二、蓋を押す神

 草の匂いがした。


 焼いて燻された草の匂い。

 今は野焼きの時期じゃないから、太陽に焦がされた山の草木だろう。田舎の匂いだと思った。



 俺を乗せる古い車が軋んで停車した。

 前方の運転席のドアが開く音がして、今度は俺の隣でもう一度音がし、ひといきれのような生温かい空気が吹きつけた。


「外すぞ」

 汗で手錠が滑り落ち、視界が晴れる。

 草原と一段濃い緑の山が、ワンボックスカーの車窓の形に切り取られていた。


 切間は背広のポケットに手錠の鍵をねじ込んだ。ワイシャツとサスペンダーには汗が染みて所々色が濃くなっている。

「暑くねえのか」

「脱いだら目立つだろ」

「そんな厚着してる方が目立つんじゃねえか」


 言いかけてから、切間の上着に隠れた黒く硬質な鉄の塊が覗いているのに気づいた。

 逃げたらこれで撃ち殺されるって訳だ。

 俺は気づかない振りをして車から降りた。



「どこだよ、ここは」

「何のために目隠しまでしたと思ってる」


 凪いだ熱気が首筋にまとわりつき、微熱の人間を背負っている気がする。

 青というより黒に近い色濃さの森から空気が流れていた。

 焦げくさい。どこかで火を焚いているのだと思いたかったが、俺にはわかる。

 これは生き物の脂が焼ける匂いだ。

 風は山の上から流れてきている。陽炎で歪んだ森は薄黄色の膜をかけたようだった。



 鬱蒼とした森の中に入ると、熱気が増した。

 数歩前を歩く切間のうなじから汗が落ちて背広の襟で跳ねる。

「なあ、領怪神犯ってのは何だ」

 無視されるだろうと思っていたが、切間は振り返って肩越しに鋭い視線を向けた。


「発見は明治末から大正初期にかけてだ。交通網や伝達手段の発達で、各地の辺境の奥深くでしか周知されなかった存在が明るみに出た。人間が信仰より科学に頼るようになり、神のあり方に疑問を抱き始めたのも要因のひとつだな」

「難しく言うな。こっちは義務教育もろくに受けてねえぞ」

 吊り上がった目が小さく見開かれた。


「要は科学じゃ解明できないことをやらかす存在がいろんなところにいるってことだ。昔話に出てくる妖怪をより凶悪にしたもんって言えばわかるか。それが神として畏怖や敬意を受けている」

「神ってことは仙人みたいな爺さんとかか」

「形は定まってない。ひと型もあれば巨大な扉一枚から姿がないものまである」



 切間の言葉に重なって、ガタガタと立て付けの悪い扉を鳴らすような音がした。

 小屋でもあるのかと思ったが、左右に続く靄のような黒い森には民家も人影もなかった。

「どうかしたのか?」

「いや……」

 俺は汗を拭って誤魔化した。


「そんな大昔からいた奴なら放っておけばいいんじゃねえの。大した害はねえんだろ」

「単純な善悪では割り切れない存在だが、害がないとは言えねえな」

 切間は俺から視線を逸らし、老人の関節のようにねじれた木々を見た。

「村ひとつ滅んだこともある」

「ひと死にがあったら犯人が人間じゃなくても追うってか。公務員は大変だな」


 バタン、と大きな音がした。苛立ち混じりに扉を閉めたような音だ。すぐ近くにいる切間に聞こえないはずがない。

 俺も何も聞こえなかった。そう思うことにした。



 永遠に森が続くんじゃないかと思った頃、視界が開けた。


 村の中央を貫く薄茶色の川に、錆びた赤い塗装の橋が無造作に渡され、その端にトタン屋根のバス停があった。

 その後ろに古い建物がいくつかある。疎らに立つ日帰り温泉の幟が土と雨で汚れていた。

 仕事もなければ、観光でひとを呼ぶことも諦めたような、鄙びた田舎町だった。



「役場に行くぞ」

 切間が顎で橋の向こう側を指した。四方を森に囲まれて山も近いはずなのに少しも涼しくない。それどころか、熱気が増したように感じた。


 バス停の前を通り過ぎると、錆びて欠けた円形のプレートに“鉱山跡”の文字が見えた。


「鉱山……?」

 俺が呟いたとき、視界の端を黒い影がよぎった。

 逆光で影になっている訳じゃない。全身にタールを塗ったような黒だ。

 俺は振り返らないようにした。直視しなければいなかったことにできる。



 役場は何の情緒もない段ボール箱のような色と形の建物だった。

 中に入ると、冷風と埃の匂いが吹きつけた。

 節約のためか、灯りを最小限に絞った受付は霊安室に似ていた。


「県警の切間です。お話伺って参りました。担当の方を」

 切間が手帳を取り出し、受付の女に見せる。

「県警?」

 俺が思わず聞き返すと、脇腹を小突かれた。


「あの、そちらの方は……」

 女の視線は警察手帳ではなく俺に注がれていた。

 切間は一拍おいて目を逸らす。こいつ、何の口実も考えてなかったのか。



 俺は息を吸い、女の顔を覗き込むように姿勢を崩す。できるだけ柄が悪くて話が通じない奴だと思われればいい。

「通報者だ、通報者! あんたらで勝手に口裏合わせるんじゃねえかと思って見張りに来たんだよ」


 女は露骨に嫌そうな顔をし、「少々お待ちください」と、席を外した。


 女が去ってから丸めた背中を叩かれた。

「何で通報があったことを知ってる?」

「知るかよ。ただ、こういう閉鎖的なとこが部外者を呼ぶってことは、外からの通報でもない限りねえと思っただけだ」


 切間が呆れと感嘆の混じった息をついた。

「お前みたいな若造に何で騙されるのかと思ったが、少し納得がいった」

「そりゃどうも」


 女が三つ揃いのスーツ姿の老人を連れて戻ってきた。

 冷房が効いているはずの室内に、どろりとした温い風が通った。



 俺と切間は談話室で、老人と向き合って座った。


「わざわざ県警の方にお越しいただいて。そんなに大ごとではないと思うのですが……そちらが通報者の?」

 老人はまくし立ててから俺を見る。

「通報したのはうちの婆さんだ。足が悪いから代わりに来た」

 切間が俺を睨む。ここからは余計なことを言うなという合図だ。


「通報によれば、最近こちらの村から不審な黒いひと影が行き来するのを目撃したとか」

 切間の問いに老人はバツが悪そうに目を逸らした。

「いや、こちらとしても村人の出入りまでは……」


 切間は立ち上がり、窓のブラインドを下ろした。

「私は“そういった件”を担当する刑事です。信じられないような案件も扱ってきました。どうか話していただきたい」

 老人は白髪を撫でつけた。



「ここに鉱山があったことはご存知ですか」

「ええ、高度経済成長期に鉱害を理由に閉山されたとか」

「そういうことになっています。ですが、本当のところは違う。例の影です」


 白いブラインドに一筋黒い雫が伝い、段に溜まった埃を吸って床に落ちた。水滴がリノリウムを打つ音が聞こえた。


「出稼ぎの鉱夫が妙なものを見たと言い出して、最初は取り合わなかったのですが、村の人間からも声が上がるようになったんです」

「具体的には?」

「何と申しますか、形や大きさは大人の人間くらいです。しかし、輪郭が曖昧で、頭から墨を被ったように全身が黒く、汁を滴らせて歩き回り、どこかに消えるのです」

「実害は?」

「害というのはありませんが、不気味ですし、見ればよくないものだとわかります」


 空調が轟音を立てて風を送った。

 煽られる冷風に湿気と熱気が争うように広がり出す。


「それらは山から来ているようでした。閉山の直後、男衆が影の正体を突き止めるため山に登った際、山頂に大きな丸穴のようなものが見つかりました。穴底からは影によく似た黒い塵が噴き出していました」

「それで?」

「鉱山があるというのに不甲斐ない話ですが、別の所から取り寄せた鉄を蓋に加工し、丸穴に被せました。そして、村に昔からある神社の神主の方にお祓いをしていただきました」


 老人は言葉を区切った。

「以降、影の目撃情報はない?」

「はい。ですが、ここ最近再び村で見かけた者もいるそうで」

「心当たりは?」

「蓋が古くなっているのだと思います。経年劣化で削れたのか、山の方からガタガタと響く音がすることもあります」

「蓋以外の措置は何も?」

「措置とは言えませんが、別の方法で蓋を抑えております。先程申し上げた神社ですが、私どもの村の守り神というのは少々特殊で……」



 老人は手を広げる素振りをした。

 背後で動きを真似る黒い両手から飛び散った汁が机に散る。

 限界だった。


 俺は机を蹴飛ばすように立ち上がり、談話室を飛び出した。

 廊下を駆ける。湿った足音がついてくる。

 すれ違った受付の女が俺を見る。



 役所の外の暑い空気が俺を包んだ。喉からも熱が迫り上がる。

 俺は身体を折り曲げて吐いた。

 喉の筋肉が震え、溢れた胃液が熱いアスファルトに零れて音と湯気を立てる。

 朝から何も食ってなかったことを思い出した。


 何度かえづいたとき、足元の染みに一滴の雫が落ちた。

 土の色を濃くしたのとは違う、元から黒だ。


 生焼けの人間のような何かがいる。剥き出しの歯茎から黒い汁が染み出し、溶けかけた顎と混じって垂れる。

 見るな。見たらいると認めたことになる。



「烏有!」

 声と同時に、影が消えた。

 顔を上げると、追ってきた切間が呆然と俺を見下ろしていた。

「吐いてたのか?」

「大したことねえよ。日射病か何か……」


 ガタッと耳元で音がして思わず飛び退いた。

 怪訝な顔のまま切間が俺の肩を支える。

 そのとき、ちょうど真正面から山を見てしまった。


 入道雲の裾から突き出したような巨大な二本の腕が山頂に突き込まれている。

 皮膚の下の静脈まで見えた。腕は何かを必死で押さえつけるように血管が膨らみ、震えている。



 見えないと思いたかったが、もう駄目だ。

 嘘なんかつくもんじゃねえ。

 わかっちゃいるが、そうしないと生きられねえ。

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