さの欠片もない切間が現れた。
「
切間は日焼けしきった顔で眉間に皺を寄せた。
「今度は何処だよ」
「またクソみたいな神の村だ。いつものことだろ」
明らかに苛ついている。触らぬ神に祟りなし。俺はそれ以上聞かないことにする。
これから神を突き回しに行くんだが。
煙草を箱から抜き出す切間の横顔は、さっき見た何かに似ている気がした。
***
夜明け前に新幹線に乗せられて駅に着くと、今度は何度もバスを乗り継がされた。
走ってるのが不思議な古いバスの車内は道端の砂利ひとつでガタガタいう。
温い日差しが病人の鼻水みたいな黄色で窓を染めていた。
「新幹線乗ったの初めてだな」
「そうかよ」
俺の呟きに切間は素気なく答える。黒手袋の左手が忙しなく資料を巡っていた。
「何か昨日揉めてたよな」
切間の手が止まった。怒声か無言が返るだけかと思ったが、奴は資料を閉じて重い息を吐いた。
「火中の神の有効活用についての施策案、だと」
「何だって? あの訳のわかんねえもんを?」
「普通はそう思うよな」
切間の眉間の皺が少し薄くなった。
「上の連中は領怪神犯を生活に活かす術がないかと模索してるらしい。悪霊の存在を知る者ごと消すことで村を守る神だ。上手く使えばより厄介な神を無効化出来ないかと思ってるんだろ」
「正気かよ。モノホン見てねえから出る発想だな」
「実際に神を見た連中ですらそうだ。始末に負えない」
俺は肩を竦めた。
「凌子さんも賛成派みてえだよな。あんな小さい娘もいるのに……」
「娘?」
「昨日見たぜ。対策本部の前で待ってた」
「子持ちとは聞いてなかったな」
切間は首を捻った。
バスは山道に入った。車内は無人でエンジン音しか聞こえない。
「なあ、あんたは結婚してんの」
「急に何だ」
切間は再び資料のファイルを広げた。
「……してる」
「マジかよ」
こんな仏頂面した旦那がいたら家にいても刑務所に見えそうだ。奇特な女がいたもんだ。
「入婿だけどな」
予想しなかった言葉に俺は可笑しくなる。
「じゃあ、家だと嫁さんに尻に敷かれてんだ?」
ファイルの角が俺のこめかみを小突いた。暴力刑事の結婚生活は想像できない。
バスの窓の外を永遠にも思えるような木々の幹が流れていった。
辿り着いたのは、予想に反して観光地じみた小さな村だった。
バスを降りて、硬い座席と震動で錆びた機械のようにになった身体を伸ばすと、川の匂いがした。
泥と草をたくさん含んだ水が陽光に熱された、田舎の夏の原風景みたいな匂いだ。
まばらな商店と民家の向こうに、赤い橋が見える。
絵本で見た竜宮城に似た豪華な橋だった。
「今までの中で一番まともそうな村だ」
俺が歩きながら呟くと、切間は陰鬱に首を振った。
「だと、いいんだがな」
ちりん、と鈴の音が聞こえた。何処かで風鈴でも吊るしているんだろう。
近くで見ると橋はやたらとデカい。
切間は橋の手前で足を止めた。視線の先には、古びた木製の立て看板がある。
滲んだ筆の文字はよく見えないが、橋の名前が書いてあるらしい。
「すずなり橋……」
風鈴の音がより近く聞こえた。
「気になりますか?」
急に声をかけられてギョッとすると、切間の腰くらいしかない小さな老婆が立っていた。
「観光の方?」
醤油の染みで汚れたエプロンには「おもかげ屋」と書いてある。飯屋か土産屋でもやってるんだろう。
切間は表情を和らげて老婆に向き直った。
「はい、弟の……大学のフィールドワークも兼ねて。民俗学専攻なんです」
「まあ、この方が?」
老婆はひとは見かけによらないと感心しているように見えた。
正直なのはいいが、切間は嘘が下手すぎる。
「じゃあ、よく見ていってくださいな。何せ江戸時代から由緒のある橋ですからねえ」
切間は早速作り笑いを忘れて真顔で切り出した。
「この橋には人柱伝説があるそうですが」
老婆は少し驚いてから、すぐに笑顔を浮かべた。
「皆さんが思うような怖い話じゃないんですよ。あれはひととひとの輪というか、思いやりの連鎖って言うんですかね」
人柱の禍々しさとは結びつかない言葉に俺と切間は首を傾げる。
「この橋の下にいる娘さんはね、元は余所から来た旅人でとても貧しかったのを、地主の息子さんが見かねてご両親も一緒に世話してあげたんだそうです」
俺は少し背伸びして、切間の耳元で言う。
「愛人にしたかったんじゃねえか」
ふくらはぎに一発蹴りを食らったせいでひっくり返りそうになった。
老婆が「仲がよろしいのね」と笑う。呆けててもそうは思わねえだろうに。
切間は咳払いして続けた。
「その娘が人柱に?」
「はい、お世話になった村に恩返しをしたいとね。地主の息子さんは悲しみましたが、娘さんの意志の固さに折れて、人柱の準備を一通り揃えたそうです。そして、娘さんはご両親がくれたっていう鈴を持って自らこの橋桁の石室に入ったんですよ」
老婆は耳に手をやって何かを聞くような仕草をする。
「今でも娘さんは鈴を鳴らしてるんです。水害から村を守ってくれている証にね」
「それで鈴鳴りですか」
「ええ、観光の方でも偶に聞こえたという方がいます。きっとその方にはご利益がありますね」
俺はペンキで赤々と塗られた橋を眺めた。
「昔からあるにしては随分新しいよな」
「何度も改修していますから。最初は小さな橋だったのがどんどん豪華になってね。それも全部代々地主さんの子孫がやったんですよ」
「へえ……」
橋の根元は硬い石で固められていた。豪華な橋には不釣り合いなほど武骨で堅牢な支えだった。
橋の向こうから制服姿の女子が歩いてくるのが見える。
そのとき、鼓膜が爆発するような激しい鈴の音が聞こえた。
台風の日にしまい忘れた風鈴が風に暴れているような音だ。
切間と老婆は平然と会話している。話の内容が聞こえないほどの音量なのに。
「また俺だけかよ……」
耳を塞ごうと聞こえる音に頭を振ったとき気づいた。
俺だけじゃない。橋の中腹にいる女子高生も同じように耳を塞いで蹲っている。
そいつが一瞬顔を上げ、俺と目が合った。
女子高生は俺を睨みつけると、立ち上がって一気に橋を駆け抜けた。
俺の脇をすり抜けるとき、そいつは俺に呟いた。
鈴の音の中でもよく聞こえた。
「あんたも?」と。
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