三、こどくな神
「蠱毒って……」
ずっ、ずっ、ずっ、と重い胴体を引きずる音がする。
虫の這う音、鳥の羽ばたき。
生温かい空気と壁中の凹凸が魔物の胎内のような地下に怪異が蠢く音が充満していく。
檻の中のとぐろがゆっくりと回り、西陣織のような光沢を持った鱗の腹が一周する。懐中電灯で切り取った格子の中に顔があった。
男とも女ともつかない頬骨の突き出した細い顔に、濡れそぼった髪が貼りついている。この村の人間の顔だ。
ぽっかりと空いた口がだらしなく唾液を垂らす。
顔が一瞬後ろに下がり、次の瞬間、金属を打ち鳴らす激しい音が響いた。
「宮木、離れるぞ!」
俺の声を掻き消すように衝撃音が響き、牢の中の蛇が檻に全身を打ち付ける。パラパラと土の欠片と埃が舞い落ちた。堅牢な格子がたわみ、ひびが入る。
俺は宮木の腕を掴んで駆け出した。
「片岸さん、ちょっと!」
「何だよ!」
「あれ!」
宮木が俺の懐中電灯を引ったくって前面を照らした。
光が土を抉り抜いた天井を舐め、道の先が白く浮き出す。
長く続く洞穴の両脇は壁の代わりに太い木板がはめ込まれた檻が続いていた。
ここら一帯、全部地下牢だ。
十字に切り取られた闇が膨れ上がり、その中に無数の影がある。
セロファン紙のような羽が擦れ合う乾いた音と、生肉を床に叩きつけるような粘質の重い音がする。
「宮木、一気に抜けるぞ。横は絶対見るなよ」
「頼まれたって見ませんよ……」
俺は目を伏せ、足元だけ注視して走り出した。
歩調に合わせて懐中電灯が上下し、無作為に道筋を照らす。
光の円の端で毛の生えた虫の足が擦り合わされる。手足と頭のない人間の胴らしきものが隆起した背骨を折り曲げて這う。
首筋に細い髪の毛か触覚のようなものがさわさわと触れた気がして俺は声を上げそうになる。後ろには宮木しかいない。暗闇と恐怖が見せる幻覚だ。
目の前がかすかに明るい。
少し先の道が広くなり、右手側に鈍い輝きが見える。俺は足を早めた。
人力で掘ったような歪な洞窟を抜けると、広い足場の先はまた細い道が続いていた。
右側に見えた輝きの正体は天井にわずかに開いた穴から受ける夜行を反射する水溜まりのようだった。
俺は宮木がついて来ているのを確かめる。
「片岸さん、早く抜けましょう……」
彼女の声は掠れていて硬い。視線は水溜りの方を向いていた。五原の言葉が蘇る。地下水は枯れたと言っていなかったか。
ずっ、ずっ、ずっ、ずっ、と、先ほど聞いた重い音が鼓膜をねぶった。
懐中電灯は向けずに目だけを右側に動かす。
黒光りする長い胴体が雨に濡れた路面のような大蛇が真下にいた。暗闇の中に能面の顔が浮き出す。
光のない瞳が俺たちを捉えるより早く、心許ない道を一気に駆け抜けた。
土壁がぽろりとこぼれて俺の頭や背を打った。木の根が露出した地下道は四方が壁に囲まれている。座敷牢はない。
俺は混乱を吐き出すように大げさに息をつく。
「……お化け屋敷か、ここは!」
「片岸さん、今までどんなお化け屋敷入って来たんですか!」
怒鳴る宮木の声が震えていた。こいつも無理をしているんだろう。
俺は息を整えながら壁を探る。かさりとした感触が触れて飛び退いた。
ペンライトを懐から出して光を当てると、般若の面に似た弱々しい虎の顔が現れた。郷土資料館で見たのと同じ絵だ。
「やっぱりな……」
ペンライトで真っ暗な道を照らすと、壁の両側に古い和紙に描かれた絵が張り巡らされていた。
「やっぱりって何ですか……さっき、蠱毒って」
「ああ」
俺は咳払いし、唾で乾ききった喉を潤す。
「麓の住人が沼地で蛇だ虫だを見たって言ってただろ。みんな好き勝手言ってたが、共通してるのは毒がある生き物ってことだ」
宮木が息を呑む音がする。
「それに、この村に来たときの湧き水。あそこの看板に村が何度も疫病に見舞われて、その度に湧き水に助けられて来たって書いてあった。対して、枯れた井戸には悪い物を捨てる。たぶん、この村じゃ山の上から湧いてくる水が神聖なもので、地下の水は穢れたものって認識になってるんだろ」
「じゃあ、ここの信仰は水にまつわる神ってことですか?」
「たぶん、もう一歩捻ったやつだ」
薄い金属を叩いたような音がして、天井から垂れた雫が足元を打った。
「郷土資料館で病に関する展示にあれだけの場所を割いてたんだ。おそらくだが、鍵は水が運んでくる疫病だと思う」
俺はライトで地下の空間を照らす。
「こんなデカい場所、さすがに一から掘った訳じゃないだろ。たぶんここは井戸水が流れてた空洞だ。井戸は別の村とも通じてて、他と隔絶された村に病が流れ込む唯一の経路だった。『地下に悪いものが流れてくる』から、『地下に悪いものがいる』に変わって、信仰が作られていったんだ」
「毒じゃなく病を重ね合わせて作られた蠱毒ってことですか……」
「推測だぞ」
薄明かりの中で宮木が顎に手をやる。
「あとは、何でこの神に私たちを会わせようとしたかですが……」
ずっ、ずっと、音が聞こえた。俺たちは咄嗟に明かりを音の方向に向ける。
少し先に小さな人影がうずくまっていた。
宮木が押し殺した悲鳴を上げる。
一歩後ろに下がりかけたが、戻ったところでいるのはあの大蛇の化け物だ。影の方は小さい。
俺がもう一度光を向けると、人影は眩しそうに手で庇を作った。
「人間か……?」
痩せこけて髪も服も汚れた子どもが壁にぴったりと背をつけて座っている。
脂ぎった髪の中の瞳が俺を見た。子どもは俺から視線を逸らさず、座ったまま背伸びして壁を擦り、また屈み込む。ずっ、ずっ、というのはこの音だ。
それに次いで暗闇の先でぱたぱたと軽い足音が響き、遠ざかった。俺たち以外にも中に誰かいるのか。
「あの、大丈夫……?」
宮木がライトを手で覆って光量を下げながら聞く。ずっ、ずっ、と背中で壁を擦る音。子どもは落ち窪んだ眼窩から溢れそうな目で俺たちを見上げた。
「だれ?」
消え入りそうな声だった。俺は何と答えていいかわからない。澄んでいるが感情の読み取れない目が俺たちを眺めた。
「うさぎかにわとりを殺した?」
質問の意図がわからず、俺は首を横に振る。
「なんだ」
子どもは土を引っ掻くように爪を立て、背筋を壁に這わせて立ち上がった。痩せこけた足はそうしなければ立てないのだろうと思わせた。
「いつからここにいるの?」
「わかんない」
宮木の問いに子どもは小さく答え、背を向けて歩き出した。俺たちは慌てて追いかける。
心許ない足取りにはすぐ追いついた。
「あのね、私たちは……上に住んでるひとたちにここに入れって言われたの。それでね、ここから出たいんだけど……」
「わたしのお母さんに言われたの?」
「お母さん?」
ペンライトの光の中の子どもは細面の顔を曇らせる。幼さに似合わない陰りは五原に似ていた。
「ここの神様に会ってこいって言われたんだ」
俺の声に子どもが身を竦ませる。宮木が詰るような視線を向けてから子どもの肩を抱いた。
「あの神さまに会ってもいいことないよ。何もしないけど、気持ち悪いし、ずるずる這ってくるの。だから、神さまが来たら壁を擦って逃げろってみんなに教えるの。声だと響いちゃうから」
子どもは老人のように乾いた手でそばの壁を擦った。ずっ、ずっと言う音は地下で神の襲来を伝える合図らしい。
「みんなって誰だ、他にも君みたいな子がいるのか?」
俺は言いながら考えを巡らせる。この子どもが地下に監禁されている理由は何だ。何かの病か? この村では病人を生贄に捧げているのか?
「みんな、うさぎとかにわとりを殺したひと」
「何?」
俺たちが困惑する間に、子どもは宮木の手をするりと抜けて前に進み出した。
「一原さんから十原さんまで集まって、わたしとかと同じくらいの年の子で動物を殺すの。弟が嫌だって泣くから代わりにやってあげた」
足音だけが暗がりにこだまする。俺たちの足音より多いのは反響のせいだと思いたい。
「そうしたら、わたしは神さまに選ばれたんだってお母さんに言われて、ここで暮らせって。神さまはこどくだから、わたしみたいに本質? を見てくれるひとが必要なんだって」
子どもの声には何の感慨もない。
「それから、ずっとここにいるの。村のひとが毎日ご飯とか身体を拭くものとかを入れてくれる。聖ちゃんは自分のせいだって泣いてて、たまに漫画とか持ってきてくれる」
「聖ちゃんっていうのは弟?」
「そう」
五原家の少年が投げたメモを思い出す。お姉さんとは彼女のことか。手紙はあの子どもにできる精一杯のSOSということになる。
「食事が差し入れられる場所がわかれば出られるかもしれませんね」
宮木が声を潜める。俺は今更ほとんど誰にも知らせずにここに来たことを後悔した。救助は望めないなら俺たちで脱出するしかない。
「村のひとはいつもどこからご飯をくれるの?」
「向こう。村のひとしか知らない沼に通じてるところ」
少女がより一層深い闇を指す。
「案内してくれる?」
少女は唇を噛んで押し黙る。水滴が天井から垂れ、ガラスのように砕けた。
「でも、今だとあっちには……」
深い闇が輪郭を持って蠢き出したような気がした。黒い線はわずかに丸く、ひとの頭なら肩までによく似ていた。ずっ、ずっ、と湿った土を掻く音がする。
「六原さんがいる」
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