一、火中の神
真夏の午後の日差しが差し込んで、窓枠が拷問器具のように熱を持っていた。
カーテンを閉めようとして肘をサッシにぶつけた凌子は、慌てて腕を引っ込めた。
「すごい熱。火傷しそう」
誤魔化すように眼鏡を押し上げる仕草はどう見ても警察関係者とは思えない。
警察署の奥に押し込められた対策本部に流れる空気は静かだった。たぶん、馬鹿みたいに張り詰めた切間がいないからだ。
クリーム色のカーテンを閉め、
「初仕事はどうだった?」
「訳わかんねえよ」
「正解」
答え方も教師然としていた。
「わからないものに無理矢理納得いく解釈をつけないことが大切なの。いろんな可能性を見失ってしまうから。領怪神犯は訳がわからないのが当たり前だからね」
俺は肩を竦めた。ひとに褒められたのは数年ぶりだ。お袋が死んで以来だと思う。
「でも、わかってることもいくつかあるから。疑問に思うことがあったら聞いて。
「じゃあ、何であんただけ下の名前で呼ばれてるんだ」
凌子は眼鏡の奥の目を瞬かせて微笑んだ。
「名字で呼ばれるのが苦手なの。気に入ってなくて」
「どんな名字だよ」
答えはない。
「最初の文字は?」
「み、だね」
「……
「それは全国の御手洗さんに失礼」
凌子が苦笑する。
「珍しい名前じゃないよ。ただ地元に多い名前だから、昔の知り合いに会っても面倒だしね」
本棚を見るついでに向けられた背はそれ以上聞いてくれるなと告げるようだった。
沈黙に耐えかねた頃、殺人現場を見てきたばかりのような顔の
「烏有、仕事だ」
机の上に使い古されたリングノートが投げ出され、付箋を貼った頁が広がった。
「今度は何処?」
凌子が後ろからノートを覗き込む。
「どうせ何処でも化けモン騒ぎだろ。暑くねえなら何でもいい」
罫線に沿って貼り付けられた写真には、青白い暗闇の中央にフラッシュを焚いたような鮮烈な光が走っていた。下手くそな奴が撮ったのかと思ったが、違う。
使い捨てカメラの画質では写しきれない強烈な光だ。
「残念だが、下手したらこの世で一番暑いところかもな」
切間が俺を見下ろして吐き捨てるように呟いた。
ワンボックスカーのタイヤがデカい石を踏んでぼこん、と跳ねた。
「下手くそ」
運転席の切間が俺を睨む。
「じゃあ、お前は歩くか」
助手席のシートでこいつの運転を眺めていて思ったが、センスがなさすぎる。
地面から突き出した木の根や石ころを馬鹿正直に踏んで、毎回車をバウンドさせる。到着する前に全身が痣だらけになりそうだ。
車は黒くしなだれかかる木々と黒い土でトンネルのようになった山道を進んでいた。細い道には光が差さず、直進するたび飛び出した枝が車体の腹を引っ掻いた。
産道のようだと何となく思う。
気が滅入りそうな暗がりの中を進んでいくと、道の端に茂みを抉り取って詰め込んだような小さな祠が突然現れた。
三角形の屋根はほとんど腐りかけ、紙垂は雨風で茶色ずんで千切れている。観音開きの扉は開け放たれていたが、中は黒く汚れて何が入っているか見えなかった。
タイヤがまた木の根に絡め取られて速度を落とす。
だから、祠の中をじっくり観察する時間ができてしまった。
見なきゃよかった。影で黒くなっているんじゃない。神像や仏像なんかが収められているはずの内部は、うっかり蝋燭を倒して燃やしてしまったように煤がこびりつき、焼けた木板がささくれだって炭化していた。
「なあ、今回の神ってのは……」
俺が言いかけたとき、向こうから光が差して切間がブレーキを踏んだ。
祠はもう後方の茂みに埋もれて見えなくなっている。
前には開けた空間が広がっていて、村民らしい初老の男が脇の汗染みを見せつけながら俺たちに手を振っていた。
降車した切間が警察手帳を見せると、男が腰を折り曲げる。
「東京からわざわざご苦労でした……」
わざとらしいほど丁寧な挨拶の後、男は目を止めて困り果てたような表情をする。来る途中でケチな犯罪者でも捕まえてきたのかと言いたげな面だった。
「こっちも関係者です、ご心配なく」
運転と同じくらい下手な言い訳をして、切間は俺の背中をどつく。仕方なく会釈すると、男も曖昧な礼を返した。
「この辺りに古くから村で信仰されている守り神の社があるとか」
俺たちを先導するように深くなる森を進む男の背に、切間が声をかける。
「ええ、そうです。平たく言えば太陽神ですね。まあそれだけなら何処にでもありますが……」
男は早くも息が上がったようで、わずかに苦しそうに答えた。
「天照大神ですか。神明神社の総本山は伊勢ですが、全国に分布していますからね」
「そうです。よくご存知で……」
俺が話について聞けず、木の上で針のような枝を啄んでいる鳥を眺めていると、切間が声を顰めて囁いた。
「天照大神ってのは日本神話にある太陽神だ。元々有名な神だから古代の天皇たちが自分の権威づけに使った。中でも、持統天皇は皇位を継承するはずの息子が死んで自分が即位したときに、自らと神と同一視させて権力を高まるために、各地に太陽信仰の神社を設けた。義務教育でそれくらい習うだろ」
「その義務教育をろくに受けてねえんだよ」
切間は吊り気味の目を丸め、バツが悪そうに視線を泳がせた。
「詐欺師なら使えそうな情報くらい仕入れておくんだな」
そう言って、切間が足早に男の後ろを追い始めたとき、急に周囲の温度が上がった気がした。ぱち、ぱち、と柏手に似た音がする。
茂みの中を鱗粉じみた赤い粉が漂った。どこかで火を焚いている。
「こちらです」
男が足を止め、指を差した。
俺と切間は息を呑んだ。山の奥にあるはずのない真っ赤な炎が燃え盛り、森を茫洋と輝かせていた。
千切れた炎が飛び立つ蝶のように宙を舞い、陽炎を起こして滲む。枯れ木が燃えて爆ぜる音が強くなった。
「うちで言う太陽神っていうのは、太陽より炎に近いんですね。夜が来ると隠れてしまう太陽と違って、こうしてずっと昼も夜も燃えてるんですよ」
男は眉を下げて言った。
絶句していた切間が俺に視線を向ける。
どう見たってこれは炎だ。太陽が地上で燃えるはずがない。またろくでもないものが蔓延っている。そんな予感がした。
「この辺りには昔から悪さをするものがよく出まして。来る途中祠を見ませんでしたか。仕方なく神様として祀るしかない悪霊みたいなものがたくさんいたんですよ」
男は俺たちの疑念を余所に、両手を合わせて穏やかに合掌した。
「でも、昭和の初め頃ですかね。急に森の奥がこんな風に光り出して。最初は驚きましたが、それ以降悪さをするものは何も出てきません。神様がまとめて燃やして村を守ってくださってるんですよ」
「それはそれは……」
間の抜けた答えを返した俺の脇腹を切間が小突く。
「そう言うしかねえだろうよ」
男は苦笑してから少し声を落とした。
「でもね、最近なぜか光が強くなってるんですよ。神様に何かあったんじゃないか、また悪さをするものが出始めてそれと戦ってるんじゃないか。心配でお呼びした次第なんですよ」
男の顔は心底不安げだった。
「この光が出たきっかけのようなものに心当たりはありますか?」
切間の問いに男が首を横に振る。
「では、その悪さをするものやそれがまた現れるきっかけは?」
また否定の合図が返ってきた。
「すみませんねえ。でも、私が子どもの頃からずっと平和でしたし、もうそういう記録がないんですよ。悪いもののことは覚えてない方がいいって言うんで村の老人たちも教えてくれませんでしたしねえ」
呟く男の横顔が炎に包まれた。俺は声を上げて後退る。
真っ赤なベールを幾重にも重ねたような火を纏った頭がわずかに傾いた。
「どうかしましたか?」
燃える火の芯がぼっかりと黒い穴を開け、言葉を紡ぎ出す。切間が眉間に皺を寄せて俺を見た。
やっぱり、俺にしか見えていない。
「何かおかしなことがあったら教えていただきたいんですが」
燃え盛る紅炎を頭に灯した男は蝋燭のようだった。
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