四、こどくな神
生温かい空気とともに強烈な腐臭が吹きつけた。ひときわ大きな、ずっ、と言う音が響く。
影が近づいている。
俺は少女が悲鳴をあげるのに構わず抱え上げた。
「宮木、走れるか!」
「はい!」
俺はペンライトを咥えて走り出した。腐臭は濃くなり、背中にじんわりとひといきれに似た熱が染み出す。
「あっち」
少女が指した方へ足を早める。
視界の端に黒く膨れた影の中でまばらな歯のような白い輝きが見えた。
「くそっ……」
顔の真横で五本の指が宙を扇いだ。ふやけた指の先がやけに細く尖っている。爪ではなく、皮膚を突き破った骨だと直感で思った。
揺れる光の中に下半分残して崩落した座敷牢の檻と小さな空間があった。腐臭が薄くなった。
背後の気配が消える。俺は足を止め、周囲に何もいないのを確認して少女を降ろした。
「今、六原さんって……」
宮木がぜえぜえ言いながら汗を拭う。
「六原さんはいつもあの辺にいるの。あの辺に捨てられたから」
少女の平坦な声にぎょっとする。
「捨てられた?」
「昔いた六原さんは神さまのことで嘘をついたから悪いひとたちなんだって」
「嘘?」
少女が頷いた。
「よくわかんないけど。わたしみたいに神さまがちゃんと見えるひとばっかりになっちゃったら神さまは弱くなっちゃうんだって。なのに、六原さんは神さまを村中を怖がらないひとばっかりにしちゃおうって考えたんだって、お母さん言ってた」
少女の答えは要領を得ない。
俺は必死で頭を回す。少女が昔と表現するということは実咲や義兄より前の話だ。彼らの両親が死んで兄妹が出て行って家系が途絶えたのは、それ以外の親戚が村人に殺されていたからということか? それ以前に––––。
「六原家は何をしたんだ?」
「あのね、よくわかんないんだけど。うさぎとかにわとりを殺せるひとは、神さまを怖がらないからほんとはよくないひとなんだけど、六原さんのご先祖さまはそういうひとの方がいいひとなんだって嘘ついたの」
少女は首を傾げた。
「六原さんの家のひとは出て行っちゃって、残ってたおじさんとおばさんが死んだときに、お母さんたちが家を片付けたらね、そういう研究の書類? みたいなのが出てきたんだって」
そういうことか。首筋を冷汗が伝う。
「六原さんは悪いひとたちってわかったから、お墓を全部掘り出して、おじさんとおばさんの骨と一緒にみんなでここに捨てたんだよ。それから、わたしみたいに動物を殺せる子は一緒に地下に入ることになったの」
「わかった……」
宮木が俺の顔を覗き込む。
「蠱毒は毒でも病でもない。この村の神の力は恐怖なんだ」
「恐怖、ですか……」
「麓の住民の不揃いな証言もこれで説明がつく。たぶんここの神は相手が恐れるものの形を取るんだ。逆に、恐怖を抱かない人間には力が及ばない。だから、理由をつけてそういう人間を監禁してる」
義兄は、この村は近親交配で神を見ることができる人間を作っていたと言っていた。
だが、実際は逆だ。
六原家は大昔、他の一族に悟られないようにここの信仰に帰依しない人間たちで村を満たそうとしたのだ。恐怖を媒介にする神の力を少しでも削ぐために。
小動物殺しの儀式はそういう人間を見分けるために六原家が提案したものなのだろう。それが、村人が真意に気づいてからは逆転して、神の脅威になる人間を炙り出して排除するためになった。
俺はライトで座敷牢を照らし出した。干からびた土の間に破れた陶器のような人骨が見えた。
実咲の両親を含めた、六原家の人間の骨だ。
俺は心の中で毒づく。こんな信仰が無けりゃ、実咲ももっとマシに生きられただろうに。
少女が怯えた顔で俺を見ていた。自分が怒らせたと思ったのだろう。この子どもに表情らしい表情が浮かんだのは初めてだ。
俺は少女の前に屈み込んだ。
「なあ……、ここから出たくないか?」
俺の声が洞窟を伝って響き、水滴がひとつ落ちた。
「出ていいの?」
子どもは恐る恐る俺を見上げた。
こんな顔を見たことがある。結婚する直前に、弱音ひとつ吐いたことがない実咲が何気なく呟いた。
「幸せになっていいのかな」と。
この村で地下に囚われたままの人間たちのことを考えていたのだろうか。東京に来ても、俺といても、実咲はずっとこの村に囚われていたのかもしれない。
「好きなところに行けよ」
少女は困惑気味に俯いた。
「大丈夫ですよ!」
宮木が明るい声を作る。
「神は捕まえられなくても人間は逮捕できます。監禁に殺人に児童虐待、あと何かこれも違法建築ですし! 全員しょっぴいてやりましょう! 片岸さん、やりましたね。久しぶりにちゃんと解決できる案件ですよ!」
「ほら、神様より人間のが怖いだろ」
俺に指さされた宮木が不満げな顔をする。少女は曖昧に笑ってからまた顔をもたげた。
「お母さんも捕まるの?」
「それはまあ……罪が軽くなるように頑張ります!」
天井からまた雫が垂れている。まだ水は少しだけ湧いているらしい。井戸が枯れていなければあの神の動きも制限できて、こんな地下牢も作れなかっただろうに。これはぼやいても仕方ないことだ。
俺はかぶりを振って立ち上がった。
「行こう、沼地まで案内してくれ」
ずっ、ずっ。
音が響く。再び目の奥が痛くなるような強烈な腐臭が漂った。暗闇がまた溶け合ったようなひとの形を作る。
俺は少女を抱え、宮木に目配せした。走るしかない。
生肉を引きずるような音と、雫の落ちる音が混ざり、靴底に濁った水が染み出すような錯覚を覚える。走る足がもつれそうだ。
「そういえば、他に囚われてるひとがいるんじゃないんですか!」
隣を走る宮木が上ずった声を出す。
「生きてるひとはわたししかいないよ」
少女が俺のシャツの襟を掴んでしっかりと縋りついた。
「でも、みんな神さまがいやだから逃げてるの。ずっ、ずっ、ってやると六原さんも逃げるんだ」
あの足音は今まで地下に囚われたり捨てられた人間たちの霊だろうか。
どん、と鈍い音がして目の前を土煙が霞ませた。
土の破片がぼろりと剥がれて砕ける。
半壊した座敷牢の天井から長い髪と鱗を剥いで作った帯のような光沢が垂れていた。
「あれ……」
異形の神が能面の顔で俺たちを見ている。
背後を顧みた。もつれた足取りで黒い影がこちらへ向かってくる。八方塞がりだ。
「どうしろってんだよ……」
影の中の光と目が合う。白濁した虚ろな眼光が俺を捉えた。
地下に捨てられた六原家の死人たちが迫っている。
実咲や義兄の両親たちもこの中にいるのか。
何を言えばいい? 貴方の息子と娘を助けるから見逃してくれなど言えるはずはない。現に俺は実咲を救えなかった。
「片岸さん、ちょっと、しっかりしてください」
立ち尽くす俺を宮木が急き立てる。俺に縋る少女の手に力がこもった。
亡者たちがすぐ近くまで来ている。
なら、せめて––––。
「あんたの子どもたちを不幸にしたこの村を俺たちが潰すから……」
ひとりでに口を突いて出た言葉に影たちの動きが止まる。濁った目が俺を正面から見据え、腐臭が消えた。
腐りかけの死人たちの群れがいた場所にはがらんどうの地下道が広がっているだけだ。
「一旦、あっちに戻るぞ!」
俺は宮木がついてきているか確かめ、元来た場所へ駆け込んだ。
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