二、こどくな神

 この辺に五原いつはらさんのお宅はありますか。


 資料館で見かけた母子にそう尋ねると、はあっさりと山道をさらに登った先の森林を示した。

 ここから先はバスもない。

 俺と宮木は今、木の葉が擦れ合う音か、カラスの鳴き声かもわからないざわめきが天蓋のように頭上を覆う山道を歩いていた。



「片岸さん。さっきの親子と話してるとき、気づきました? お子さんのランドセルに三原って名札がついてました」

「ああ、たぶんこの村には一原から十原までいるんだろ」

「手紙の『一から十まで』と、メモの『五』って数字はそれぞれ村の一族を指しているんでしょうか」

「だろうな。だから、五原って奴のところに行けばいい」


「絶対に何かしらよくないことが待ってますよ……行かない方がいいんじゃないですか」

 宮木が大きく息を吐いたのは傾斜の激しい道のせいだけではなさそうだ。

 俺は足を止め、息を整えてから宮木を見た。



「宮木、お前はもう来なくていい」

「何言い出すんですか」

 細い眉が八の字に曲がる。

「今回の調査はほとんど俺の私情だ。お前まで巻き込まれる必要ねえよ」

 スーツの裏地に染み込んだ汗が冷えて背に貼りつくのが不快だった。


「それに、経験から思うにこの村は調査ですって言ってはいそうですかって通してくれるとは思えねえ。この先は公務員じゃなく六原家の婿って立場を使う。嫁も連れて来ないで別の女と来るのはおかしいだろ」

「……妹ってことでいいじゃないですか」

「全然似てねえよ」

 笑おうと思ったが上手くいかなかった。


 宮木は眉と一緒に唇も曲げてしばらく考える仕草をしたが、真面目な顔に戻って手を打った。

「やっぱり、私も行きます」

「話聞いてなかったのか」

「私も領怪神犯に思うところがあるんですよ。知れることは少しでも知りたいです」

「思うところって?」

「私が片岸さんの部下になる前の話です」

 宮木の顔には拒絶というより諦めに近い色があった。たぶん、実咲の話をするときの俺と同じ顔だ。


「それに、そんな青息吐息の片岸さんをひとりで行かせられませんよ。ただの地縛霊にもとり殺されそうじゃないですか」

 俺はいつの間にか額にも頰にもついていた汗を拭って溜息をついた。

「息切れしてんのは喫煙者だからだ。坂がキツい」

「禁煙してくださいよ」

 俺たちは気の抜けた笑いを交わして再び山道を歩き出した。



 木々しか見えなかった道のりにトラックの轍が刻まれていた。

 顔を上げると、幾分か緩やかになった斜面の両端に閉鎖的な生垣や石垣で囲まれた日本家屋が並んでいる。

 俺は蛇行する坂道に連なる家の数を数えた。十だ。


 どこかの家で番犬が狂ったように鳴き、鶏の声が重なる。

 軽自動車が通るのがやっとなほどの狭い道をミニトラックがガタつきながら降りてきて、俺と宮木は塀にへばりついて避けた。排気ガスに噎せ返っていると、上から視線を感じた。



 雑草を生やした石垣の上から、色白な三十程度の女が見下ろしている。切れ長の瞳と病的な肌はどこか六原や記憶の中の実咲に似ていた。


 狼狽えていると、湿気た木の表札が目に入る。

「五原さんのお宅で……?」

 女は怪訝な視線を返した。

「私……六原の婿養子に入った者です。ご挨拶に……」頭の中で言葉を組み立てている間に、女は幸薄そうな目元を歪めて微笑んだ。


「そうですか、それはそれは」

 どうぞと促され、俺たちは駐車スペースだけアスファルトで舗装した庭に通される。いくら人口の少ない村とはいえ家族でもないのにこんなに簡単に通すだろうか。ふと、六原の言葉が正しければ村民全員親戚のようなものかもしれないと思い、俺はかぶりを振った。


 庭には枯れたかすみ草と雑草がまばらに生えていた。

「そちらの方は?」

 五原は引き戸を手をかけて宮木を見る。

「妹です」

 一礼した宮木に微笑を返して彼女は戸を開けた。



 日めくりカレンダーと木彫りの置物が並ぶ玄関は田舎の家らしく広い。

「大変だったでしょう」

「ええ、妻が急に体調を崩してまして……初めて来るので少し迷いましたが……」

「そうじゃなくて、六原さんのお家はもうないでしょう? ご両親も亡くなって、親戚もほとんど一家断絶ですから」

 冷たい響きの言葉に俺は息を呑む。実咲の両親が他界したのは聞いていたが、親戚のことは知らなかった。

「ええ。まあ……」



 五原は明かりをつけて淡々と進んだ。障子の奥が薄暗く光る部屋の並ぶ廊下をいくつも抜け、客間らしい畳張りの部屋に突き当たる。暖房はついていたが、広いせいか底冷えする空気が部屋の隅に漂っていた。


「うちのひとは出ていますけどじき戻りますからゆっくりなさって。妹さんもね」

「私までそんな」

 手を振って固辞する宮木に五原は座布団を勧める。

「もう貴女も家族だもの。それに、今年はうちの家が当番ですからおもてなしさせてくださいな」

「当番?」

 五原は俺たちを座らせると、向かい合って正座し、細い目を更に細めた。



「本当にもう駄目かと思っていたんですよ。六原が断絶して我々が揃わなかったらどうしようかと。でも、貴方方が家族になってくださったからまた存続できる。本当に助かりました」

 いくつもの羽音がして、女の肩の先で格子状に区切られた障子に鳥の影が黒く映った。


「妻から詳しく聞いていないんですが……ここには一原から十原までの家があるとか」

 五原は背筋を伸ばして頷く。

「ええ。我々は疫病や災害で何度も危なくなったとき、皆で団結して守ってきました。どれも欠かせない家族のようなものです。麓には余所者が入ってきましたが、我々一族とは別ですから」

 刀で切れ込みを入れたような瞳には光がない。



 答えに窮していると引き戸が開く音がしてけたたましい足音が聞こえた。

「あら、失礼」

 女は音もなく立ち上がると襖を開けて身を乗り出した。


しょうくん、ただいまくらい言いなさい」

 廊下の奥からぎょろりとした眼光が返り、瘦せぎすの子どもが顔を覗かせた。資料館で俺にメモを投げた子どもだ。

 子どもは一瞬俺と見ると、ぱたぱたと奥へ消えていった。


「お子さんですか」

「妾の子です。私は子宝に恵まれなかったので」

 ぴしゃりと放たれた言葉に俺はそれ以上返せない。

「変わった子ですよ。十歳にもなってろくに喋れもしない」

 五原は襖を閉めると、能面の笑みで俺たちを見下ろした。

「空気が篭るでしょう。そちら、開けますね」

 女が部屋を横切って障子を開けると、縁側に枯れ草だけが茂る庭が広がった。



 倒れた草の根を啄むカラスがくるりと首を向けて逃げるように飛び立つ。黒々とした翼の先に石で固めた歪な井戸があった。


 五原は屈んでカラスの羽を拾ってから井戸の方へ向かっていく。俺と宮木は縁側の下にあった雪駄をつっかけて後をついていった。

「ここは井戸水が湧くんですね」

 宮木が言ったそばから、五原は濡れた羽を井戸に捨てた。


「井戸は枯れていますよ。ここは悪いものを捨てる場所」

 女は婉然と笑う。羽は雨垂れで汚れてひび割れた石の中に消えた。

「村の湧き水はもっと上流から流れてきます。ほら、あそこに沼地があるでしょう」

 五原の指の先に目を凝らす。

「麓のひとは害獣だ害虫だが出るというけど、嘘ですよ。綺麗なところです」

 密集した木の幹の間にわずかに鏡面のような光が覗いていた。


「せっかくだしご覧になってきます? この家にいてもつまらないでしょう。帰るまでにはお食事の準備をしておきますから」

「いや、そんな……」

 目を逸らすと、逆光を受けて黒い壁のようになった家の二階の人影と目が合った。先ほどの子どもだ。ベランダからガラス玉のような目玉をギョロつかせて俺を見下ろしている。子どもはそよぐ洗濯物の後ろに隠れてすぐいなくなった。


 俺に倣ってベランダを見上げていた宮木は視線を地上に下ろし、乾いた井戸を一瞬見やった。

「兄さん、せっかくだし沼地まで行ってみる?」

 順応の早い奴だと思いつつ、記憶の中の実咲が六原を呼ぶ声が重なって、俺は曖昧に頷いた。



 家の裏手から抜け、細い木の枝に頰や服の袖を引っ掻かれながら進むと、葦に囲まれた沼があった。

 舗装などされていない道にいくつか水溜りがあり、徐々に地面が水に変わる。注意しなければ足を取られて沈み込みそうだ。


 沼地の中央には倒れた大木が墓標のように突き立っついた。

「戦前のままみたいな村だよな……」

「一次ですか、二次ですか、三次ですか?」

「そのわかりにくい呆けはもういいよ」

 宮木が肩を竦める。



 冷気が白い蒸気となって水面を漂っていた。

「麓の村人が言っていた毒虫や大蛇は見当たらないですね」

「村人の勘違いかもな。証言もまとまらねえし」

「それに、私たちまだここの神の姿を見てません」

 俺は乾いた唇を舐める。漠然とした守り神というだけでこの土地の信仰の輪郭が掴めない。


「まだ何かしらあるんだろうな」

「五原家にも、ですね。あの家の子……」

「メモを投げてきたガキだろ」

「もうひとりいますよ」

 俺は思わず宮木を見返す。

「聖くんってことは男の子でしょう。子に恵まれなくてお妾さんの子を引き取ったっていう。なのに、ベランダには女児用の服や靴が干してありました」


 俺は言葉を失ってただ沼地を眺めた。

 一から十までの名を持つ一族。麓の村人との断絶。神聖な湧き水と汚れたものを捨てる井戸。考えを巡らせるが上手くまとまらない。



 こんな村で実咲は育ったのか。

 結婚したとき、何気なく彼女が「やっと私にも帰れる場所ができた」と言った。

 そのとき詳しく聞いていれば別の道があったのかと今でも思う。だが、あのときは聞いたら実咲がいなくなりそうな気がした。


 ふと、沼地に細い影がよぎった。

 枯れた葦の脚の間に差し込んだように白い肌が見える。

 剥き出しの膝に薄く残った痣、腿の辺りで所在なさげに降ろした手指の細さ。

 恐ろしいと同時にひどく懐かしく感じた。見るなと念じながら視線は無意識に上を目指している。

 折れそうな細い首がもたげてこちらに向く。



「片岸さん?」

 宮木の声に弾かれて顔を上げると誰もいない。

 泥を浮かべた水面に映る狭い空は赤い雲が千切れながら流れていた。

「何でもない。そろそろ戻るか」

 俺は平静を装ってぬかるむ泥道を踏んだ。



 日はほとんど落ちかけて辺りは薄暗い。

 蜘蛛の巣のように張った枝の間から闇が染み出すようだ。それに合わせて村人たちの声が忍び出す。家々が密集しているとはいえ声が多い気がした。


 宮木に手を貸しながら五原家に続く傾斜を上がり、裏口の戸を開けたとき、俺たちは絶句した。



 闇に包まれた五原家の庭に家の影すら見えないほどのひとが密集していた。

 村人が一斉に俺たちを見る。

「お帰りなさい、六原さん」

 焚かれた篝火の照り返しを受けた村人の顔は橙の絵の具を塗った粘土の人形のようだ。皆、細面で生気のないどこか似た顔をしている。


「何ですかこれは……」

 今来た裏道を盗み見たがすぐ背後に回った村人に退路を塞がれた。後ろの村人に押し出され、俺と宮木は前へ前へと誘導される。


「六原さんが戻ってきたと聞いて、一原いちはらから十原とはらまで全員集まったんですよ」

 鷹揚に頷く五原に一同が頷く。


「急で驚きましたがおふたりともしっかりした方でよかった」

「ねえ、麓の腑抜けたひとたちとは大違い」

 さざ波のように笑いが伝播し、五原が手をかざすと強烈な光が目を焼いた。


「あら、ごめんなさい」

 女がくすくすと笑って光を仕舞う。その手元にスイッチを切った懐中電灯があった。

 五原は俺にそれを手渡し、しっかりと握らせる。

「妹さんもあった方がいいかしら。ひとつで足ります?」

「何をさせる気ですか」

 語気を強めた宮木に五原は笑って首を振った。前を塞いでいた村人が左右に割れる。



 目の前に石を積み上げただけの井戸がある。

 昼間見た場所からぐるりと裏に回り、塀に隣接した方まで誘導されていたらしい。

 庭先からではわからなかったが、井戸の裏側には四角い金属の板が地面に埋め込まれている。


 村の男が踏むと、跳ね上げ扉だったらしい板が口を開ける。中から埃と鉄錆の匂いが漂った。



「家族になるために、ここに入って見てきてほしいんです」

 五原が扉を全開にして、どうぞと手で指す。

「何を……」

「我々の守り神です」

 横目で見た宮木の横顔が強張る。


「安心してください、麓のひとと違っておふたりなら大丈夫ですよ。我々は皆、こどくな神の寂しさをひととき紛らわせてあげるんです」

 空洞じみた黒い目を細める五原の足元に、あの子どもが縋って俺を見つめていた。


「どうします……」

 小声で宮木が囁く。この数の村人を突破する方法はない。それに、入らないことには実態がわからない。

「行くぞ」

 俺は懐中電灯のスイッチを押し上げた。



 同じ微笑みを浮かべる村人たちに背を向け、俺は錆びついた鉄の枠に足を延ばす。

 懐中電灯を向けると、光の帯の中に階段が広がっていた。


 俺たちが完全に地下に入ったのを見計らって扉が閉じられた。

「これちゃんと開けてもらえるんですよね?」

「そう願うしかねえよ」

 宮木の声と足音だけが響いた。地下は思ったより広いらしく、懐中電灯を向けても闇が浮き上がるばかりで壁に当たらない。



 階段が終わり、靴底が土でできた床を踏んだとき、何かを引きずるような音がした。

 背後を照らすと木製の檻があった。奥に闇が濃淡の層をなっている。違う、とぐろだ。幾重にもとぐろを巻いた何かがいる。

 それと同時に地を這いずる音と羽の羽ばたきまでが響いてきた。


 座敷牢に似た檻の中でとぐろがシュルシュルと鱗を擦り合わせて回転する。その隙間から毛髪と白い顔の残像が見えた。


「宮木、考えてたことがあるんだけどいいか……」

「聞きたくないけどいいですよ……」

 震えた声が反響する。

「孤独な神ってのは独りで寂しい方じゃなく、呪術の方。『蠱毒こどく』だよな」

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