五、知られずの神
脳の芯を貫くような頭痛が微かに引いてきた。
宮木が俺の背中をさすっていたことに気づき、重い頭を振って立ち上がる。無意識に視線が上がって、針のような細い枯れ枝の間からそびえる神像を見た。
知られずの神を誰かに知らしめようとしたものはどこへ消えた。誰も知らない場所に連れ去られるのか、俺が三輪崎たちを思い出せなかったように、誰からも認識できないようにされるのか。
もっと最悪な、それこそ人智の及ばない事態に見舞われているのだろうか。
「実咲……」
まだ俺はその名前を覚えている。笑っていても哀しげに見える泣き黒子も、「幸せになっていいのか」と呟いた掠れた声も。
俺は汗を拭い、ぼやけた輪郭の神像を睨む。
隠れていたい連中を隠してやるのはいい。だが、それを望んでいない人間は?
ふと、不安が胸をよぎる。もし、実咲自身が望んでいたことだったとしたら。
「確かめないことにはな……」
俺はそれを打ち消すようにかぶりを振った。
「宮木、一緒に来てくれるか」
人間を丸ごと消し去るような神に太刀打ちできるとは思えないが、少なくとも離れて行動するより幾分かマシなはずだ。そう思いたい。
「勿論ですよ。さっきからそうしてるじゃないですか。こんな坂道走らされて」
呆れた笑い方は見慣れたものだ。まだ忘れていない。大丈夫だ。
「それで、どこへ?」
「補陀落山だ。“黙しの御声”が何をやってたか突き止める」
崩れかけた廃墟は闇に溶かされている最中のように朧げだった。
失踪者たちの遺留物を掻き分けながら進むたび、ペンライトの光が怯えた瞳のように揺れ動く。
錆びた鉄柵から剣のような枯れ枝が突き出していた。
「どうします?」
答える代わりに俺は錆びの激しい部分を探して蹴りつけた。
村中に響き渡るような音三回で鉄柵の一画が後ろに倒れる。朽ちた南京錠と鎖がじゃらりと落ちた。ここが扉だったらしい。
「公務員なのに」
「公務員じゃなくても住居侵入は犯罪だぞ」
ぼやく宮木がちゃんといるのを確かめてから、俺はひび割れた階段を登った。
靴底に砂利が噛みつく音だけがする。夜風が時折悲鳴を上げた。
蔦に覆われた洋館の前に辿り着く。入り口の扉は傾いて内側の闇が染み出していた。
俺は分厚い木戸に手をかけ、ゆっくりと押した。
埃と濡れた落ち葉の匂いが噴き出した。俺と宮木は視線を交わし、中に踏み入る。
入ってすぐ、荒んだ空間が広がっていた。
空間というより木板がささくれて下の土が剥き出しになった床と、剥げたタイルが疥癬のように残る天井の間にぼっかり空いた隙間だ。
破れた窓の下に長椅子がバリケードのごとく積み上げられていた。
「礼拝堂でしょうか?」
「かもな」
窓に残ったステンドグラスの縁取りが見える。昼間は七色だったガラスが今は全て夜の色だ。
雨で欠けた天井から一条の月光が降りて、陰鬱に濡れた床の上に置かれたテーブルと二脚の椅子が照らされていた。
来客を待ち構えたまま風化したような光景に、椅子に座した誰かがくるりとこちらを向く姿を幻視し、寒気がした。
「見たところ、普通だな」
半分は自分に言い聞かせた言葉に、宮木の不穏な声が重なった。
「いや、変ですよ……」
「何?」
宮木はテーブルと椅子を指差す。
「あれ、普通のテーブルにしては幅が狭すぎますよ。真ん中に変な線が入ってますし。椅子にも背もたれがありません」
目を凝らすと、確かにテーブルは通常の半分ほどの広さで、クッションの黴びた椅子は傾いている。どこかの壁についていたものを引きちぎって落ちたようだ。
「あれって懺悔室に置くものじゃないですか? 狭い囲いの中に置くし、長居しないから背もたれは入りません。テーブルも衝立を置いて神父と信者を隔てるのに使うんじゃないですか」
「いくらなんでも……」
飛躍しすぎだろ、と言いかけて、礼拝堂の最奥に古い電話ボックスのようなものを見つけた。
洋風の彫刻が施された木製のそれはちょうど、大人ふたりが何とか入れる大きさだ。
宮木が小さくガッツポーズをする。
「何でも楽しめていいよなお前は」
天井から垂れるライトや梁に注意しながら俺は足を進めた。
懺悔室は観音開きの扉があり、格子に百合の花の模様をあしらっていた。
試しに手をかけると抵抗なく開いた。手の平ほどの蜘蛛が這い出して声を出しそうになった。
「流石に何も残ってねえか」
点検するようにライトを当てると、懺悔室の床が一部分だけ色が違う。そこだけが鉄製になっていた。
「扉ですか?」
宮木が俺の肩から覗き込んだ。試しに屈んで埃を払って見る。有るか無しかのつまみがあった。
一瞬躊躇してから俺はつまみに力を込めた。爪が割れそうな重みに伴って、徐々に扉が開く。
全開になった反動で前に転びかけた俺の肩を宮木が掴んで留めた。
床に置いたライトが照らす先にどこまでも深い闇と、無限に思える階段がある。地下通路だ。
「降りるか?」
「仕方ないですね」
六原の故郷で見た未だ悪夢は鮮明だが、そうも言っていられない。
俺たちは両端の壁に手をついて注意深く地下へ下った。
差し出した爪先が硬質な床にぶつかる。階段が終わった合図だ。
「何か見えます?」
後ろから宮城の声がする。壁の感触が乾いた心許ないものになった。紙を重ね合わせているようだ。こんなところに襖や障子があるだろうか。
指先がスイッチのようなものに触れた。電気が通ってあるはずがないと思いつつ力を込めると、強烈な光が目を刺した。
光に目が慣れ、映った景色に俺は絶句する。
「何だよこれ……」
宮城の息を呑む音も聞こえた。
紙片が張り巡らされていた。
正面の壁を丸ごと覆う日本地図。白黒とカラーの無数の写真。学術論文から和紙に書かれた漢文のコピーのようなものまで、隙間なく膨大な資料で埋め尽くされた異様な空間だった。
一歩踏み出した俺に宮木が並ぶ。
俺たちは言葉を失ったまま、紙の海に踏み出した。
右の壁は一面の写真だ。
寒村の風景を映した白黒写真は、無表情な村人の顔に変わり、肩や膝の接写になる。被写体には奇妙な星型の痣が浮いていた。
その下に、ダム湖や港を映した比較的新しい写真がある。
左は映像ではなく文字だ。
新聞の切り抜きや何かの本の転写。何度も複写されて掠れた文字が「老不」「夢」と見えた。
「片岸さん」
宮木は正面の日本地図を指す。古びて端がほつれたり丸まった地図には血のような赤ペンの軌跡があった。
所々画鋲で写真や切り抜きが貼り付けてあるが画質が悪くて判別できない。
俺は丸く囲われた一点に目を止めた。
俺と宮木が前に行った、巨大な眼球や耳が毎年落ちてくる村はあそこじゃなかったか。
視線を下ろすと、海沿いに赤線が引かれている。人魚を奉る漁村。ダムに沈んだ村。
「領怪神犯……」
漏れた言葉に宮木が頷いた。
俺は地図に近づき、端から引き剥がす。
紙が裂ける音がして、下から堅牢な本棚が現れた。
空っぽの中に一冊だけ緑色のファイルが残っている。
表紙には何も書かれていない。
ファイルから写真がはらりと落ちた。
宮木が空中でそれを掴んで取り上げる。
セピア色の写真には六人の男女が写っていた。白衣の男、スーツ姿の男女三人、軍服の男、私服の老人。
裏返すと、ボールペンで各々の名前らしきが書いてある。
「
俺は読み上げてから宮木を見た。
「知りませんよ」
本当に宮木が関わるなら、妨害なり誘導なり何かしたはずだ。
俺はファイルを持ち直し、そっと開いた。
“善とも悪とも呼ばず、人知を超えて人間たちの日常に亀裂を入れる、奇怪にして不可侵のおぞましい神々とその奇跡を、領怪神犯と呼ぶ。
これは日本国を守るための研究である”。
仰々しい序文のみ記した紙の次には、夥しい資料が挟まれていた。
・笑面の変死体多数。調査の結果、緊急の要なし。
・山岳地帯での発光。住民が壁のようなものを目撃。領怪神犯「光る腕の神」と見なす。対応完了。
・新たに建設されたダム湖にて住民が巨人を目撃。
領怪神犯「水の底の匣の神」。緊急の要なし。
・内臓を摘出された死体発見。領怪神犯「ひと喰った神」。住民からの調査協力得られず。
・領怪神犯「這いずる神」。対応完了。
・領怪神犯「火中の神」。対応完了。
・領怪神犯「こどくな神」。調査断念。
・農村部に巨大な眼球の落下を確認。領怪神犯「ひとつずつ降りてくる神」。調査継続。
聞き覚えのないものもあるが、殆どが俺たちが調査に向かった先で見た神々の記録だ。
「どうなってる……」
「“黙しの御声”は領怪神犯を調査する組織だったんでしょうか」
俺はページを捲る。一枚の遊び紙を挟んだ次の頁にはこうあった。“人的措置”。
“補陀落山に巨影あり。以降、領怪神犯「知られずの神」。談話の結果、その性質を人的措置に流用する”。
俺と宮木は顔を見合わせ、先を急いだ。
“「光る腕の神」対応後、住民・河原才子が頭痛と発熱を訴える。領怪神犯の影響と断定。人的措置で対応。
「這いずる神」対応後、住民・松後瑞樹、三河有途が山道を這う何者かを見たと訴える。領怪神犯の影響と断定。人的措置で対応”。
失踪者リストにあった名前だ。
"「知られずの神」の全長五十センチ拡大を確認。談話の結果、新興宗教施設の誘致を決定。神像建設による秘匿処理と更なる人的処理の振興を目的とする。
銭田文六、帷子経子、人的措置”。
以下、続く名前はどれも失踪者と合致する。
ページを捲る手が震えで止まった。
ここで領怪神犯の研究がされていたことは確かだ。
信じられないが、俺たちと違い、奴らは神の無力化まで成功させていたらしい。
だが、その後も神の影響を受け続ける人間はいた。そこで––––。
「人的措置って……知られずの神にそのひとを消させるってことですか」
宮木の声も震えていた。
神の影響を受けた人間ごと消し去ることで、奴らは対応完了としていた。
宗教団体を誘致し、各地から領怪神犯の情報とそれに悩む者を一層盛大に集めながら。
その中には実咲も含まれていたのだろう。
「ふざけんなよ……」
俺の手からファイルが落ちる。床に叩きつけられたファイルから紙束が弾け飛んだ。
広がる紙には几帳面な字とは似ても似つかない乱雑な筆跡が残されていた。
“「知られずの神」の全長拡大を確認。談話の結果、人的措置を一時停止する。
宗教団体が解体されても日毎信者が集ってくる。
「知られずの神」の全長拡大を確認。我々の感知しない失踪者多数。
補陀落山に公的な調査員が派遣されている。一時的に全ての活動を停止する。
「知られずの神」の全長拡大を確認”。
俺は爪先で紙束を蹴った。最後の頁には赤ペンで書き殴ったノートの切れ端が挟まれていた。
“本日を持って無期限に活動停止する”。
“その神々は、人間の手には負えない”。
一体ここで、奴らに何が起きた。
「なあ、宮木……」
俺が振り返った瞬間、辺りが柔らかな光に包まれた。
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