三、知られずの神

 戦前から忘れられているような田舎だ。



 道すらほとんど舗装されていない。

 道というより乾いた土の上に四方八方から伸びた木々が垂れ込めて、ときどきその間に廃屋じみた家屋がある。


「すごいですね、ここ。地図にもほとんど乗ってません。あの駅以外山扱いですよ」

 宮木が黄ばんだガイドブックを広げながら呆然と呟く。

「聞き込みしようにもまずひとがいるかどうかだな」



 辺りを見回すと、俺の肩くらいまである高さの赤い郵便ポストが目に入った。その影に隠れるように電話ボックスと見紛うほど小さな煙草屋がある。電話くらいなら借りられそうだ。


 回り込むと、木造りのカウンターに溶け込むような茶色い肌の老父が座っていた。

 何も買わないのも悪いと思い、千円札を崩すついでに煙草を一箱買う。店主は笑顔も嫌な顔も見せず、煙草と一緒にピンク色の電話機を押し出した。



 受話器を耳に当て六原を呼び出すがなかなか出ない。

 ガラスのショーケースにはショートホープやゴールデンバッドや峰に並んで、この土地と何の関係もなさそうな犬張子やこけしなどの土産物が陳列されていた。


 宮木は律儀に聞き込みを開始し、店主と雑談を始めている。煙草の受け渡し用の穴だけ空いたガラスを隔てて喋る様子は刑務所の面会のようだと思う。


「何かこういうの刑務所の面会みたいじゃない?」

 昔そう言った女がいた。実咲や他の知り合いではない。どこで、誰に聞いた?

 ちょうどこの村のような寂れた土地で、肩まである髪を黒いリボンのバレッタでまとめた––––



「六原ですが」

 聞き慣れた平坦な声に思考が遮られた。

「あぁ、六原さん……俺だ、片岸だけど……今まで通り特に何の異常もない。一応居住区と新興宗教の施設があったところも詳しく調べては見るが……」


 宮木がくすくすと笑う声が聞こえた。ガラスの向こうの老人も厳しい顔に微かな笑みを浮かべて応えている。

「都会暮らしの若いのはたまに田舎に来たくなるんだろけどさ。たまにでいいんだよ。ここなんか住んでみな。蛇だのイタチだのが家に入ってくるんだから」


 老人は日焼けした指に煙草を挟んで肩を揺らしていた。噎せ返っているような笑い方と、中指と薬指で挟む独特の持ち方に覚えがある。

 この煙草屋に来て、この老人にあったことはないはずだ。以前、来たときは廃線だけ見て帰っただろう。



「どうかしたか?」

 受話器の向こうで六原の声がくぐもって響いた。

「いや……あのさ……」

 言うべきか頭の中で何度も考える。

「俺がここに来るの、二回目だよな?」


 しばらくの沈黙の後、

「そのはずだが」と、素っ気ない返事が来た。

 電話が十円玉をせびる音がする。もう切るとだけ返して離しかけた受話器から、聞き取れるか聞き取れないかの言葉が漂った。


「三輪崎もこの村で保護される直前、そう言っていた」



 聞き返す間も無く、無機質な電子音が通信の終わりを告げた。俺は狼狽を隠して受話器を置く。

「いや、本当に何もねえよこの村は。温泉はあるけど近所の爺さん婆さんで芋洗いだからなあ」

 老人と宮木はまだ談笑を続けていた。


「でも、こういうところって神社とかありませんか? 私そういうの好きなんです」

 宮木はしっかり仕事をこなしているようだ。

「あー、うちはないんだよな」

 老人は顎に手をやって呻く。

「うちの神様は像とか社みたいなもんは作らないんだよ。そういうの作ると結局神様自体じゃなく作りもんの方にばっか祈っちまうからさ。何にもないけどただそこで見守ってくれてる。そういうのが大事なんだよ」

 老人は煙草の灰を灰皿の縁で叩いて落とした。


 この村に偶像はない。信仰の対象となる神の名前どころか伝承すらも聞いたことがなかった。

 宮木が俺を見る。捜査は難航しそうだ。

 とにかく宗教施設の跡地を目指すしかない。



“黙しの御声”の名残りはすぐに見つかった。

 鬱蒼とした森に覆われた山道がそこだけアスファルトで舗装され、私有地につき進入禁止の看板が立ててあるのだ。


 山道を登りながら、木の葉の隙間から溢れるどろりとした琥珀のような光を見上げる。

 その光の下に、長いローブの裾に包まれた二本のひび割れた足があった。廃線付近から見えた神像だ。

 近づいて見るとやはり杜撰だと思う。

 足の指を作るのが面倒だったのか、アコーディオンカーテンのような裾を無理矢理引き伸ばして爪先まで覆い隠している。雨風で削り取られてだいぶ劣化しているらしく、崩れてこないか心配だ。威厳の欠片もない。



 亀裂の入ったアスファルトの上を倒木が横断し、その先が大きな石畳の階段になっている。

「あれが……」

 宮木が小さく呟いた。

 緑の雲海のような森の中に砂色の三階建ての建造物が見えた。

「何だかホテルみたいですね」

「だな……」

 蔦に覆われた外壁には洋風の小窓が等間隔で並び、入口らしき部分の扉は外れて闇が口を開けていた。建物の背後に巨大な像の胴体が覗いていた。

 割れたガラスにぶつかって奇妙な音階となった風の音がする。


 階段の先は堅牢な鉄柵でできた囲いに覆われて入れそうにない。

「裏口を探すか」

 俺は宮木に合図して、建物を迂回するように獣道に入った。



 ぬかるむ足元に注意を払いながら森の中を進むが、鉄柵は一向に途切れる様子がない。


「“黙しの御声”っていうのはどういう宗教だったんでしょう」

 宮木が息を荒くしながら隆起した岩を踏み越える。


「カルト宗教なんてのはお題目だけ揃えてどれも内実は金儲けだけだろ……だが、どうも悪霊に憑かれた奴や何かの救済も謳ってたらしいな」

「妙な名前の団体ですよね」

「黙って神の声に耳を澄ませろ、ってことだろうな」

「神の名をみだりに唱えるなっていうのはキリスト教でもありますよね」

 茶色い実をつけた蔦が迫り出して頬を打った。


「それにこの村の神も偶像崇拝をしないみたいです。何か関連があるんでしょうか……」

「どうだかな……」

 俺も息が上がってきた。様々な信仰を取り入れてできた歪な神ならこれまでも見てきたが、ここの神はまた違う。

 どこまで行っても実態が霞のようで何も掴めない。



「何にせよ“黙しの御声”は解体された」

 俺は会話を打ち切って足を早めた。神像の背が真正面にある。ちょうど半周した辺りだろう。


「変なこと聞いてもいいですか」

 背中に宮木の声がかかった。

「片岸さんの奥さんはその信者だったりしませんよね」

 俺は冷たい手で心臓を引っ叩かれた気分になる。「違う」とだけ答えると、宮木はそれ以上何も言わなかった。



「そうじゃないかと思ったこともある」

 悲鳴に似た風の音と沈黙に耐えきれず、俺は口を開く。

「この村で失踪したって聞いて、まだ“黙しの御声”の残党が残ってて、実咲がそれに頼りに行ったんじゃないかと思った。あいつは、悩んでたからな……」

 光が建物に残ったステンドグラスを透かして、足元に七色の影をちらつかせた。


「実咲が失踪して箪笥を調べたとき、心療内科の処方箋が出てきた。俺には何も言わなかったが幻覚の症状があって相談してたらしい。出身があの村だ。俺に言っても信じないと思う何かが見えてたのかもな」

 俺は何も気づかなかった。

「それで宗教に頼った、と?」

「俺よりかは力になると思ったんだろ」

 笑ったつもりだったが掠れた声が漏れただけだった。



「片岸さんのせいだと思ってます?」

 靴音が大きく聞こえ、後ろから来た宮木が隣に並んだ。

「いなくなったひとは何も言ってくれませんからね。真実を究明するより自分を責める方が楽です。でも、それは怪異に勝手な憶測で解釈をつけて安心するのと同じことですよ」

 宮木は真っ直ぐに俺を見つめていた。


「お前、たまにすごく厳しいよな」

 今度は上手く笑えた。



 歩調を合わせて進んでいたはずなのに、いつの間にか宮木の方が先行している。

「なあ、俺も変なこと聞いていいか?」

「何ですか?」


 実咲の故郷のあの村の地下に閉じ込められたときから、ずっと気になっていたことだ。

 今までも俺は重要なところで何度も宮木に救われていると思う。だが、あのときはもっと特別だ。


「例の村の地下で蠱毒の神に追いつかれそうになったとき、宮木が前に飛び出しただろ。そのとき、神が怯んだように見えた。お前、何か霊媒師の家系とかそういうのあるのか?」

 宮木は一瞬きょとんとしてから吹き出した。


「霊媒師? 私がですか?」

 声を上げて笑われるとひどく馬鹿馬鹿しいことを聞いたと思い知らされる。

「笑うなよ、そう見えたんだから……」

「全然違いますよ」

 宮木は目尻の涙を拭ってから呼吸を整える。


「ただのハッタリだったってことか?」

「そういうわけでもないですね」

 笑いの残っていた表情が少し引き締まった。

「じゃあ、何だ」

「あの神はひとの恐怖を餌にするんでしょう。私の怖いものは、もうありませんから」



「もうないって……」

 何かが靴先にぶつかってつんのめりそうになった。


 足元を見下ろすと、木の根に立てかけるようにピンクのリュックサックが落ちていた。俺は屈んでビニールの表面の土を払う。

 緑色のうさぎのようなキャラクターが描かれている。


「何だこれ。随分古いな」

「そうでもないですよ」

 宮木が隣に屈んだ。

「それ、今年の春頃やってた子供向けアニメのキャラクターです。可愛いって大人でもグッズを買うひとが多かったんですよ」


 それなら少なくとも今年のうちの遺失物ということになる。

 登山客が来る山でもなし、忘れ物にしても丸ごと置いていくだろうか。

 村民が入ったときうっかり足を滑らせて、救急搬送されたときに荷物が置き去りになった。ない話ではないが、そもそも地元の人間がリュックサックを背負うような大荷物で来ないだろう。

 熊か野犬が出て慌てて荷物を放り出して逃げた。これが一番ありそうだ。



 顔を上げると、気づけば最初の石畳の階段の前まで来ている。一周していたようだ。

「害獣が出たら面倒だし、早く切り上げた方がいいかもな」

 そう言って立ち上がったとき、宮木が息を呑む音がした。早速出たかと思ったが、違った。

 俺も息を呑むしかない。



 来たときは気づかなかったが、葉が落ちた木々の茶色にいくつもの色が絡んでいる。


 太い枝にかけたスカイブルーのダウンジャケット。

 木の洞に押し込まれた臙脂色のポシェット。

 乾いた葉に埋もれた、ほとんど黴で灰色に変色したオレンジのセーター。

 皮がささくれた根に挟まれた黒と白のギンガムチェックのスニーカー。



 確かにひとがいた痕跡がそこら中に散らばっている。

 持ち主を失った物たちの死骸を森の上から神像が見下ろしていた。

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