三、水底の匣の中の神

 封鎖されたエレベーターが壮絶な音を立てて揺れる。



 血塗れの口を生やした腫瘍は歯軋りしながら無数の声で囀り、今にも銀色の扉を押し破って溢れ出しそうだ。

 エレベーターを包囲する警察官たちの顔にあるのは嫌悪や恐怖だけではない。後ろめたそうに唇を噛む表情からわかる。おそらくあの腫瘍から聞こえる声音は全て、警察官たちに所縁のある故人の声だろう。



「所轄に連絡を。ここに一番近い部署の人間に地域警察と連携を取ってすぐ向かうよう伝えてくれ」

 六原が耳に押し当てた携帯に告げる。腫瘍がいっそう膨れ上がった。歪むはずのない分厚い鋼鉄の扉が音を立ててひしゃげていく。亡き者の声に混じって、みちみちと肉が膨れる音と、軋む金属の悲鳴が聞こえてきた。

「破壊も視野に入れろ。このまま出られたら––––」



 無数の腫瘍が一瞬で消えた。この場にいる全員が息を飲む。

 あっという叫びを残し、怪異を詰め込んだ箱が縦に揺れると瞬く間に急降下し、エレベーターは暗闇に塗り替えられた。重量に耐えきれなかった匣が落下したのだ。

 死者の呼び声も、衝撃音も聞こえない。

 匣をぶら下げていたワイヤーが千切れた反動で、ピシッと音を立てて、エレベーターを取り巻くテープを断ち切った。


 呆然とする警察官をよそに、俺は六原に視線をやる。

 携帯電話を握ったまま、六原は何とも言えない表情をした。

「このエレベーター、地下何メートルまであるんだ?」

 俺の問いに答えようとした職員は、まだ声が出ないらしく唇を動かしただけだった。

 テープの先の暗闇は音もなく広がり、ダムの底に立つひと影を連想させる。


「とりあえず、すぐには上がって来なさそうだな」

 職員がそう願いたいとばかりに何度も頷く。

「封鎖しといてくれ」

 遥か下へと落下したエレベーターから声は聞こえて来ない。その代わりにベタベタと素手で壁を何度も叩くような音が聞こえた。這い上がろうとしているのか。

 ボタンのパネルには錆色の血が付いていた。



 永遠にも思える廊下を抜けてモニタールームまで来ると、窓の外の雨は一層激しくなっていた。

 無彩色の空から降り注ぐ雨が視界を烟らせ、灰色のダムの輪郭も霞んで見える。

 俺は画面のひとつに映る影を睨む。滝のような豪雨に打たれながら黒く長いひと影は動かない。

 灯台の光が巡って海を照らすように、金色の瞳が水面を撫でた。

 眩しいがどこか虚しい双眸が俺を見つめている。何かを訴えかけることさえ諦めた、ただ見ているだけの目だった。



「どう思う?」

 車のドアを開け、ビニール傘を広げたまま助手席に滑り込んだ六原が言う。

「どうつったって……勝手に落っこちたはいいけど、あの化けモンがいつ這い上がってくるかわかんねえぞ」

 横着して乗り込む前に傘を閉じたせいで頭から水をかぶった。車内の暖房が効くのが遅く、温い風に返って全身の熱が奪われる。


「ダムの底にいた黒い巨人とエレベーターで職員を食った化け物の相関は何だ。底のやつが本体で、あの腫瘍が眷属みたいなものか?」

「知らねえよ」

 ティッシュで髪を拭くのに必死な俺をよそに、六原は顎に手をやって考え込む。

「そもそもあの腫瘍を一個体と見るか別々のものの集合体と見るか……」

「知らねえ」


 俺はダッシュボードに濡れティッシュを投げ込んでから、ハンドルに肘をついた。


 棺桶の原材になる神木を守っていた死者を送るための神が、あんな化け物を生み出してひとを害する理由は何か。

 村を沈められた恨みというのは違うだろう。

 ダム建設が決まる前から、死者の声を真似る怪異とそれに呼ばれた者の不審死は多発していた。

 その頃から黒く巨大なひと影の目撃情報はあったという。棺桶以外の用途に神木を使ったことを咎めに来たのだろうか。


 水に膝まで浸かってぼんやりと佇む喪服の巨人。エレベーターいっぱいに詰まっていた、ひとの口を貼りつけた鬼灯のような腫瘍のような禍々しい怪異。


「違う、と思う」

 不意に口をついた言葉に六原が振り向く。

「何の根拠もねえ話だが、あのデカい黒いのとエレベーターの化けモンは違う気がする」

 あの巨人の金の瞳には、雄弁に何かを語る口など持たない寂しさがあった。

 感情論だが、管理所を出る前に目が合った“奴”に声真似で餌をおびき寄せる器用な真似ができると思えない。


 六原が苦笑した。

「俺もあれは何か成り立ちが違うような気がする」

「俺より訳のわかんねえこと言うなよ」

 俺はキーを回してエンジンをふかした。やっと暖房が効いてくる。


「村に降りて聞き込みでもするか……」

 そのとき、定食屋を出るときに聞いた老人たちの会話が脳裏をよぎった。

 ––––あの村がダムになる前に出入りしてた連中だ。新興宗教か何かはわからねえが。妙な赤い飾りみたいなの配ってた––––


「成り立ちが違う……別の神か!」

 聞き返す六原に答える代わりに俺はアクセルを踏み込んだ。



 濡れて青さを増した水田の連なりに、時折現れる道路標識や信号の赤が浮き上がる道路をひたすら走った。

「あんたの言った通りだ。エレベーターの化けモンはたぶん元からいた神じゃねえ。他所から持ち込まれたもっとろくでもねえもんだ」


 行く手を阻もうとするようにフロントガラスを曇らせる雨をワイパーで蹴散らし、整備の悪いアスファルトに溜まった水を跳ね上げる。

 俺はハンドルを握る手に力を込めた。


「六原さん、あの村が棺桶作りをやめて箱細工を作り出したときに、何か変な奴が入ってきた記録なかったか」

「もう少し速度を落としてくれ……確か村の会館で工芸品の作り方を教える講習会が開かれた記録があったが、その講師の筋がぼかされていて辿れなかった」


「じゃあ、同じ会館で新興宗教のセミナーが同時期に開かれた記録は?」

 六原は少し間を置いて「あった」と呟いた。


「それから選挙だ。村長か何かを選ぶとき、村の名士でも何でもないぽっと出の奴が当選した記録は?」

「それはないが……村長の秘書がダム建設の前年に急に変わっている。地元の名士の家系が代々務めていたのに、急に村の外から来た若造に代替わりした」


「よし、見えてきた。最後だ。宗教セミナーが開かれたり秘書が交代するより前に、村長の近しい人間が突然死んだことは?」

 六原は道路の掠れた白線を見つめ、全てを察したように溜息をついた。


「大学卒業後、地元に帰る予定だった村長の息子が東京から帰省する途中に事故死した……」

「なるほどな……」


 俺が呟くのと、六原が急に横からこちらに飛びかかってきたのは同時だった。

 俺が反応するより早く車が急停車し、勢いのままつんのめりかけた全身がシートベルトに締め付けられる。

「何考えてんだ、あんた!」


 身体をくの字に曲げてハンドルの下に潜り込む姿勢の六原を見下ろすと、骨ばった白い手がサイドブレーキを握っていた。

 俺はフロントガラスを塞ぐ雨の筋をワイパーでどかして外を見る。白線の先に濡れた毛の犬のような獣がいた。

「犬、いや、狸か?」

「狸……?」

 六原の声が微かに震えていた。彼には何に見えたのか問う前に俺は息を呑む。


 路面に反射する信号の光で全身を赤く染めた獣が鼻先を上げる。正面を向いた顔がやけに平たい。

 犬か狸のような生き物が笑う。

 剥き出しになった石臼のような歯は、エレベーターいっぱいの腫瘍と同じ、人間の口そのものだった。



 獣は濡れた毛を震わせて藪の中に消えた。

 俺はやっとサイドブレーキを離した六原と目を合わせる。お互いに首を振った。

 獣が消えた方を見ると、四角い箱が道端に置かれて雨ざらしになっている。俺と六原は車を路肩に寄せた。



 外に出て傘を広げると、雨が薄いビニールを責め立てるように叩く。

 地面で跳ねる水がすぐにズボンと靴を濡らして足を重くした。


 錆びたガードレールの脇に置かれたペットボトルにガーベラの花が挿さっていて、周りを取り囲むようにスナック菓子や食玩の箱が濡れてふやけている。

 それを見下ろすように黒い箱が雨を弾いていた。


 ひとひとり入れそうなほど大きいトランクケースだ。

 六原が俺の傘の柄に手を添えて代わりに持つ。持ってやるからお前が調べろと視線で促された。


 俺は舌打ちし、ポケットから白手袋を出してはめる。屈み込んだ俺の前に傘から注ぐ雨のカーテンが結界を作るように降りた。

 俺はひと呼吸置いてトランクの金具に触れた。何の抵抗もなくトランクの蓋が前に倒れる。

 箱の中に無数の箱があった。


 緻密な寄木細工のような手乗り大の木箱が隙間なく詰め込まれている。箱の表面にはどれも朱い筆で鬼灯が描かれていた。手描きのようだがどれも機械で印刷したような精巧さだ。

 雨で濡れ出した木箱の鬼灯が滲み出して膨れ、エレベーターの中の異形を思い起こさせる。


「勅命陏身保命……」

 隣に屈んだ六原が箱のひとつを取り上げて、裏側を眺めながら聞き慣れない言葉を吐いた。

「中国の道士がキョンシーの額に貼る札に書く文だ。正当なものじゃないぞ。ゾンビものまがいのホラー映画がポスターやグッズ展開に使った小道具だ」

 箱の裏面には同じ赤色で達筆な筆文字が記されている。

「どこまでもちゃちな新興宗教かよ……」


 俺が立ち上がると六原も合わせて腰を上げる。互いに無言で再び車に乗り込んだ。



 来た道を引き返して進んでいると、六原が口を開いた。

「鬼灯は死者を迎える盆提灯の代わりだろうな。ちゃちな新興宗教だろうと、ひとの感情の拠り所となれば自ずといろいろなものが溜まる。化け物を作り出すくらいにはな」

「今はダムの底の村の村長が息子を復活させるために縋った宗教が、ろくでもない呪具を広めて村がおかしくなったってことか」

 六原が頷く。


「この村でも異常が起こり出したのは、再びその邪教が入り込んだせいだろう。それを追い出せば解決するはずだ」

「六原さん、あんたの権力って今どれくらいだ」

「……年にしては、相当」

「その宗教連中を追い出すくらいできるか」


 頷いた六原の横顔が反射するガラスに赤色が挿す。

 信号の色だと思った。

 だが、周りに信号どころか赤い標識も街灯すらもない。


 べたりと、窓を叩く音がした。叩かれたのではなく貼りついたのだ。ガラス窓に巨大な唇がべったりと貼りついている。

 俺はアクセルを踏んだ。

「どうする?」

 またべたりと音がした。俺の方のガラスが暗く陰ったが見ないようにする。

「とにかく止めるな」

 べたべたと音が連なる。アクセルを踏む足が重い。車が減速していくのを感じる。


 フロントガラスを一面の赤が塗り潰した。

 目の前でひび割れた赤い唇が黄ばんだ歯を擦り合わせている。最悪だ。

 唇がしきりに動く。アクセルをべた踏みにしているがビクともしない。

 窓の外の雨音は聞こえない代わりにぼそぼそと呟く声がする。聞かないように俺はハンドルだけを見つめてアクセルを踏む。

 声がだんだんと響いてくる。やめろ、と言ったつもりだが声が出ない。巨大な唇が囀る声を俺は知っている。



 急に視界が晴れた。

 窓の外の唇が全て消えている。ガラスが雨より粘質な液体で濡れていた。

 思い出したようにワイパーが動き出す。

 幻覚かと思ったが、フロントガラスには乾いた唇の痕と前歯が当たったひびが残っていた。

「消えたのか……」

 呆然と前を見る六原の向こうの肩の先に黒い影があった。


 俺は身を乗り出して窓の外を眺める。

 大木に似た真っ直ぐな影は足だ。喪服のようなものに包まれた真っ黒な足が直立している。

 俺は視線を上げる。遠近感が狂いそうな長いひと影。ちょうど四メートルはあると思った。

 アクセルを踏むと、何事もなかったように発車した。



 車はダムの駐車場に滑り込んだ。ワイパーが動いたが除ける水滴がない。

 車外に出ると、降り続いた雨が止んでいた。


 見慣れた守衛に通されて管理所のモニタールームに入ると、若い職員が喜び半分困惑半分の顔で俺たちを見た。

「あの、それが、監視カメラでずっと追っていたんですが……落下したエレベーターのやつ、今見たら跡形もなく消えてるんですよ」


 職員は困り果てたようにモニターを指さした。

 画面には暗闇の中にぼんやりと浮かぶ銀の匣以外何もない。


 俺は隣のモニターに視線を移す。

 相変わらず水に足を突っ込んだ黒い影がぼんやりと立って、金色の虚ろな眼光を向けていた。


 この神はずっと死者を送り出す以外何もできない無力で穏やかな神だった。

 邪教のせいで死者たちの魂が旅立てないのを見かねて、村人の前に姿を現したのだろう。きっと、怯えた人間たちが穢された村ごと邪教を捨てて逃げ出すように。


 俺は落下したエレベーターのワイヤーがすっぱりと刃物で断ち切られたような断面だったのを思い出す。

 重さに耐えかねたのではなく、あの神がせめてもの抵抗で切り落としたのだとしたら。


 画面の中の神が俺を見た。

 俺は頷く。見えるはずがなくても見えているはずだ。

 あの神は村が沈んだ後もずっと見守っていたのだから。

 来ない客を待つ船乗りのように水面を見つめて、導くべき魂と、事態を解決してくれる人間をずっと待ちながら。


 降り注ぐ水の中で金色の光がわずかに歪み、下にずれた。小さく頭を下げたようだった。



 外に出ると、雨は完全に止み、雲の切れ間から久方ぶりの陽光が覗いていた。俺たちは車に乗り込む。

「来てよかったな。久しぶりにちゃんと解決できそうな案件だった」

 六原が口角を上げる。

「冗談じゃねえ」

 俺は短く答えて六原を見た。案件は比較的マシな方だったかもしれないが、やはり同行者がよくない。

 俺は怪異よりもこの男の方が苦手だ。


 薄幸そうな泣き黒子といい、細面の輪郭といい、化け物が真似た声なんぞよりよほど記憶を掻き立てる横顔が何より嫌だった。

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