六、知られずの神
光が徐々に鋭さを失う。
それと同時に、地下で聞こえるはずがないものが聞こえてきた。
木々のざわめきだ。
冷たいが不快ではない風が頰に触れた。
光に眩んだ目が徐々に慣れて辺りの風景を映す。
青々とした木々が柔らかな昼下がりの陽光を注ぐ長閑な山道が広がっていた。
「嘘だろ……」
幻覚だと自分に言い聞かせるが、シャツの襟や袖から入り込む風の温度も、水と土の豊かな匂いも、鳥が木の枝を揺らす微かな音も全てが生々しい。
狂気じみた地下の研究室は跡形もなく消えていた。
「宮木」
辺りを見回すが、姿は見当たらない。
混乱する頭で思考を巡らせると、緩やかな傾斜と獣道のうねりに既視感を覚えた。
ここは俺たちが登ってきた補陀落山だ。しかし、“黙しの御声”の跡地も杜撰な神像もない。山そのものを包み隠すような森が空を覆っているだけだ。
「何だよここは……」
俺は恐る恐る一歩踏み出す。ぬかるんだ泥が靴底で滑る感覚も現実としか思えなかった。
遠近感の狂いそうな山道を進むと、茂みから物音がした。
梢の陰からこちらを伺う痩せた少年と目が合う。時代錯誤な洗いざらしの麻の着物を纏っていた。
「あの、ちょっといいか」
少年は俺を眺めてから、踵を返して導くように獣道を歩き出した。
俺はその後ろをついていく。
山道を行きながら、迂闊だったと思った。怪異の真っ只中で得体の知れない存在に声をかけるなどどうかしている。
宮木がいたら溜息をついただろう。今はそれも望めない。
もう調査どころじゃない。とにかく宮木に合流してここから抜けるのが最優先だ。
少年は足を止め、茂みが途切れた箇所を指さした。
ちょうど廃墟があった山の中腹だ。
俺は彼を追い越し、示された先を見て、息を呑んだ。
そこには小さな集落があった。
荒地を切り拓いた畑にはひとびとが集っていた。
農具を洗い、空を眺め、思い思いに過ごす住民たちは子どもから老人までいる。
どこにでもある田舎の集落だ。
ただ服装だけが着物姿から現代と変わらない服装までまばらだった。
蓮華の花がかすかに芽吹いた斜面で、不釣り合いなスーツ姿の女がいた。土で少し汚れたストッキングと黒いリボンのバレッタ。
女が俺を見留めて言う。
「片岸くん?」
「井沢さん……」
ここに来るまで忘れていた、俺の上司だった井沢がそこにいた。
「無事だったんですか」
「来ちゃったんだ」
井沢は曖昧に笑う。俺は思わず詰め寄った。
「今まで何してたんですか。ここは何です。ここの連中といい神といい、どうなってんだ」
俺の剣幕に気圧されたのか、井沢は少し目を丸め、すぐに俯いた。
「片岸くんならもうわかるでしょ」
頭に流れ込んでいたが整理する暇のなかった情報が駆け巡る。補陀落山の集落、時代の違う服装の人間たち、失踪した井沢。
「知られずの神に消された人間の溜まり場……か?」
井沢は静かに頷いた。
俺もとうとう消されたのか。おそらく宮木も。
ここを調べようと思った者が皆辿った末路だろう。ミイラ取りがミイラになる。
地下室のノートの一文が過った。
神はひとの手には負えない。
井沢は俺を宥めるように微笑んだ。
「私はここに来てよかったよ。弟にも会えたし、同じようなひとが沢山いるし」
「いいわけあるかよ。こんな神隠しみたいな……」
声が掠れて上手く出ない。
井沢はふと顔を上げた。
「片岸くん、会わせたいひとがいるの」
俺は井沢に手を引かれて畑を横切った。
突然の来訪者に慣れているのか村人は無関心な視線を向けただけだった。
「領怪神犯は得体が知れなくても名前の通り神でしょう」
足を進めながら井沢が言う。
「神を支えるのは信仰。どれだけ有害で怖く思えても、 領怪神犯の起こす怪異はそれを信じて望むひとがいるからだと思うんだ」
俺は答えを返せなかった。
「だから……」
井沢は言いかけて立ち止まった。
「ここから先は本人たちで話した方がいいかな。着いたよ」
俺の手から井沢の手が離れた。
女が背を向けて立っていた。
女が振り返る。
線の細い横顔。笑っていても不幸そうな黒子。
「代護……」
俺を名前を呼ぶ声をずっと覚えていた。
「実咲……」
片時も忘れたことのない姿がある。
自分の五感が信じられない。無意識に伸ばした手を取る冷たい指先は紛れもなく現実だった。
もう一度会えたら何を言おうと考えていただろう。
「本当に、実咲だよな?」
実咲は呆れたような苦笑を浮かべ、俺の手をそっと導いて自分の頰に当てた。間違うはずのない本物だ。
「なあ、実咲、ごめんな」
喉に石が詰め込まれたように言葉が出てこない。
「何にも気づかなくて、聞かないでいればいつまでもずっとやっていけるんだと思ってて、こんなに遅くなって、悪かった」
無言で俺を見返す実咲の目にはいつもの悲しみと諦めが宿っていた。
「やっぱり、もう遅いよな」
上手く笑えなかった。泣きたいのは実咲の方だろう。こんな奴と結婚してこんな場所に来る羽目になった。
「違うの、怒ってるんじゃないの」
実咲は俺の顔を包むように手を伸ばす。
「貴方がここに来るのは、これで三回目なの」
世界が無音になった。
実咲の背後で蓮華草が揺れ、鳶が飛んでいるのに、何も聞こえない。
「嘘だろ……」
実咲は泣きそうに笑って首を振った。
「俺がお前に会って忘れるはずないだろ! じゃあ、何で俺はここに残らなかったんだ? 実咲を置いて俺だけ帰ったのかよ?」
俯くような首肯だった。
「何で……」
言いかけてから思う。記憶はないが、俺が実咲を置いて帰ったのならそれしか理由がない。
実咲は察したように頷いた。
「そう。前もその前も、貴方は私の故郷のことを解決するって言って戻ったの。全部終えて私が戻れるようにしてくるからって」
「馬鹿か俺は……」
二度も約束して、全部忘れていたのか。偶然の投書がなければあの村に辿り着きもしなかった。その間ずっと実咲は待っていたのに。
「ごめんね、何も言わなくて。私だけあの村から逃げて幸せになるのが怖くて、貴方に言って嫌われるのがもっと怖くて、それで逃げたの」
俺は実咲の手を握った。左手に硬い指輪の感触がある。
「実咲、やっとお前の村に行ったんだ。地下にいた子どもも出して、警察に届けて……もう終わったんだ」
実咲は俺の手を解き、俺の首に両腕を回した。
「よく頑張ったね。ありがとう。本当によく頑張ったね」
「なあ、これでもう帰れるだろ。もう何も心配しなくていいんだ」
湿った息が頰にかかった。
「ごめんね、でも、もう無理なの」
「どうして……」
「私はここにいすぎたから。それにね、あの神はどうにもできないよ。あれはずっとあそこにいる。もし帰れても私はあの村のひとたちと神に怯えてまたここに来ちゃうと思う」
実咲の体温が俺から離れる。何度も夢に見た顔で実咲が笑った。
「この山の神様は隠れたいひとを隠してあげるだけ。貴方が帰れても、私が帰れないのはそのせい。私は弱いから」
「じゃあ、どうすればいいんだよ。もうやらなきゃいけないことは何もなくて、お前もいなくて、どう生きていけばいいんだよ」
「生きてれば何とかなるよ。みんな少しずつ忘れて、思い出の中に閉まって生きていくの」
手を伸ばすことすらできなかった。俺はかぶりを振った。まるで子どもだ。
「まだ私の故郷みたいな村がたくさんあるはず。私みたいなひとがいたら助けてあげてくれないかな」
実咲が微笑む。きっと前も前の前もこうして俺を送り出したんだろう。
「貴方は私と違って強いひとだから」
「強い訳ねえだろ……」
風の音がする。蓮華畑の向こうに幻のような黒いひと影が見えた。
俺が帰りたくなくても、宮木はそうじゃない。
俺は顔を上げる。
実咲は全てをわかったように頷き、俺の手の甲をなぞった。
「元気でね、代護」
「またな、実咲」
そのとき、実咲は一点の翳りもない顔で笑った。
「馬鹿」
風が止んだ。
木々のざわめく音がした。
俺は廃線の駅が見える坂道に立っている。辺りはすでに暗く、天蓋のように空を覆う森と境目がない。
「宮木!」
振り返ると、当然のように宮木が立っていた。
「何ですか?」
赤茶けてところどころが千切れたフェンスに、「本線」「当駅」「臨時」と書かれた画用紙が揺れていた。来たときと何も変わらない光景だ。
俺は何を焦っていたんだろう。
「すっかり暗くなっちゃいましたね。その割に収穫は何もないですし」
宮木が伸びをする。
「うわ、すごい土」
宮木のスーツの裾が泥で汚れていた。俺の手も埃で汚れ、古い書庫の整理でもしたようだ。
「洗っていくか、温泉って書いてあるぞ」
「火傷するじゃないですか。午前のことまだ忘れてませんよ」
元気な抗議に俺は苦笑する。
廃線の線路に道の上に盛られた土砂の塊から鳥居が突き出していた。行きに見たのと何ひとつ変わらない。
何も変わらないのに、何かが違う。
大事なものの前を素通りして行ったような感覚だ。
俺たちは坂道を下る。
駅舎の屋根の跡の下、かつて足湯だった囲いは泥と濡れ落ち葉が溜まり放題になっていた。
「領怪神犯どころか失踪者の痕跡もなし。組織的な犯罪でもなさそうだし、本当に神隠しだな」
「そういえば、ここに来る前に神隠って地名の村がありましたね」
「縁起でもねえ」
「そうでもないですよ」
宮木が俺と肩を並べる。
「神隠って地名の場所は隠れキリシタンが多かったんです。役所に見つからないよう、『神のように隠してください』って願いを込めてつけられたらしいですよ」
「詳しいな」
雨も降っていないのに雫が落ちた。
まだ温かな何かの感触をなぞるように手の甲に落ちた水は、土と埃を吸って零れ、一筋だけ汚れを洗い流した清廉な痕を作った。
「片岸さん……」
宮木の視線に、俺は顔に手をやる。頰が濡れていた。雫の出所は頰より更に上だった。
宮木は何も聞かず、俺の肩を励ますように強く叩く。
「痛えよ」
俺は何度も顔を拭って再び歩き出した。
遥か上の山から白いヴェールを被った何のありがたみもない神像が、俺たちを見下ろしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます