三、蓋を押す神
切間が銃口を突きつけるような顔でペットボトルの水を差し出した。
俺は受け取った水で口をゆすぎ、足元の側溝に吐き出す。酸の味がまだ奥歯に残っていた。煙草で苦味を上書きしたいと思ったが、捕まったとき没収された。
切間は何も言わず俺が話すのを待っていた。こういう奴にハッタリは通じない。
「俺の先祖は拝み屋だったらしいんだ」
喉の奥がまだ痛む。
「病気が流行ってる村を回って、祈祷の真似事して金をせびるだけの詐欺師だ。その頃から家系にイカれて死んじまう奴が多くて、まともな仕事に就けなかったんだろうな。旅の最中に病気をもらったんだって爺さんが言ってたけど、違う。俺も死んでった奴と同じだ」
俺はかぶりを振った。
「見たくねえもんが見えるんだよ」
背後にまだ黒い影がこびりついているような気がした。
切間は俺を見下ろしたまま深い溜息をついた。
「親の因果が子に報い、か」
俺は肩を竦める。
「で、何が見えた?」
見たものの話は親にもしたことがない。だが、神だ何だを真剣に追いかける同じくらいイカれた奴になら言ってもいいだろう。
「黒い、溶けかけた人間みたいな影がたくさん。役所の爺さんの後ろにも見えた。それから……」
俺は筆が折れそうなほど押し当てて描いた黒い線のような山稜を指す。
「あの山のてっぺんに二本の腕が見える」
切間は目を見張った。
たぶん隠していた情報があるのだろう。超能力にトランプを透視させるように、俺が言い当てるか試していた。
そして、言い当てて終わる訳がない。あの山に行って、実際に神とやらを見つけて真相を解明するまでが仕事だ。
うなだれる俺の首筋を強い日差しが啄ばんだ。
想像通りに俺と切間は山へ向かう道を進む羽目になった。
陰鬱な林が続く上り坂の端に、崩れたブロック塀や赤く錆びた鉄塔の残骸があった。炭鉱が未だに稼働しているんじゃないかと思うほど蒸し暑い。
影が視界の端を過って思わず身構えると、背後の切間が早く行けと急かす。
「デケえんだよ。影になるから後ろに立つな。日時計かよ」
切間は不機嫌そうに睨んでから俺を追い越した。
土に埋もれた線路の跡に躓かないよう歩いていると、巨大な茶色い一升瓶のようなものが見えた。
「何だあれ」
「焼成炉だな、煉瓦造りは珍しい」
目を凝らすと、塔の真ん中に穴が開いてかまどのようにも見えた。
「耐火原料の加水ハロイサイトか何かを加工してたんだろう。炉自体も耐火煉瓦だから未だに残ってる」
「お若いのによくご存知ですね」
急に響いた声に飛び退きそうになった。
振り向くと、焼成炉の影から老婆が欠けた歯を見せつけて笑っていた。間違いなく生きた人間だ。
「どうも。調査に伺う途中でして」
切間の事務的な答えに老婆は鷹揚に笑う。
「あの音ですか? 最近響きますからねえ」
切間は片眉を吊り上げた。
沈黙を木々のざわめきと枯れ枝が軋む音が占める。ピシピシと鳴る微かな音。木材じゃない。もっと硬い音だ。
鈍色の鉄に少しずつ亀裂が入るのを想像する。
「蓋を押す神」
老婆の歯から空気が漏れた。
「私たちはそう呼んでますけどね」
ガタガタと先ほど聞こえた重たい音がした。
「ここは火山だったんですよ。今は大人しいですけど、大昔はしょっちゅう噴火があって、黒と赤の溶岩で山が爛れたみたいになりましたから、地獄に一番近い山なんて言われましてね」
老婆の足元の土は黒く気泡のような穴が空いていた。爛れた影に似ていて俺は目を逸らす。
「喉元過ぎれば、ですね。噴火が収まってから欲をかいたひとが危ないっていうのも聞かずに鉱山が開きまして。埋まってたものを掘り返すでしょう? それからですよ。あんな黒い影が出たのは。みんな、地獄から出てきたんだって言いますね」
俺と切間は口を噤む。老婆は表情を柔らげた。
「でも、うちには守り神様がいますからね。穴ぼこに蓋をして、その下からずっと何かが出てこようとしても、押さえつけて守ってくれてるんです。山が開かれるまで神様を見たひとはいないんですが、村が危なくなってから守るために降りてきてくれたんですよ。地獄からあれが出てこないようにね」
俺は木の天蓋に阻まれて見えない山頂に目をやった。山に突き込まれた二本の腕は神の姿って訳か。
老婆と別れて、俺と切間は再び歩き出した。
「蓋を押す神だとさ、知ってたのか?」
切間は険しくなり出した山道を進みながら頷いた。
路肩に朽ちた鎖があり、「閉山」「立入禁止」のプレートが落ち葉に覆われていた。
山に入るほど熱気が濃くなる。
「守り神がいるならそいつに任せておけばいいんじゃねえの」
息が上がり出して喋るのが辛い。
「村の人間もそう思ってるだろうな」
切間は短く答えた。
「なら、尚更……」
「お前はどう思った?」
枝に隠れていた鴉が飛び立った。黒い影が頭上に落ちる。
「守り神に見えたのか」
羽音は遠かったのに影が消えない。鳥の形じゃない。俺は見えない振りをする。
「神には詳しくねえよ」
「証言に惑わされるな。自分の疑いを信じろ」
切間はそれ以上何も言わなかった。
無言で山を登る。
影が目の端から染み出すように増えていく。
扉ががたつくような音も徐々に大きくなっていく。
木の幹の間を埋め尽くすように爛れた影が現れ、黒い汁が濡れた土を更に濃くした。
守り神なら何も警戒しなくていいはずだ。
自分に言い聞かせるが、ちらつく影が不安を煽る。
熱い呼気が首筋や耳元に触れた。
顎と首の境がなくなるほど溶けた人型が俺の周りを囲む。剥き出しの歯が笑っているように見える。
ガタガタ、ピシピシと鳴る音。
守り神のはずなのに、何でこの音は影と同じくらい不気味に感じるんだ。
「着いたぞ」
切間の声に顔を上げると、周囲の影が消えた。
熱気はまとわりついたままだ。
音が直接鼓膜を揺さぶるように大きくなっていた。
沸騰して今にも飛びそうな鍋の蓋を無理矢理押さえるような音が木の合間から響いている。
「あんたにも聞こえてるか」
切間が首肯を返し、一歩ずつ足を進めた。俺はその後を追う。
足元の土が焼け爛れた皮膚のように黒くかさついている。きっと溶岩の後だ。
火傷を突き破るようにして生えた皮の剥がれかけた木の隙間に、ひときわ太い二本の幹が見えた。
山頂の更に上の雲から降ろされた腕が小刻みに震えていた。
血管が浮き、筋が硬直し、力を込めているのがわかる。
そこだけ木を刈り取り、地面にはめた巨大なマンホールじみた蓋を、腕が押さえつけていた。
蓋は下から飛び出そうとする何かの力で浮き沈みを繰り返し、手のひらがそれを押し返す。
切間が息を呑む音が聞こえた。
「あれが蓋を押す神か……」
ガタガタ、ピシピシと震動が耳朶を伝う。
乾いた細かい音は蓋に亀裂が入る音だ。その度に、蓋の表面から煤塵のような靄が散った。
「あんたにも見えてんだよな」
「ああ」
嘆息するような答えから、違うと思った。
湿気と熱が黒く輪郭を帯び、木陰から滲み出す。
影たちは蓋の周りを取り囲むようにゆっくりと周りだした。踊っているみたいだ。
蓋がひときわ大きく跳ね、蓋を押さえる腕が強張る。
ああ、やっぱり俺にしかわからない。
「何が守り神だよ……」
切間が俺を見た。ぐるぐると周回していた影が動きを止め、一斉に溶けた顔を俺に向けた。
二本の腕は変わらず蓋を押し続ける。中央を押す親指に力が込められている。まるで、硬い胡桃の殻を割るように。
「押さえてるんじゃねえ。押してるんだ。外開きじゃなく内開きの扉みたいなもんだ」
影たちが黒い唾液を垂らし、威嚇するようにはを見せる。
「あの腕は、蓋を割って中の奴らを出そうとしてんだよ」
バタン、と音がした。
蓋を抑えつけていた腕が宙に浮く。
俺と切間は目を離せない。
飛び跳ね続ける蓋から離れた腕が揺蕩い、手のひらを緩く握った。人差し指を残して固く閉じられた手がゆっくりと俺の方を向く。
拳銃を突きつけるように、二本の指がそれぞれ俺と切間を指した。
蓋から煤塵が噴き出し、視界が黒く染まった。
気がつくと、俺は草原を背にして停車したワゴンの前にいた。
粗雑な舗装のアスファルトが頰に噛みつき、地面に倒れていたのだとわかる。
「目が覚めたか」
切間が煙草を片手に俺を見下ろしていた。
「あの神はどうなった……」
「どうもしねえよ。あいつに指さされてぶっ倒れたお前を連れて俺は山を降りた。それだけだ」
俺は節々が痛む身体を起こして立ち上がる。手に残った地面の凹凸が溶岩の跡を想像させた。
「あれ、どうすんだよ」
「そうだな、大至急蓋を何重にも重ねるよう申請する。定期的に補強もするよう伝える。村の奴らには『神の頑張りだけじゃ対抗できそうにないから助力してやれ』とでも言うか」
「守り神なんかじゃねえって言った方がいいんじゃねえか」
「言っても聞くかよ」
切間が首を振った。
「領怪神犯はその名の通り神だ。信じる人間がいる限り存在する。神をどうにかするより、信心を変えさせる方がよほど難しい。場当たり的な対処しかできねえんだよ」
俺は肩を竦めた。
切間は煙を吐く。山に霧の橋を架かった。
「俺は人間のことはわかっても怪異のことは門外漢だ。神の本質を見られる人間が必要だ」
切間が煙草を挟んだ指で俺を指した。
「領怪神犯対策本部にお前を正式に任命する」
俺には見えないはずのものが見える。
だが、領怪神犯に相対する人間のところにいれば、見えていいものになるはすだ。
嘘をつくのはもううんざりだ。
「どうせ拒否権なんかねえんだろ」
切間の皮肉めいた微笑が返った。
俺は顔を上げる。
青黒い山の頂には二本の腕が依然としてそこにあった。
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