二、火中の神

 山を下ると、水の音が聞こえた。


 茂みの隙間から細い川が流れているのが見える。

 頭から突っ込んで目蓋に張りついた火の幻覚を洗い流したかった。

 太陽の光を反射する水面の輝きが炎の照り返しに見えて、俺は目を逸らした。



「また何か見えたのか」

 切間が不機嫌そうに尋ねる。少し迷ったが、こいつは何を言おうが葬式みたいな面だ。気を遣う必要もない。

「さっきのおっさんの頭が……燃えて見えた」

「頭が、燃えて?」

「おう、蝋燭みたいに。あの森の火に向かって拝み出したときからだ」

 切間は黙って考え込むような仕草をした。


「こんなこと聞いても役に立たねえだろ」

「役に立つかどうかは今後の俺たち次第だ。妄言かと思った証言が真実だったこともある」

「そういや刑事だったな」

 案の定、切間は辛気臭い面で前に向き直り、道端の小石を蹴り飛ばした。

「足で稼ぐ商売は今でも変わらねえ。聞き込みに行くぞ。関係者に連絡を入れてある」


 関係者がどんな奴でも構わないが、頭が燃えていないことを祈った。化け物みたいな神の調査をしている最中で、何に祈ればいいのかはわからない。



 向かった先は、ごく普通の田舎の民家だった。木の表札には日下部くさかべと書かれている。

 磨りガラスの引き戸の前に、乾き切ったアロエの鉢と錆びた自転車が置いてあり、ひどく陰気だった。


 切間は手の甲で数度ノックした。借金取りのようだ。

 気弱な返事が聞こえ、中から痩せた大学生くらいの男が出てきた。長い前髪から覗く顔が白く、墓場の蝋燭を想像して、燃え上がる頭まで思い浮かべたが、男は軽く会釈しただけだった。



 日下部は俺たちを玄関に通した。

 入った瞬間、病人の匂いがした。床がベタついて勧められたスリッパの底が張り付く。廊下の隅に綿埃のような抜け毛が落ちていて、長患いの病人がいるに違いないと思った。


 居間に入ると、匂いが強くなる。案の定、破けた襖の隙間から介護用のベッドが見えた。カーテンを開け放った窓からどろりとした陽射しが降り注ぐ真下に、干からびたような老人が寝ているんだろう。

 日下部は襖を閉じたが、し尿と薔薇の芳香剤の匂いが漏れ続けていた。



「日下部さんのお家は代々村のお祭りを取り仕切っていたとか」

 切間は勧められた椅子に腰掛け、咳払いしてから切り出した。御多分に洩れず同席する俺に不思議そうな視線を送って、日下部は曖昧に頷いた。


「はい、そうなんです。うちの祖父の代で祭りもやらなくなっちゃったんですけど……」

「どのようなお祭りだったんですか?」

「何というか……祭りの日に村のみんなで松明とかで夜通し明かりを焚いて森から村の方まで行き来して昼間みたいに見せかけるんです」

「昼間みたいに、ですか」

「はい。そうすると、神様が昼間だと勘違いして夜でも降りてきてくれるっていうことになってたんです」


 襖の向こうで金属を引っ掻くような音がした。老人が呻いたのだろう。日下部が気まずそうな顔をしたので、俺はわざと音を立てて前に置かれた麦茶の容器を引いた。


「あっ、すみません。気が利かなくて」

 日下部は慌ててグラスを三つ並べ、麦茶を注ぐ。切間が机の下で俺の足を踏んだ。気が利かないのはこいつの方だ。



「それで……祭りの日というのはいつだったんですか」

 切間は結露で汗をかいたようなグラスを掴んだ。

「毎年変わって、決まった日とかがあるんじゃないんです。ただ、一番悪いものが出てくる日と聞いていました」

 切間は怪訝に眉を顰めた。

「悪いもの?」

「はい。何でもこの村で太陽の神様を祀るようになったのは、夜に嫌なものがたくさん出るって言い伝えがあったからなんですよ」



 黄ばんだ襖の穴から痰の絡んだ声が漏れた。

「お爺ちゃん、今お客さん来てるから」

 日下部が後ろに向き直って声を張り上げる。 

「いま……」

「そう、今来てるの。ちょっと待ってて」

 老人が湿った咳をした。

「すみません、ちょっと呆けちゃってて」

 切間が片手を振って構わないと示す。


「悪いものと言うと、具体的にどういった?」

「それが、わからないんですよ。よく心霊番組で言うような地縛霊とか動物霊みたいなものですかね」

 日下部は細い顎に手をやって考え込む。本当にこいつは村の祭りを取り仕切るような家の息子だろうか。何も知らないにも程がある。


「記録か何かは残っていないんですか」

 切間の問いに、「昔のアルバムなら」と、答えて日下部が席を立ち、隣の部屋の襖を開けた。


「い、ま……」

 ベッドの上の老人が手を震わせる。影は逆光で濃くなり、黒く焦げた人形のようにも見えた。

「今じゃなくて居間か。リビングはお客さんが使ってるから、帰ったらね」



 日下部は老人を嗜め、ベッドを整えてから戻ってきた。

 手にはA4ノートほどの薄いアルバムがあった。写真屋で無料でもらえるようなやつだ。俺自身は家族と写真を撮った記憶はないが、知ってはいる。



 古い糊で張りついた頁を剥がして開くとセピアカラーの写真が数枚貼られていた。

「これだけか?」

 思わず口にしてから切間を見ると、同意見だったらしく無言でアルバムを見下ろしていた。


 少ない上に画質も悪い。暗闇の中で強い光源を撮ったからか、白飛びして松明を持つ人間の指先と森の茂みの輪郭程度しか見えない。日下部の先祖は相当写真が下手くそだ。


 そう思ってから、不意に嫌な憶測が頭を過ぎる。

 日下部はこの村の神や祭りに無知すぎる。写真もろくなものが残っていない。

「わざと記録を残さねえようにしてんのか……?」


「あ、よくわかりますね」

 日下部が呑気に手を打った。俺と切間は顔を見合わせる。


「実はお祭りをやらなくなってから写真とか手順とかほぼ処分されてるんですよ。お爺ちゃんが村のひとと燃やしたって言ってました」

「何故?」

「よくわかりませんけど、神様って信じれば救ってくれるっていうじゃないですか。悪霊とかも同じで、人間がいると思えば悪さをするから、思い出さないようにした方がいいってことらしいです」

 相変わらずぼやけた答えだ。



「そもそも、何で祭りをやめたんだ」

「必要なくなったらしいです」

 日下部はアルバムをバリバリとこじ開けて最後の頁を指差した。

 写真には細面で男か女かわからない人物が着物姿で立っていた。場所はこの家の前だ。


「祖父のきょうだいで、霊媒師みたいなことできたとかなんですが、このひとがやめていいって言ったらしいです」

「このひとは今?」

「それが、大昔に蒸発しちゃったらしくって……」

 日下部はバツが悪そうに俯いた。


「そいつも消されたんじゃねえか」

 切間に囁いてから脇腹か脛への衝撃を待ったが、奴は深刻な顔で黙っているだけだった。どついてもいいから否定しろよとも思う。



「まだ記録が残っていそうな場所に心当たりはありますか」

 切間は長考の末に口を開いた。

「後は……ちょうど森の方にあるお墓とかですかね。卒塔婆とか石碑にちょっとだけ何か書いてあったと思います。案内しますね」


 日下部はスリッパを鳴らして、慌ただしく隣の部屋を開けた。

「お爺ちゃん、ちょっと出てくるから」

「いま……」

「わかったって」


 窓から強烈な光が射し、俺は咄嗟に顔を上げる。日下部が寝かしつける老人の頭が橙色の炎を纏って燃えていた。

 椅子から飛び退きかけた俺を、老人が孫の肩越しに見る。炎の芯に空いた空洞が動いたが、声は掠れて聞き取れなかった。



 サンダルを突っ掛けた日下部に伴われて家を出た。

 傾きかけた日はまだ凶暴な暑さを保っていて気が滅入る。あの火にずっと纏わりつかれているみたいだ。

 遠くでサイレンの音がした。


「近いな」

「夏はよくあるんですよ。高齢のひとが多いのも理由ですけど」

 日下部は言葉を濁し、音の方向を眺めた。

「お祭りをやってた頃はもっと多かったらしいです」

「ひと死にが、ってことか?」

 今度こそ脛に重い一撃が入って俺は切間を睨む。

「暴力刑事が」


「うちの家系でも夏に亡くなった方が多いみたいです。数年に一度は誰かが……それがなくなったのは、やっぱり悪霊がいなくなったからですかね」

 日下部は眉を下げて苦笑した。



 森にある墓地へと続く坂道は徐々に急になった。

 どろりとした夕陽が俺たちの影を引き伸ばした。

 両端から不定形な影が道の中央に向かって垂れ込めていた。見ると、灯籠のようなライトが茂みに半ば埋もれながら林立している。


「これはお祭りのときに火を灯したものですね」

 日下部は歩きながら指差した。

 明かりの灯らない灯籠から影が伸び、アスファルトを濡れたように黒く染める。木々のざわめきが騒がしい。



 俺が目を背けたとき、蛍のような光が前を過ぎった。何かが小さく爆ぜる音がした。

 蠢く影と、一粒の火の粉を見ながら、俺は日下部家の老人の声を思い出した。


 きっと、いま、は居間じゃなく今だ。本来あったはずの祭りの日は今日なんじゃないだろうか。

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