一、知られずの神
錆びた赤いパイプから飛沫が上がった。
「うわっ、熱い。ほとんど源泉じゃない」
手をびしょ濡れにした
「そら手突っ込んだらあかんわ、火傷しますよ」
「だって温泉って書いてあるんだもの」
「こっちに足湯があるやないですか」
「先に言ってよ」
ゆるやかな傾斜の坂道の途中、石垣から突き出したパイプから噴き出す暑い湯の雫を掛け合ってはしゃぐふたりは大学生のようだ。
「先輩方、遊びに来た訳じゃないんですよ」
舗装されていない道の砂利が靴底に噛み付く感触を確かめながら、俺は溜息をつく。
井沢と三輪崎が俺を見た。
「ごめんな、
井沢が小さく舌を出す。
俺はかぶりを振って茂る葉に縁取られた遠い青空を見上げた。
いかにも日本の真夏の原風景だ。
青々とした木々は日差しでさらに色の濃さを増し、それ自体が光を放っているように見える。
木々の向こうには赤茶けてところどころが千切れたフェンスがあり、その向こうに廃線の古い線路があった。
かつては駅舎があったのだろう。鉄柱に斜めの木板をつけただけの屋根は数時間に一本の電車を待つ場所だったのか、真下に二メートル四方の木製の枠で囲われた足湯があり、土の色をしたお湯がこんこんと湧き出ていた。
「片岸くんは真面目すぎるよ。もう本命の調査は終わったんでしょ? 午後の半休だと思って楽しまなきゃ」
井沢は俺と三輪崎が目を逸らすより早く、屈んで脱いだストッキングと靴を獲った魚のように掲げた。
日焼けしていない真っ白な爪先で泥を踏み、木枠に腰掛けてじゃぼんと湯に足を浸す。
「ようそんなん入れますね。変な菌がいてるかもしれませんよ」
「ここ絶対何年も放置されてるぞ」
井沢はあっけらかんとした笑顔で俺たちに手招きした。
「俺は絶対入りませんよ」
そう言ったはいいものの、遠くからわざわざ声を張って話しかけるのも疲れる。俺は仕方なく近づいて、黄土色の土埃か本来の湯の色かもわからない何かが噴き出す足湯を見下ろした。
「やっと仕事が終わったってのに、どうせ通り道だからもうひとつの案件も見てきてくれって言われたときはどうしようかと思ったけど……」
井沢は背伸びした。
「何にもなさすぎてこれじゃただの観光ね」
「そうですねえ。まあ、案件って言うても数年に一度の失踪事件ですし、領怪神犯と関わりがあるかもわからへん段階ですから」
三輪崎はシャツの袖をまくって、指先で湯加減を確かめる。
「前にもうちのひとが何回か調査に来たことはあるらしいけど、どれも収穫なしだったみたいだし。私たちより普通に警察に頼った方がいいんじゃないかな。片岸くん、ここが自殺の名所とかって聞いたことある?」
「ないですね。でも、偶然にしては多すぎる」
俺は短く答えて目を逸らした。
金網に、雨除けのビニールで覆った画用紙をスズランテープで結びつけたあり合わせの看板が揺れている。湿気でほとんど溶けかけたマジックペンの文字は「本線は線路断絶により当駅が臨時終点となります」と読めた。
フェンスの向こうに続くホームの先に視線をやると、線路の上に土の塊と岩が山のように盛られていた。さらに先には黄色のブルドーザーと積み上げられた丸太がある。土砂崩れか何かで線路が使えなくなり、工事の費用も底を尽きて捨て置かれたのだろう。
土の塊の中に赤い柱のようなものが露出していた。鳥居だと思った。
「あっ、見て。あそこ何かがいない?」
井沢が身を乗り出して正面の山の頂付近を指した。
「何ですか」
指の先に目を凝らすと、巨大な白い楕円のようなものが緑の山の間から突き出している。さらによく見ると円の中に目や鼻や唇に見える凹凸が彫り込まれている。巨大な顔だ。
「巨人……」
小さく呟いた俺に三輪崎が笑った。
「デッカい観音像やないですか。いや、観音様と違うな。聖母像に似てますね」
「何だ、作り物か」
井沢はつまらなさげにまた木枠に深く腰掛ける。光を受けて輝く湯の中で二本の脚の虚像が揺蕩った。
「ここ、昔新興宗教の施設があったでしょ。住民がだいぶ反対して揉めたって言うてはったアレ」
「“黙しの御声”か。詐欺容疑で幹部がみんな逮捕されたっていう」
「そうそう、急に取り潰されたもんやから神像なり何なりがまだ残ってると違うんかな」
よく注意してみれば、巨大ではあるが目鼻立ちも随分ずさんに彫られた作り物だとわかる。
観音とも聖母マリアともつかない、白い布を頭から被された木偶の坊の像だ。
「元々信仰があった場所に別のまがいもんを持ち込むと大抵ろくなことにならねえんだよな……」
俺が独り毒づくと、三輪崎が眼鏡を押し上げて笑った。
「うん、それが領怪神犯の本質や。聞いてくださいよ、井沢さん。先輩がしっかりしとらんと後輩が代わりにちゃんと育ってますわ」
井沢が「何よ」と眉を吊り上げつつ、笑いを零す。
このふたりといると毒気を抜かれたようで俺も笑うしかなかった。
三輪崎が胸ポケットから煙草を取り出し、俺もそれに倣う。手渡されたライターで火をつけ、礼を言って返してから煙を吐き出す。青々とした山に白い霧がかかった。
「ちょっとは気抜けたやろ」
三輪崎の言葉に俺は驚いて顔を上げる。
「ここ来たときからずっとピリピリしてるように見えたから」
自分でも今さっきまで気づいていなかった眉間のしわを擦り、俺は溜息をつく。
「すいません」
「
「ですね……」
「六原さんに、何か言われた?」
三輪崎は廃線の跡を見つめたまま言った。
「急に『もう一個村を見てきてくれ』なんて初めてやで。その後も自分、何か話してはったから。あのひと、ほんまはそうでもないけど、何か冷たい感じの言い方するからなあ」
「あのひとは昔からあんな感じですよ」
眼鏡の奥の瞳がわずかに俺に向く。
頭上で鳥が小さく鳴いた。湯の泡が湧いては弾ける音と、風が木を揺らす音が夏の空気に染み込んでいく。
「ここで、俺と六原さんの関係ある人間が失踪してまして」
六原の話した内容は別段ふたりに言わなくてもいいことだ。だが、三輪崎の訛りの強い話し方にほだされて、どうにも言わなくていいことまで話しそうになる。
「そっか」
返事は短かったが、声は気遣うように優しかった。俺たちは無言で煙草のフィルターを噛む。
「私もだよ」
足湯の方から声がした。
「弟がね。って言っても年は離れてるし、両親が離婚したから名字も違うんだけど。今年の初めにここでいなくなったの」
井沢は両脚をピンと伸ばして向こうの木枠にかける。
「大学生でさ。『他のみんな帰省するのに俺には帰る家もないから冬休みを使ってフィールドワークをするんだー』なんて言ってね。私の家に帰っておいでって言ったら、『もう夜行バスのチケット取っちゃったから春休みに帰るよ』って言ってたのに、それっきり。悩んでたなら話くらい聞かせてくれる仲だと思ってたんだけどな」
俺と三輪崎は口を噤んだ。
俺は報告書にあった失踪者の名簿を思い出す。薄墨磨人、二十一歳。
黒いリボンのバレッタを外して濡れた髪を絞る彼女からは今まで暗い話など聞いたことがない。
だが、危険を承知でこんな仕事に就く奴らだ。俺と同じようにそれなりの理由があるのだろう。俺と違うのは、それをおくびにも出さないことだけだ。
俺は実咲が消えてからしばらく笑った覚えがない。井沢と三輪崎と組むようになってから、自然と笑い方を思い出した。
俺の真横のフェンスにもたれかかるように置かれた水色のベンチは白く色褪せ、書かれていたであろう医薬品の広告の文字もほとんど読めない。
その隣にある、傾いた赤いブリキのスタンド式灰皿に吸殻をねじ込んで、俺は空を見た。白い雲に頭頂部が触れそうな神像がそそり立っている。心なしか先ほどより近く見えた。
俺の視線に気づいた三輪崎が一緒に目を向ける。
「“黙しの御声”っていうもんは相当あこぎなことやってた連中なんやけど、そういうもんほど細部にこだわるっていうか、いろんなとこから霊験新たかなひとを呼んどったらしい」
二本目の煙草に火をつけながら三輪崎が言う。眼鏡のフレームにぶつかった煙が屈折して逃げた。
「何でもな。日本全国いろんなところに神社なりお寺なりあるやろ。そういうとこの神官血筋云々のだけじゃなく、狐憑きとかミサキ憑きとかそんなんまで集めとったって聞いたわ」
「聞いたって誰からですか?」
「僕のお袋」
三輪崎は事もなさげに笑う。
「お袋がその信者やったん。一回わざわざ西から高速バス使って集会に連れてかれたこともあった。ちょうどそんとき、噂が噂を呼ぶんやろなあ。よくないもんに祟られたっていうひとが助け求めて来て、教祖様が頭に手かざして、『身体が軽くなりました』なんて。まあ、サクラ使った茶番やろうけど」
淡々と語ってから、彼は誤魔化すように煙を空に吹きつけた。
「みんな、いろいろ事情があるんだな……」
俺の独り言に井沢が「そりゃあね」と返す。
「じゃなきゃ、毎回東西南北いろんなところに飛ばされて訳わからない目に遭う仕事なんか就いてないよ」
井沢は鞄から取り出したタオルで足を拭った。
膝を三角に折ってストッキングを丸め出したので、俺と三輪崎は目を逸らす。
「他の国にもうちみたいな組織あるんですかね」
「そらあるよ。アメリカも中国もソ連もあるって。ドイツはやっぱり東と西で別々にあるんかな」
「どうですかね」
「……何か、あの像近くなってへんか」
明後日の方を向いた三輪崎がついでに山を見やって呟いた。俺の思い違いではなかったようだ。
「どれどれ」
足元から湯気を立てながらパンプスを突っかける井沢が横に並んで眺める。
「近くなってるっていうか大きくなってない? ほら、頭の部分」
神像のぼけやた輪郭が二倍くらいになっている。そんなはずはない。
日照による影のせいかと思いながら注視すると、像の頭部に黒い靄のようなものがかかっていた。靄の中に像に彫られたものよりはっきりとした双眸がある。
「何だ……ひとの顔……?」
黒い人間の顔だ。神像の首の辺りに抱きついてこちらを見ている赤子のように思える。靄は何層にもなり、顔に老人じみた深いしわを刻んでいるようだった。
「何やこれ。六原さんに伝えた方がええんかな」
「そうね……ここの神なのかも……」
井沢が表情を引き締める。
俺の視線の先で黒い靄はまんじりとも動かない。
「ここにも神の伝承があるんですか」
「うん。細かい伝承は何にもない、どこにでもある守り神みたいなものなんだけど。確かその名前は」
井沢は顎に手をやって言った。
「知られずの神」
黒い靄の中の双眸が瞬いた。俺は目を疑う。
確かに俺たちを見てしわの寄った瞼が閉じて、開いた。
俺たちふたりを見て。
「片岸くん、どうしたん?」
声に振り返ると、三輪崎が心配そうに俺を見ていた。
視線を戻すが何もない。
先ほど見た、白い粗雑な造りの像があるだけだ。
「いや、何でもないです……」
「自分、相当疲れとるやろ」
赤いブリキのスタンド式灰皿に吸殻をねじ込んで三輪崎が苦笑した。
「結局何にもなかったなあ。六原さんにもそう言うしかないか」
「ですね」
青い空に白い雲。崩壊した廃線の跡だけは不穏だが、それ以外何の変哲もない、日本の田舎の夏だ。
かつては駅前の広場があったのか、二メートル四方の木枠で囲まれた足湯から土色のお湯が湧き出ている。
「これ、いつから放置されとるんや。誰も入らへんやろ」
「絶対に変な菌がいますね」
ふと視線を下げると、木枠の一部に濡れた脚をかけたように二本の線が滲んでいる。その傍にまだ汚れていない、黒いリボンのついたバレッタが落ちていた。
「住民がまだ使ってるんですかね」
「こんなん入ったらかえって身体悪くなるで」
それもそうだと思った。
「じゃあ、帰ろうか」
俺は踵を返して、三輪崎とともに元来た坂道を下り始めた。
蝉の声に顔を上げる。
向こうの山の緑が一部禿げ上がったように白くなり、朽ちかけた神像が佇んでいた。
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