三、火中の神
視界の隅でまた火花が爆ぜた。
木々の隙間で歪な丸い物が蠢いてる。表面は所々が焦げてひび割れ、乾いた土に似ていた。
いつの間にか切間と日下部は少し先を歩いていた。俺は足を早めて追いつき、切間の耳元で囁いた。
「おい、もう帰ろうぜ。絶対にやばいもんがいる」
「俺たちの仕事はやばくて当たり前だ」
切間は素気無く答え、足を早めた。
刑事のくせに勘の鈍い奴だ。やばいものを見るのと、やばいものが寄ってくるのは違う。動物園で虎を見るのは安全でも、市街地で出くわしたらそうは言えない。
坂道の先は少し開けて、木の代わりに、膝下程度の高さの石が乱立していた。
「これは……?」
切間の問いに、日下部が頷く。
「お墓のようなものですね。亡くなった方じゃなく失踪した方のもあります。どこかで無縁仏になっていても可哀想ですし、一応供養ということで」
「これが墓石ですか……」
「ちゃんとした墓石は作っちゃいけない決まりなんです」
これ以上日下部に聞いても仕方ない。俺と切間は近づいて確かめる。
風雨に削られた石は白く小さく、骨が直接地面に刺してあるようで不気味だった。切間は目を細めた。
「名前がひとつも書いてないな」
言われてみると、確かに石の表面には何の文字もない。
「古くなって削れたんじゃねえか。しばらく失踪者は出てないらしいし」
「一番新しい物は少しくらい字が残っていてもいいはずだ」
切間は振り返って、日下部に尋ねた。
「日下部さんのお祖父様のごきょうだいのものは?」
「ええと……」
日下部の答えは相変わらずぼんやりしている。
「お名前がわかればこちらで探しますが」
「わからないんです」
「わからない?」
切間は俺に背を向けていたが、眉間の皺を濃くしているのが想像できた。
「歳が離れていて覚えていないということですか」
「それもわからないです。兄なのか弟なのか、姉なのか妹なのかも」
「そんなことあるかよ……」
俺は呟いて、並ぶ墓石の後ろ側に回った。日下部の話では石碑があるらしいが、それらしきものは見当たらない。
墓の向こうは草むらになっていた。鬱蒼とした草の中に、半分へし折れた石造りの灯籠のようなものがある。
「これ……」
俺の声に切間が振り向いた瞬間、辺りが電気を消したように暗くなった。
どろりとした闇が垂れ込め、何も見えない。息が詰まるような静寂に火花が弾ける音だけが聞こえた。心臓が鼓膜に張り付いたように自分の脈が煩く響く。
「烏有!」
切間の声に俺は正気に戻った。暗闇に目が慣れてきて、奴が日に焼けた顔を青くして近寄ってくるのが見える。真夏のはずなのに、死人の肌のような冷気が首筋に触れて、俺は腕を擦った。
「日が沈んだ訳じゃねえよな……」
「流石にこんな急じゃねえよ。それに日下部はどこに行った」
切間は太い眉を顰める。刀身のようにするどい草葉と、朧げな石の欠片の輪郭もわかってきた。ここはさっきの墓場だ。
「だから、帰ろうって言ったんだ。ヤバかったじゃねえか。それともこれも当たり前か?」
切間は俯くだけで反論してこない。決まりが悪くなる。
闇の向こうから焦げるような臭いが流れてきた。俺は鼻を覆う。
「焦げ臭え。しかも、人間の髪が燃える匂いだ」
「何故知ってる?」
切間が怪訝に俺を見た。
「勘違いすんなよ。ひとの髪燃やした訳じゃねえぞ。俺自身ももやられてねえけどな」
俺の仕事仲間がヘマをやってヤバい奴らに捕まったとき、ライターで前髪を炙られてたときに嗅いだ匂いだ。俺は奴を助けられなかったが、俺がぶん殴られたときはそいつは逃げたしおあいこだ。思い出したくもない。
切間はそれ以上聞かず、俺の肩を軽く叩いた。
「何だよ」
「何でもねえよ。ここにいても始まらねえ。何か手がかりを探すぞ」
切間が踵を返したとき、大量の蝉の声が一斉に鳴き出したような音が炸裂した。
音と共に強烈な赤い光が膨らみ、目が眩む。
俺と切間は言葉を失って立ち尽くした。
さっきまで墓石が並んでいた場所、俺たちの目と鼻の先に炎がひしめいていた。
違う、いるのは大量の死装束の人間だ。人間と言っていいかわからない。地面に正座して合掌した奴らの首から上は、蝋燭の炎のように燃え盛っていた。
俺が見た村人の様子と一緒だ。
「切間、あんたにも見えてるか……」
「ああ……」
夜闇を焦がし、赤く染め上げる炎の群れは、口の部分が空洞になり、そこから一心に念仏を唱えている。
鼓膜から脳髄まで侵食するような響きに気が遠くなりかけたとき、切間が俺の腕を掴んだ。
硬い感触に意識が現実に引き戻される。
切間は蝶の鱗粉のように舞う火の粉の向こうを指した。ごう、と強風のような音が響いた。
草むらの先から、地上に落ちた太陽のような輝きが近づいてくる。
それは、煌々と赤い炎に全身を包まれた巨大な人間のように見えた。前の村で見たのと同じ、理解不能で太刀打ちできない存在だと一目でわかる姿。
あれがこの村の神だ。
炎の神が足を止めた。目もないのに俺たちを見たと直感した。
「退くぞ」
俺が答える前に、切間は俺の腕を強く引いて下り坂を駆け出した。
足元がぐらつく。錯覚じゃなく、地面が動物の内臓を敷き詰めたように不気味に柔らかかった。
左右の木々から雨のように火の粉が降っている。木の上からくぐもった呻きが聞こえた。見なきゃいいのについ見てしまう。枝の間から突き出した無数の手足が炎に包まれて蠢いていた。最悪だ。
切間が急に足を止め、俺の手を離した。
見開いた目は坂を下り切った先を凝視していた。道を塞ぐように巨大な墓石に似た石碑が聳え立っている。中央には字が彫り抜いてあった。
「火中の神……?」
それがあの炎の巨人の名前か。切間は息を整えながら石碑の裏に回り込み、更に顔を青くした。
「何があったんだよ」
俺も切間を追って裏側に回り込み、息を呑んだ。石碑の裏には夥しい数の名前が彫ってある。
読み方のわからないものから平凡な名前まである中のひとつに目が止まった。
「日下部……」
ひとつだけじゃない。目を凝らすと、日下部という名字が大量にある。あの家系が祭りで何かの役を務めていたのと関係があるのか? 爪で掻いたような無数の文字と蝋燭頭の死装束の群れが重なる。
「そうか……」
切間が口元を抑えて言った。
「ここの神は小さくて悪いものを燃やしてくれるって言ってたよな」
「ああ」
「悪いものの存在を忘れていれば問題ないから記録を残さなかったとも言ってた」
「それが何だよ」
切間の額を汗が伝う。
「たぶん、火中の神は悪神やそれを燃やす神を知っている者ごと消してるんだ。失踪や不審死は恐らく神に消されたんだろう。そういう類の神を知ってる」
「マジかよ……」
俺は石碑の文字を睨む。
「じゃあ、あの死装束は?」
「日下部の話からの推理だが、祭りの度に村の誰かが火中の神の役目を引き継いでるんだ。悪神たちの存在を知る者全ての穢れを請け負って、悪いものを纏めて焼くために祈り続ける。日下部の親戚が最後に役目を請け負った……」
「祭りはもう不要つってたよな? じゃあ、何で」
「……俺たちが調べに来たせいかも知れない」
「何?」
「神の存在を忘れていれば問題なかったのに俺たちがほじくり返した。だから出てきたんだ」
ごう、と炎が燃え盛る音がした。
振り向かなくても地面の強烈な照り返しでわかる。火中の神が真後ろにいる。
切間は俺の肩を掴んだ。
「お前は逃げろ。責任は俺にある」
「何する気だよ」
「神を知ってる者がいなきゃいいんだ。お前は忘れたふりをしろ。詐欺師ならできるだろ」
そういうと、切間は踵を返した。
俺が振り返れずにいる間に、切間の足音が遠ざかり、炎の音が強くなる。
冗談じゃねえ。だが、何をすればいい。
切間の言葉を思い出す。詐欺師にできることは何だ?
足下に木の枝が落ちている。
俺はそれを拾い、シャツを脱いで巻きつけた。ライターを取り出し、何度も擦る。手が震えて上手くつかない。火の粉が飛び、やっと火がついた。
俺は松明じみた木の枝を持ったまま、坂道を見上げた。切間の神の姿が遠い。
俺は駆け出した。
掌の皮膚がじりじりとひりつく。
俺は走りながら坂の両端の灯籠に燃える枝を突っ込んでいった。蝋燭もないのに火は次々と灯る。
赤に包まれる坂の上に切間が背を向けて立っていた。その先に燃え盛る巨体の神がいる。
俺は松明を高々と掲げた。何も知らずに祭りに参加しに来た馬鹿な都会人のように。
神の炎の芯に目のような穴がふたつ開き、ゆっくりと細くなった。
切間が振り返った瞬間、闇が消えた。
気がつくと、夕暮れの坂道にいた。
足元には小さな墓石が散らばっている。草むらの先の石碑も薄ぼけた輪郭で赤い陽光を反射している。
炎の気配は微塵もない。
切間を見ると、俺と同じように困惑しているのがわかった。
「そろそろ終わりましたか?」
日下部が相変わらずぼんやりとした声で聞いた。何事もなかったかのような日暮れだった。
俺と切間は曖昧に頷いた。
日下部と別れて、車を停めた山道の方へ向かう。
前を歩く切間が独り言のように言った。
「さっき、何した?」
俺は足元の砂利を蹴りながら答える。
「火を焚いて、松明つけて、祭りの日みたいに見せかけたんだよ。俺たちが調べに来たのが悪いなら、調査じゃなく祭りに来ただけってことにすりゃあいい。何も知らずに楽しんで帰りましたってことにな」
切間は信じられないという顔をして溜息をついた。
「詐欺師だな」
俺は肩を竦めた。
静かな虫の声が木々の間から染み出していた。シャツを焼いたせいでタンクトップから剥き出しの腕が を冷気が刺した。
切間は背を向けたまま言った。
「悪かった。お前の忠告を聞くべきだった」
俺は言葉に詰まり、また足元の砂利を蹴った。
「謝るのが刑事の仕事かよ。それよりしっかりしてくれ」
切間はそれ以上何も言わずに足を早めた。誰かに真剣に謝られたのは何年振りだろう。
梢の間から赤光が差して一瞬身構えたが、ただの夕日だった。
本当に俺は神を騙せたんだろうか。そうかもしれない。人間は信じたい嘘を信じる。神だって同じだ。
忘れられるのが本懐の神だろうが、内心信じられたいんだ。
見せかけの祭りに嬉しそうに目を細めた神の姿が浮かぶ。
いいや、わかっていて騙されてくれたのかもしれない。
悪神も、守り神の恐ろしい実態も、皆どこかで気づいているのに知らないふりをしている。
「火中の神か……」
日下部の親戚たちはずっとあそこにいるんだろう。
村を守るために、自分を犠牲にして嘘をつき続ける。信じられない話だ。
嘘ってものはもっと身勝手で、自分のために使うものだと思う。少なくとも俺はそうだ。
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