四、知られずの神

 俺と宮木は汗だくになって下山した。



 汗は頭から冷水を被ったように冷たく、靴底やスーツのズボンにへばりついた土は鉛の重さで動きを阻害した。

「何なんだよ、あの山は……」

「まさかとは思いますけど……」

 宮木が強張った笑顔で呟く。こういう顔をしているときに出てくる言葉は大抵一番聞きたくないものだ。


「この村の神は山に入った人間を木に変える、とかじゃないですよね?」

「いや……」

 否定してから論拠になるものを頭の中で探るが出てこない。

 宗教施設の周りに散乱した遺失物、全く痕跡が掴めない失踪者。

 発狂した三輪崎が木に変貌していく人間を間近で見たとしたら、精神が耐えきれなかったのにも説明がつく。悪い方に加速する考えを押し出そうと、俺は失踪者リストを思い返す。



「失踪者の目撃情報は廃線の辺りで途絶えているものが多い。山に登った奴はいたとは聞いたことがない。たぶん、もっと何か別のものだ……」

 自分に言い聞かせるように答えたはいいが、確固たる自信はないままだ。

 幸い宮木はそれ以上追求することなく服の泥を払った。



 重い足取りで俺たちはまた連綿と続く田舎道を歩き始めた。

「洋服だけでも何とかしたいですね。手と顔も洗いたいし……」

「そうだな」


 緑の雲海に埋もれるようにして建つ、古風な瓦屋根付きの二階建ての家屋が目に入った。

 白い漆喰が剥がれかけていて廃墟かと思ったが、二階のベランダから垂れる藍色の旗には、冗談のように「素泊まり、日帰り入浴・可」と書いてある。

 隣接する木造の小屋は換気扇とガスメーターと色褪せた消火器が取り付けてあり、扉の磨りガラスの向こうに古めかしい洗濯機があった。


「旅館とコインランドリーか?」

 ちょうど宿の方から短髪の老女がゴミ袋を持って現れた。俺たちに気づくと微笑んで会釈する。


「すみません。宿泊客じゃないんですが、ランドリーだけ借りてもいいでしょうか」

 洗面台くらいあるだろうと思って声をかけたが、宿の主人らしい老女は鷹揚に頷いた。

「どうぞ、どうぞ。寒いですからロビーの方でお待ちいただいて構いません」



 スーツを丸洗いするわけにもいかず、俺たちは泥まみれの服を拭ってから真っ黒になったタオルを洗濯機に放り込んだ。小銭を入れてスイッチを押すと、甲高い電子音が鳴り、壊れるんじゃないかと不安になる音を立てて洗濯機が回り出した。

「とりあえず、休むついでに聞き込みでも再開するか」

「そうですね、ここの神や信仰の情報もまだ全然ありませんし」



 宿に入ってすぐの空間は旅館のロビーというより銭湯の番台のようだった。

 湾曲した木造りのフロントに貸し出し用のタオルのサンプルが垂れ下がり、水垢で汚れたショーケースには瓶のビールとオレンジジュースが冷えている。


 ウレタンが飛び出したマッサージチェアに黄ばんだビニールカバーが被せられ、奥の大木をくり抜いた謎のオブジェが埃まみれなのも相まって、やはり廃屋じみていると思う。



 汗と先ほど服を拭ったときの水分が気化して冷える腕をさすっていると、フロントの中から女将が首を伸ばした。

「ここの土着の信仰の調査ですか?」

 俺はぎょっとして老婆を見る。宮木も流石に答えあぐねていた。


「スーツのひとが来るときはだいたいそうですから。東京の方でしょ?」

 女将は事もなさげに淡々とタオルを畳んでいる。

 村の内部まで入って聞き込みをした調査の記録はあっただろうか。この案件の報告書一枚見るだけで随分煩雑な手続きを強いられた。俺たちが見ることのできない資料がまだ所蔵されていたのかもしれない。



「ここの山は補陀落山とかって呼ばれててね」

 手触りの悪そうな薄いタオルを棚に押し込めながら女将が言い、宮木が頷いた。


「補陀落山というとインドの南方にあるといわれた仏教の霊峰ですね。日本でもその名前のついた寺院がありますし」

「ああ、そっちじゃなくて。若いひとは知りませんよね。補陀落渡海っていう」

「修行を積んだ高僧が二度と戻らない航海に出て教えを民衆に知らしめるっていう捨身行か……この近くに海はありませんが」

 話に入った俺に女将は乾いた笑みを浮かべた。


「ええ、そう。だから、そういえば聞こえはいいんですけど要は姥捨山ですね」

 俺と宮木は口を噤んだ。日本各地に寒村が働けない老人や病人を捨てる慣習があったことは知っているが、実感を持ったのは初めてだ。



「姥捨の習慣があったところっていうのとはまた違うんですよ。ここはね、捨てられた老人や病人が作った村なんですって」

 女将はショーケースに指紋がつくのにも構わず両手をついた。

「昔この土地に住んでたお坊さんが修行で山に篭ったとき、姥捨で捨てられたお爺さんお婆さんが木の実や獣なんかを食べて何とか命を繋いでいたところに出くわしたんですって。可哀想に思って、お坊さんが彼らをお寺に匿ってね。以来、病気のひとや老人が捨てられるたびにそうやって助けに行って、いつの間にかひとつの集落になっていたんですって」


 フロントの奥で達磨ストーブにかけた薬缶が鳴る音がした。

「もうお寺じゃ匿いきれないってことで、お坊さんと捨てられたひとたちが山から降りて辿り着いたのがこの場所ね。こうやって四方が山に囲まれたところだから誰にも見つからないと思ったんでしょう」


 女将は薬缶を持ち上げて少し揺すってからまた元の場所に置く。

「村に逃げ込んで来るのはみんな元いた場所にいられなくなったひとばかり。病気もそうだし、昔は今より迷信深かったから悪霊が憑いてるなんて言われたひともね。そうして、村が大きくなった頃、お坊さんが祈祷を行ったんですって。大きなお寺や仏像を作ったら他所のひとの目につくから何も作らずに。『どうかこの村が誰にも知られず、ずっと続きますように。』ってね」


「だから、“知られずの神”か……」

 俺は思わず呟いた。

 誰にもこの地を知られたくないという望みをかけられた神の村は、幾度もの調査でも尻尾を掴ませず、依然謎のままでいる。何か気づきようがないものが働いている気がした。



 女将は乾いた笑みを浮かべたままだったが、瞳孔をわずかに鋭くした。

「だから、あの無遠慮に大きな像と建物が造られたときにはみんな反対したんですよ。うちの神様に悪いじゃないですか。それに、全国から心の弱ったひとを集めたなんて、うちの神様の猿真似みたいなことして」


 強い語気に宮木が曖昧に笑う。

 俺たちがたじろいだのに気づいたのか、女将はすぐ目尻を下げて誤魔化した。



「洗濯にはもう少しかかりますかねえ」

 しみの浮いた手でフロントを探り、老女は一冊のノートを取り出した。

 学生が使うような罫線ノートだが、端は破れ、背表紙は半分剥がれ、表紙も日焼けでほとんど白くなっている。


「お暇でしょうから、見ます? お客さんがときどき記念に何か書いていってくれるんですよ」

 俺は古びたノートを受け取った。表紙には「九十七年一月一日〜」とある。


 俺がページをめくり、宮木が横から覗き込んだ。

 何のことはない。本当にただの旅行の記念の書き込みだ。

 達筆な字で文筆家を気取った益体も無い記録もあれば、若い学生が来たのか見たことのない漫画のキャラクターのイラストがなかなか上手く描かれていたりもする。


 いいお湯でした。

 また来ます。

 秘湯発見!

 来年も再来年も一緒に来ようね、大好き。

 ○二年八月二十一日、一回目。


 取るにならない書き込みの中に、ひどく簡潔な日付と回数だけの一文がある。

 俺が凝視しているのに気づいたのか、宮木も薄くなりかけたボールペンの筆致に目を凝らす。

「常連さんですかね……年に何回来られるかチャレンジのような……」

 その字にどこか見覚えがある気がした。


「何でしょう、M・Mって書いてありますね。書いたひとのイニシャルでしょうか」

 指された点を見ると確かにジグザグの走り書きが文字の横にあった。


 俺はページを捲る。書き込みの中に同じ筆跡の記録がある。


 〇二年十月十三日、二回目。

 〇三年一月二日、三回目。


 同じイニシャルの走り書きもついていた。別段意味もない日付と回数が妙に引っかかった。

 訪れた記録にしてもなぜたったこれだけしか書かないんだ。



 ほつれて千切れそうなページを注意深くつまんだ。

 光に透けた紙の裏からでも強い筆圧がわかった。俺はページを捲った。


 〇三年二月二十三日、四回目。

 君は何回目だ?



 一ページ丸々使って二行の文言が大きく書かれていた。

「いや、すごい情熱ですね……でも、四回ってきりが悪くないですか? どうせなら五回とか十回でいいのに……」

 鼻白んだ宮木が苦笑する。俺は相槌も何も打てない。異様な筆致に圧倒されたからではない。この字の癖とイニシャルの持ち主を思い出したからだ。


 三輪崎愛次。

 この村で精神に異常をきたして未だ療養中の俺の先輩だ。


 忘れていた彼の声が蘇り、頭の中で反響する。

 俺がここに来るのは何度目だ?



 俺は叩きつけるようにノートをフロントに置いた。

「宮木、ここで待ってろ」

 廃線のほど近くにあった足湯の跡が脳裏をよぎる。

「いや、やっぱり離れるな。ついてきてくれ」

 踵を返して出口に向かい始めた俺を慌てて宮木が追う。

「どこ行くんですか、片岸さん!」

「廃線に戻る」



 険しい山道を登るが息苦しさは感じない。それどころじゃない。

 一歩進むごとに夕陽で黒い影を落とす木々がざわめき、鳥が苛むように鳴く。

 俺は宮木が息を切らしてついてくるのを確かめながらひたすら足を早めた。



 廃線の線路の上の土砂崩れの痕と埋もれた鳥居の先端が近くなってくる。

 錆びたフェンスにもたれかかるベンチが見えて、俺は足を止めた。

「片岸さん、どういうことなんですか。説明してくださいよ!」


 言葉が出てこなかった。

「俺がここに来るのは、二度目のはずだよな……」



 濡れて濃く変色した落ち葉が溜まりきって溢れそうな正方形の木枠がある。

 俺は足をもつれさせながら近づいた。


 雨の後で凹凸に膨らんだ土の中に半分だけ埋もれた黒いリボンのバレッタが埋もれている。この持ち主をずっと前から俺は知っていたはずじゃないか。


 脳を鉄串で突き刺されたような頭痛が走った。

 ベンチの脚のそばに折れた眼鏡が落ちている。

「井沢先輩……三輪崎先輩……」


 頭痛がひどくなる。

 宮木が俺の肩を支えて、倒れそうになっていた自分に気づいた。

 上から何かが俺を見ている気がした。


 俺は必死で頭を抱えて地面だけを見る。今上を見上げたら、山の間から俺を見下ろしている神像が見えてしまうはずだ。

 それの頭部に取り付いた、しわにまみれた黒い靄のような顔も。



「知られずの神……」


 この村の神の本質は誰にも知られないことじゃない。

 知ってしまった者を跡形もなく、誰ひとり残さず消し去ることで、秘匿を守り続けることだ。

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