一、こどくな神
鼻が欠けた小さな地蔵像の隣に据え置かれた石の鉢から清水が湧き出ていた。
ひびの間から染み出す水は石の黒さを映して水自体も血のように淀んでいるように見える。
後ろの藪にもたれかかるように立てかけた木の看板には「清めの水」と書かれていた。
「胡散くせえな……」
煙草を片手に呟くと、
「まあまあ。どうもただの眉唾物ではないようですよ。ほら、村でコレラや日本脳炎などの疫病が流行ったとき、他の村と繋がる川などの水源が汚染されていると考えた村人は、度々湧き水に頼ってきたと書いてあります」
「自分の村さえ無事なら他はどうでもいいってか」
宮木が曖昧な表情を作るのがわかる。
今不機嫌になったところで宮木が苦労するだけだ。俺は長く煙を吐いて気を鎮めてから緩やかな傾斜になった沢を見上げた。
両端にそびえる天然の石垣には滑落防止用のネットがかけられている。申し訳程度の舗装をされた道は苔で緑色だ。こんなとこで足を滑らせたら一週間は死体が見つからないだろうと思う。
「
宮木は何が面白いのか看板をまじまじと眺めながら尋ねた。
「ねえよ。何でだ?」
「本当は今回の案件の依頼は
俺は文字通りスーツのジャケットに隠した一通の手紙を握りつぶした。
宮木は振り返って俺を見る。
「片岸さん。じゃあ、関係ないこと聞いてもいいですか」
「何だ」
「六原さんのこと義兄って呼んでますけど、血の繋がらない兄の方ですか、奥さんの兄の方ですか」
「関係なくねえよ」
俺は携帯灰皿に吸殻をねじ込んだ。
「嫁の兄貴の方だ。俺が昔結婚してた
宮木が小さく目を見開いた。
仄暗い沢を抜けると、一気に広くなった道路の脇に錆びたバス停の看板と、古いアイスのショーケースをそのまま大きくしたようなガラス張りの売店があった。
「とりあえず、聞き込みから初めて見るか」
宮木は大人しく同意を示した。俺に気を遣ってか、実咲についてはそれ以上問い質されなかった。いずれにせよ近いうちに俺から話さなきゃいけなくなるだろう。
重いガラス戸を押すと、埃くさい暖房がむっと広がり、土気色の肌の店主がカウンターの中で俺たちを見た。レジの横には食べかけのチョコレートバーと鹿か何かの角の欠片が置いてある。
「すみません。自治体から調査に参った者で……」
「やっと来てくれたのか!」
パイプ椅子を蹴倒して立ち上がった店主の勢いに面食らう。
「真面目に聞いてくれる奴もいたんだな、よかった! みんな俺の見間違いだっていうんだ!」
店主は交互に俺と宮木の手を奪って握手すると安堵の息をついた。
「ええっと、あの、何の話か詳しく伺っていいですか?」
宮木が背にやった手の甲をこっそりとジャケットの布地で拭いた。
店主は戸惑いと失望半々の顔をした。
「沼地に住んでる大蛇の調査じゃないのか?」
「大蛇?」
俺と宮木は同時にお互いを見て、同時に自分は知らないと首を振った。
「沼の水が全部波打つようなデッカい蛇が住んでるんだよ! バシャーンって音立ててたまに浮かんで来るんだ。姿は見たことないがたまに水面がトグロを巻いてるからわかる、ほら見ろ!」
店主はネルシャツの袖をまくって腕を見せた。土気色の腕があるだけだ。
「思い出しただけで鳥肌が立ってるだろ。実際に見た奴じゃなきゃこうはならない」
真剣に身震いをする店主に呆れを気取られないよう、早々に切り上げて俺たちは店を出た。
太陽に薄くかかった雲のせいか全ての彩度が一段と低く見える屋外に出ると、バス停の前で四十代くらいの主婦が立っていた。
「あら、本当に蛇の調査に来たの?」
「違います」
主婦は俺たちを爪先から頭まで眺めた。
「ならいいけど。あそこの店主は馬鹿なのよ。臆病なの。あれと同級生だったけど、子どもの頃藪で蛇に噛まれてからホースを見たってマムシと間違えて飛び上がるくらいなんだから」
俺は売店の入り口の隅にある、新品のようにきっちりと巻かれたゴムホースに視線をやった。
「それより沢に出る毒虫を何とかしてほしいわ。見たことない黄色とか黒とかのがいるんだから。刺される前に専門のひとを呼んでくれないと」
女の言葉を遮るようにファンベルトの緩んだ大型車の走行音がして、バスの長い胴体が滑り込んできた。
車内には俺たちと主婦以外誰もいない。
一番奥の椅子に座り、シートの奥の硬い金属の感触を感じたそばから宮木が言った。
「奥さんの家の害虫駆除に私を連れてきたんですか?」
「そんな訳あるか。だいたい嫁はもう死んでるよ」
言ってからしまったと思うが、宮木の何とも言えない表情に手遅れだったと気づく。
「何か、すみません……」
「いや、今のは俺が悪かった」
バスが動き出し、地面の凹凸が足にまで振動として伝わってきた。
次のバス停までのアナウンスすらなく、ガタガタと車体が揺れる音だけが響く。
「もしかしたらとは思ってたんですが……やっぱりそうだったんですね」
奥さんのこと、と宮木が付け加える。
「ああ……」
俺は急な坂道と鬱蒼とした木々だけが斜め後ろへ流れていく窓の外を眺めながらシートに頭を預けた。
「実咲とは大学の民俗学サークルで知り合ったんだ。そのまま卒業後に結婚した」
「理想の恋愛結婚じゃないですか」
宮木が敢えて軽口を叩いた。俺も笑ったような声を作る。
「お互いろくな出会いがなかっただけだ……結婚の前、家族は兄しかいないと言われた。実家の親戚周りの挨拶も墓参りも行くって話が出たことはなかった。俺も嫌な思い出があるんだろうと思って踏み込まなかった」
車窓に映る俺の眉間に深いシワが刻まれていて、指で押し隠すように額に手をやった。
「後から六原に聞いた話だが、ここにはどうも妙な守り神とそれにまつわる信仰があったらしい」
「領怪神犯ですか?」
宮木が声を低くした。俺は首を振る。
「どうかはわからねえが、どうも神がかり……今で言えば精神疾患とかそういう病気の人間を敢えて作るために近親交配をしていたらしい。田舎じゃ稀に聞く話だな」
「それは確かに……帰りたくなくなる地元ですね……でも、現代までそれが?」
俺はジャケットに手を入れてくしゃくしゃになった手紙を出した。差出人どころか消印もない。どうやってこれが届いたのだろう。
破れた封筒から紙を引きずり出すと、隣の宮木が覗き込む。小さく息を飲む音が聞こえた。
引きちぎられた罫線ノートには鉛筆で何度も書き直した字の羅列がある。定規を当てて書いたような直線の文字だ。筆圧が強く、途中で鉛筆が折れた痕まである。
“おねえさん
来てください。 ひとりだけいってしまうのは ズルいです。ひどいです。
のこってるひと こどく です。
かみサマもこどくです。
出してあげたいです。
一から十まで揃わないと。ダメです。
来てください”
末尾にこの村の名前が書かれていた。
「何ですか、この手紙は。子供が書いたんでしょうか……」
「さあな」
俺は紙を畳み直して封筒にねじ込み直した。
「ろくでもない信仰は現代まで生きてるかもしれないってことだ。罠でも何でも入って見なきゃわからねえ」
バスのアナウンスが終点を告げる。電光掲示板に郷土資料館の文字が現れた。
終点だと言われているのに止まりますのボタンを慌てて押した自分に気づく。
バスが停車し、俺は平静を装って宮木より先に席を立った。
広い道の先に矢印の標識がふたつある。
ひとつは湿地、もうひとつは郷土資料館だ。
折れ曲がった道に視線をやると、「
「九原、か……」
一から十まで揃わないと。俺は手紙の中の文字を頭の中で復唱してから折れた道へ足を進めた。
資料館というより刑務所のような金属の囲いの合間に一部分抜け道があり、開館中と書かれた札が下げてある。やる気のない公営の資料館らしく、少しだけ気が抜けた。
敷地の中は開館時間とは思えないほど閑散としていた。
「やる気がないですねえ……」
宮木が呆れ笑いで呟く。
「土地が余って余って仕方ねえから作ったって感じだな」
野球でもできそうなほどの原っぱに、説明書きも何もない屋根の低い建物が点在している。驚くことに無人ではなく、宿題のために来たのか小学生くらいの子どもを連れた夫婦が二、三組、建物を出入りしたり、隅のベンチに腰掛けていた。
中央の少し土が盛り上がった部分には木の像があり、この資料館の設立者、九原何某だという。陰鬱な痩せた顔は六原にも少し似ていた。
近親婚など狭い村では珍しいことではないだろうとわかりつつ、腹の底で不快感がざわついた。
奥の建物から眼鏡をかけた少年が母親に手を引かれて出てきた。お化け屋敷から出てきたような固い表情だ。案内図には「防疫・病との付き合い方」と記されていた。
建物の受付には誰もいない。
自動ドアを抜けると、極限まで明度を落とした照明が渋茶色の壁や天井にぼんやりと反射している。まるで地下牢だ。
「暗いですね、節約でしょうか」
「税金で運営してるだろうからな」
言いながら顔を背けると、目の前に現れた黒と赤の筆で書かれた般若の顔と向き合う形になってギョッとする。
壁一面に病的に痩せた虎や女の顔のついた大蛇の絵が貼られている。
「公営のお化け屋敷か、ここは」
うんざりしてぼやくと宮木がくすくすと笑った。
「どうもこの村では疫病を化け物に見立てて絵に記していたようですね。ほら、ここに」
細い指が指した蛇の絵の注釈に水疱や発熱の文字がある。虎は虎列刺とも書くコレラだろうか。
「ソ連風邪までありますよ。こんな日本の奥地まで流行ったんですかね」
「あの国は防疫に関してはしっかりしてそうだけどな」
順番に絵を眺めながら歩くが、不気味なだけでこれといった収穫はない。
いつの間にか俺を追い越していた宮木が奥にある黒い暖簾を潜り、小さく悲鳴を上げた。
「どうした?」
暖簾を跳ね除けると宮木の肩越しに半裸の老人がいた。
「すみません、いや、こんなものまであると思わなくて……」
暗闇に目が慣れてくると、老人は本物と見まごうような人形だった。痩せこけた上半身を露わに胡座をかいた人形の前には赤い柵がある。
白濁した目には格子を透かして突き抜けるような鋭い光が宿っていた。
「座敷牢か……?」
答えるようにスピーカーからざらりとノイズが走り、擦り切れたテープの音声が流れ出す。
「明治まではこのように心を病んだひとを……閉じ込めておく風習が各地にありましたが……村では……神がかりのひととして丁重に扱う……ひとつの結界としての……役割を……」
俺はスピーカーの網目を睨む。音声はそこで途切れた。
「不気味な展示ですね」
宮木の声に返事をするのも忘れて俺は座敷牢の人形を見た。ガラスを埋め込まれた眼窩からは鈍い光が返えるだけだ。
この村も異形の神と異常な信仰がある。俺はそう確信した。
建物を出て緩い陽射しと冷たい空気に息をついたとき、背中に軽いものがぶつかった。足元に丸めたメモ用紙が転がる。
拾い上げてから顔を上げると、遠くにいた少年か少女かわからない短髪の子どもが手を投擲したままの形に差し出していた。
「クソジャリが」
宮木が苦笑する間に子どもは逃げ出した。
俺は手の中の紙を広げ、下手くそな文字に釘付けになる。
“来てくれてありがとう。
でももっと来てください。おねえさんたすけてください。もうすぐです。こどくです。
五”
漢数字はメモの下半分を使って大きく書かれていた。
宮木が子どもが消えた方を睨んで目を細める。
俺は手紙と同じポケットにメモをねじ込んだ。
罠だろうが何だろうか、行くしかない。
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