二、知られずの神
錆びた赤いパイプから飛沫が上がった。
「うわっ、熱い。ほとんど源泉じゃないですか」
手をびしょ濡れにした宮木が高い声をあげて飛びのく。飛び散った湯で濡れた髪から湯気を立った。
「そりゃあ手突っ込んだらマズいだろ、火傷するぞ」
舗装されていない道の砂利が靴底に噛み付く感触を確かめながら、俺は溜息をつく。
「だって温泉って書いてあるんですよ」
「遊びに来た訳じゃねえんだぞ」
ゆるやかな傾斜の坂道の途中、石垣から突き出したパイプから噴き出す暑い湯の雫で濡れた手を振るう宮木はフィールドワークに来た気楽な学生のようだ。
こんな光景を見たことがある気がした。おそらく、本当に俺が大学生だった頃だろう。
俺はかぶりを振って茂る葉に縁取られた遠い青空を見上げた。
いかにも日本の真冬の原風景だ。
枯れた木々は陽光でさらに白くなり、葉脈に薄っすらと残る雪と相まって焼き払われた後の灰のようだ。
木々の向こうには赤茶けてところどころが千切れたフェンスがあり、その向こうに廃線の古い線路があった。
「思ってたより寂れてますね」
「俺が二年前に来たときも廃線だったからな。工事もされないで廃れる一方だろ」
かつて駅舎があった形跡の、鉄柱に斜めの木板をつけただけの屋根も二年前と何ひとつ変わらない。
金網にスズランテープで結びつけた即席の看板が揺れている。雨除けのビニールは黄色く変色してズタボロになり、中の画用紙までふやけて紙くずのようだ。
爛れたような藍色のマジックペンの文字は「本線」「当駅」「臨時」だけがかろうじて読めた。
フェンスの向こうに廃線の線路がある。
道の上に盛られた土砂の山と、錆びて元の色がわからなくなったブルドーザー、散乱した丸太。土の塊の上部から赤い二本の杖のようなものが露出していた。なぜか直感で鳥居だと思った。
「あっ、見てください。あそこ、何かがありますよ」少し先を歩いていた宮木が正面の山の頂付近を指した。
「何だ?」
指の先に目を凝らすと、茶色の山の間から巨大な白い像の頭が突き出していた。頭からヴェールをかぶっているが、布のひだは何の芸もなく等間隔で粗雑に彫られ、アコーディオンカーテンのようだ。
目や鼻や唇に見える凹凸も下書きなしで彫ったのかと思うほどぼんやりしている。
「観音像、いや、違うな。聖母マリア像みたいなもんか」
「マリア観音っていうのもありますよね。昔、キリシタンが弾圧されていた時代に聖母像を作れないから、一見観音様に見えるようにしたっていう」
確かに素人が作ったようで、信仰の対象もわかりにくい。報告書にあった一文が頭をよぎった。
「ここ、昔新興宗教の施設があったって聞いただろ。“黙しの御声”。詐欺容疑で幹部が逮捕されたのを機に解体されたやつだ」
「あぁ、なるほど。急に引き払ったから取り壊しもできずにそのまま残ってるんですね」
「そいつらは権威を印象つけるためかは知らないが、神社や寺の関係者から悪霊憑きみたいな連中まで全国各地から掻き集めてたらしいからな。ああいう像も信仰の対象をひとつに絞らない方が都合よかったんじゃねえか」
「片岸さん……」
宮木が心なしか怪訝な目で俺を見る。
「そんなことまで報告書に書いてありました?」
「調べたんだよ」
俺は視線から逃げるように顔を背けた。確かに聞いた覚えがあるが、出処が思い出せない。読んだ、でも見た、でもない。聞いた、だ。それだけは確実だった。
向こうの山の葉はとうに枯れ落ち、細い木の枝だけ残っているのか、神像が前来たときよりもはっきりと見えた。
そうだ、俺は二年前もこの像を見ているじゃないか。何故、宮木に言われるまで思い出しもしなかったのだろう。
六原の故郷の村から帰ってだいぶ経ったが、これほど記憶が曖昧になるということは、思いの外疲れているのだろう。
宮木はそれ以上追求せず、神像のある山に背を向けて廃線の方を向いた。
「あの大きな枡みたいなのは何でしょうね?」
崩落しかけた屋根の真下に二メートル四方の木枠で作られた囲いがある。中は泥と濡れ落ち葉が溜まり放題になっていた。
「さあな……」
言ってからふと、昔来たときにはこの木枠いっぱいに土の色をしたお湯が満ちて、夏の日差しを受けて輝いていたのを思い出す。
「足湯だ。確か足湯があった」
「足湯ですか」
「たぶん……泥みてえな色してたからあの頃から使われてなかったんだろうが……」
俺はこめかみに手をやる。本当にこの土地の記憶だろうか? 別の場所と混同してはいないか?
「片岸さん、本当に一回ここに来てるんですよね?」
宮木は怪しむというより気遣わしげな目で俺を見た。
「来てるよ」
俺はフェンスにもたれかかるように置かれた、褪せた水色のベンチに腰を下ろした。ここに来てから頭に靄がかかったように記憶が曖昧になる。何か重要なことを忘れている気がする。
得体の知れない空虚さと焦りを押し隠すように、俺は煙草に火をつけた。
宮木が無言で隣に座る。
「二年前、確か別の仕事を終えた帰りに、六原からついでに見てきてくれって言われてここに来たんだ。まだ新人だったし、疲れてた。だから、記憶が曖昧なんだと思う」
聞かれてもいないのに、俺は言い訳するように言葉を紡いだ。
「大変でしたね。あの頃から六原さんに仕事を押し付けられてたんですか?」
「実咲と結婚した頃からずっとだ」
宮木が苦笑する。つられて俺と笑い、少し焦燥感が和らいだ。
「そのときはひとりで来たんですか」
「いや……」
俺の指先からぼとりと灰が落ちた。
灰皿を探すと、鄙びた温泉旅館の裏にあるような赤いブリキのスタンド式灰皿が傍にある。中に溜まったコーラ色の雨水に吸殻が三本浮いていた。
「先輩たちと来たと思う。三輪崎っていう関西出身の男の先輩がいて……名前は覚えてねえけど、女の先輩もいた……いや、そっちはこの村まで来なかったか。たぶん前の村で別れて、ふたりだけで来たはずだ」
「三輪崎さんって職員には会ったことないですね」
「知らねえだろうな。面倒見のいいひとだったんだけど、ちょっと精神病んじまったんだよ。さっき話した新興宗教の調査だって、仕事でもないのにひとりでこの村に行ってみたり。確か宮木がこの部署に来る前に無期限休職になった」
これも今口にするまですっかり頭から消えていたことだ。新人の頃世話になった、あの穏やかな話し方と眼鏡の奥の細い瞳は鮮明に思い出せるのに、どうして忘れていたのだろう。
「女性の方の先輩は……」
「行方不明だ」
「大丈夫なんですか、それ」
「この仕事ならない話じゃねえよ」
俺は傾きかけた灰皿に吸殻を捩じ込んだ。
「この村、本当に大丈夫なんですかね……」
「村自体は本当に何もなかった。何にもなさすぎて覚えてねえだけだ」
無意識に誰かに言い聞かせるように話している自分に気づく。
宮木は来るまでの高速バスで凝り固まった肩を回して大きく息をついた。
「確かに村人とも会いませんし、 変なことも起こってませんし、本当に何もないみたいですよね」
「ああ……だが、失踪事件は何度も起こってる。発端となった謎の発光に新興宗教。いまいち関連性が掴めないが手がかりになりそうなことはある。実咲もここで消えた」
「そうですね……」
俯いた宮木の横顔に影を感じ、俺は繕うように大げさに音を立てて立ち上がった。
「よし、とりあえずいつも通り近隣住民に聞き込みから始めるか。それから、六原に“黙しの御声”の跡地に入る許可を取る。どっちにしろ人里まで降りねえと電話も借りられないからな」
「片岸さんは携帯電話持ってないんでしたっけ」
「持ってる奴のが少ねえだろ。六原は仕事用のがあるみたいだけどな」
「もうちょっと安価で普及してくれればいいんですけどね」
宮木は鞄の中から取り出した携帯ゲーム機をちらつかせた。
「だって、こんな小さい端末がゲームをするためだけにあるんですよ。電話なんてもっと使うものが持ち運びやすくなったらずっと有益だと思いませんか」
「有益なもんより無益なもんのが作りやすいんだろ」
「もしくは、無益だから見逃されてるか……」
聞こえるか聞こえないかの声で宮木が独り言のように呟いた。聞き返すが、返答はない。
「じゃあ、行きましょうか」
宮木も立ち上がる。
朽葉色の山頂には相変わらず巨大な神像の頭部が覗いていた。これなら道を聞くまでもなくすぐに辿り着けそうだ。
上の方に気をとられていると、爪先に石よりも儚い感触の何かがぶつかった。
足元に視線を下ろす。レンズが割れてひしゃげたフレームだけが残った眼鏡が地面に落ちていた。
細い銀縁は記憶の中の穏やかな瞳を思い起こさせる。
錯乱した三輪崎が保護されたのもこの村の付近だったと聞いたことがある。
本当に何もないのか、この村は。視界に黒い靄がよぎったような気がした。
俺は雑念を振り払うように頭を振る。それをこれから調べるんだろう。
眼鏡の残骸の少し離れた場所に、泥に埋もれた小さな三角形が見える。
ホテルや空港の従業員がつけるような黒いリボン付きのバレッタが、壊れた金具と飾りの先端だけ地中から覗いていた。
思わず近づこうと思ったが、宮木の声に急かされて、俺は踵を返した。
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