五、こどくな神

 大蛇の這い回る音がそこら中にこだまする。

 どこにいるかわかったものじゃない。

「逃げられたはいいが、あれを突破しねえとな……」

「何かいい方法がないですかね……」

 俺と宮木はお互いに相手の顔を見て首を振る。


 足元に途中で切り落とされた縄が結びついた木桶が転がっていた。真上を見上げると天井に金網があり、網目を塞ぐように土が塗り込められている。

 元々あった井戸を潰したのだろう。



「あの神、蛇みたいな格好してるよな。だいたい蛇神ってのは水と信仰が結びついてるもんだが……」

 何故、あの化け物は沼ではなく枯れた井戸を選んで住み着いているのだろう。

「神じゃないからじゃないですか。もっとろくでもない化け物ですよ。ほら、地上の湧き水の方は神聖で、地下の井戸は穢れを溜めておくものだって」

 宮木が吐き捨てた。


 頭上の天井に冷えた氷のような膜が張り、結露した雫が震えている。


「宮木の言う通りかもな」

 穢れたものでできた神はこの地で神聖とされる水を嫌うのかもしれない。

「いや、思いつきですよ」


「そうでもねえよ。水音がしている間はあの神を見かけなかった。それに、あの神の能面みてえな顔。見覚えがあると思ったら、比喩じゃなく本当に能でああいう面を使う演目があるんだ」

 迫り出した頬骨。虚ろな目と空気を求めるように緩く開いた口。濡れそぼって額に貼りついた髪。


「あれはかわずっていって水死体を表す面なんだよ」

「悪趣味ですね……」

 能や狂言を見る高尚な趣味は俺にはない。学生時代、実咲が伝統芸能のレポートを書くのに付き合ったときの記憶だ。


「恐怖の神が恐れてるのは水か……」

 俺はペンライトの光で天井をなぞる。垂れ落ちる雫の源はどこから来ているのか。黒く滲んだ土に微かな亀裂が走っている。辿っていくと、ひびはより深くより広くなっていた。


 俺はライトを下げ、下方を照らす。崩れかけた座敷牢を構成する資材は片手でも簡単に外せそうだ。

 俺は少女を下ろして、宮木に預けてから檻の木枠に手をかける。腰までの高さのある一本の木材は思った通りにすぐ外れた。

「行くか」

 天井にもう一度光を当てると、闇で墨汁のように染まった雫が落ちた。



 どこまでも土壁が続く地下牢は代わり映えがせず、気が狂いそうになる。少女に導かれなければ通った道かどうかもわからない。こんな子どもがよく発狂せずに耐えられたと思う。

 少女は宮木の手をしっかりと握っている。年相応の幼い仕草に陰鬱な気持ちになる。


「どのくらい時間が経ったでしょうね」

 俺はライトを腕時計に向けた。放り込まれてから二時間半が経過していた。

「あそこから動かなければ迎えが来たんですかね」

「どうだかな」

「後悔してるんじゃないですよ! あの神に何かされてたかもしれないですし、この子も見つけられなかったですしね」

 宮木が少女を見やってから慌てて訂正した。


「もうすぐ、あっちに階段があって、そこから降りてくるの」

 少女が指した先の天井はひときわ大きなひびが入っていた。脆い土を木材の先で突くとパラパラと欠片が落ちる。木材を伝って水滴が落ち、蛇のように手首に絡んだ。



 ずずずずずずっ。

 耳の奥に押し込まれたガーゼを無理矢理抜き出したような轟音が響いた。


 元来た道の先の闇がとぐろを巻いている。

 蛇腹に折り畳まれた長い腹が渦を描き、中心に溺死者の面が浮かび上がった。

「宮木、その子連れて先行け!」



 俺は木材で思い切り天井を殴りつける。ささくれた先端が土を削り、申し訳程度の埃が落ちた。


 ずるずると渦が前面に差し迫ってくる。蛇の腹の下からさわさわと無数の虫が這い出すような音がした。

 もう一度天井を殴る。大きな土の欠片が落ち、滴った水が埃を濡らした。


 羽根が擦れ合う音と湿った足音まで響き出した。

 蛇は歪な花のように重なり合った腹を回転させながら徐々に近づく。

 俺は何度も木材で天井を殴りつける。木がたわんで折れそうだ。焦りが滲む汗になって手が滑る。

 能面の顔が笑った。


 先に行かせたはずの宮木が俺の隣にいた。

「お前、何してる!?」

 宮木は答えず、蠱毒の神を真っ直ぐに見つめている。大蛇の腹が動きを止めた。

 何が何だかわからないがやるしかない。


 俺は木材を振りかぶった。先端が木っ端微塵に砕け、穿たれた天井から膨大な水が溢れ出した。

 泥の色をした水で神の姿が掻き消される。

「このまま逃げるぞ!」

 俺は後ろを振り返らずに宮城の肩を押した。


 光に導かれた先に木製の古い階段があり、懐中電灯を抱えた少女が段の上で待っている。俺は少女の腕を握って崩れ押しそうな木板を駆け抜ける。


 土壁に埋もれた観音開きの扉がある。

 肩で押し破ろうとした瞬間、ひとりでに扉が開き、冷たい空気と月明かりが広がった。



 夜空を反射する沼地と、それを縁取る葦が視界に飛び込んでくる。ひどく久しぶりな外気に安堵している暇はない。

 星の光が鮮明に照らす草むらに人影があった。

 おそらく扉を開けた人物だ。細面の輪郭と夜光を受ける白い肌はここの村人に違いない。


 俺は少女の手を離すついでに引ったくった懐中電灯を振り上げた。

 電池の詰まった方を振り下ろそうとした瞬間、聞き覚えのある声がした。



「職務規律違反だけじゃなく、法まで犯す気か」

 俺は間一髪で腕を止め、ライトの方を向ける。六原が面倒そうに手を上げて光を拒んだ。

「六原さん!?」

「六原さん?」

 俺の言葉を繰り返して少女が宮木に取り付いた。


「大丈夫だ。こっちは追いかけ回したりしないから」

「追いかけ回してくる六原がいるのか」

 義兄は泥まみれで飛び出してきた俺たちを見ても何ひとつ動じない。

「何であんたがここに……」


 答えの代わりに甲高いサイレンが鳴り、暗い湿地をパトライトの赤光が走り回った。

 素早く滑り込んだ何台ものパトカーから警察官が駆け下りてくる。


「六原さんが呼んだんですか」

「まあな。お前が俺のところに来た封書を盗んでいったものだから、何かと思って調べるうちにきなくさい話や失踪事件が出てきた。それに、」

 六原は背後を指さす。

「例の封書の送り主から通報が」


 背の高い葦の間から瘦せぎすの子どもが覗いていた。溢れそうな瞳は俺たちの後ろを見ている。

「聖ちゃん」

 ふらつく足で進み出た少女をパトカーとともに到着していた救急隊員が抱き止めた。



「後は彼らに任せれてとっとと乗れ」

 俺と宮木は沼地の隅に停めた白いバンに導かれる。土埃にまみれたままでは気が引けたが、仕方なく助手席に乗り込んだ。


「話は後でゆっくり聞かせてもらう」

 六原はシートベルトをしながら前を見て言った。

「私事に部下まで連れ回して、全く……」

 後部座席の宮木が気まずそうに笑う。

 ザラついたラジオの音と緩い暖房の温度が高ぶった精神をやっと日常に引き戻した。


「六原さん、この村は……」

「酷い場所だろう」

 赤い光が走り、数台のパトカーが葦を薙ぎ倒して民家の方へ向かうのが見えた。


「いいのか。一応あんたの故郷だろ」

「知るか」

 泣き黒子のある横顔が口元だけで笑った。

「せいぜい故郷も平気でほろぼせる人非人を育てた自分たちを恨むんだな」


 俺は溜息をついた。どこまで真実を話すべきだろう。

 村人たちと蠱毒の神はろくでもなかったが、神を恐れない人間を恐れたことだけは正解だったというべきか。



 俺は窓ガラスの外を見る。

 清潔な担架に乗せられた少女が救急車に運び込まれているところだった。眩しい車内には彼女の弟が膝を折り畳んで座っている。


 聖が俺の視線に気づいたのか、しきりに頷いた。違う。頭を下げているのだ。

 少女も俺と宮木の方を見る。夜闇に燦然と白く輝く救急車の中で、彼女はひどく年相応の子どもらしいピースサインを掲げた。

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