二、水底の匣の中の神

 ダムから少し離れた場所にある定食屋は、木造の屋根や壁が湿気を全て吸い込んだように濃い茶色に変色していた。

 柔らかくなった床板は踏むたびに水が染み出すような錯覚を覚える。



 四人掛けの席に通され、俺は六原の向かいではなく斜め前に座った。

 ベタついたメニュー表を受け取り、六原は金目鯛の煮付けを注文する。俺はまだ魚を見たくなくてトンカツ定食をしてから、テーブルのコップの水を飲み干した。


「で、そのおかしくなったっていうダムの職員、無事なのか」

 六原は俺のコップにピッチャーの氷水を注ぐ。

「ああ、命に別状はないらしい。病院に搬送されて、彼の娘が確認した。日頃から漢方薬を飲んでいたお陰で無事だったとか」

「それは絶対に関係ねえよ」



 扉に取りつけたベルが鳴り、ふたりの老人がビニール傘を振るいながら店に入ってきた。


「だから、俺はダム建設に反対だったんだよ。環境とかそういう問題じゃねえ。あそこの村は昔からおかしかったんだからさ」

「そんなこと言ったって、あの村残しといてもしょうがねえだろ。みんな気味悪がって若いのが出て行っちまったんだから」

 老人たちは俺たちのふたつ隣のテーブルに腰を下ろす。

 店の奥から出てきた店員が俺たちの前に湯気の立つ定食を置くと、常連客なのか、老人たちに「いつものでいいですか」と確かめてまた戻っていった。



「ダムに沈んだ村は」

 六原が割り箸を割って、煮崩れた鯛の背骨を引き剥がした。

「棺桶作りを主な産業にしていたらしい。木材になる楠の木がたくさん生えていたとか」

「陰気な村だって言われて周りの村との交流は少なかったらしいな」

「生きている間は明確に死を意識したくないんだろう。邪険にしたところでいずれ皆世話になるのに」


 飯の不味くなる話をする奴だ。

 俺が初めて六原の家に行ったとき、出前の寿司か何かが並んだ食卓を囲みながら、日本の暴力団の密漁と漁業の関連の話をされたのを覚えている。嫌がらせの意図などなく、ただ魚を見て思い出したという体だから余計タチが悪い。

「兄さん、そういう話をしないの」

 今でも思い出せる声でそう窘めて、俺を気遣うように泣き黒子を歪めて微笑んだあの女は––––。



「ダムが建設されたのは何年だったっけ」

 俺は思考を振り払って話題を探す。

「九十九年だ」

 六原は魚の骨を執拗にバラバラにする箸を止めた。

「現在、出現している領怪神犯の発端はこの九十年代前後に固まっている。同一の原因とは思わないが、何かの要因がある気がしなくもないな」


 俺はトンカツの衣を剥がしたり着せ直したりしながら頭を巡らせた。

「宮木が、ゲームのバグみたいって言ってたんだ」

「バグ?」

「例の人魚の村のときにな。確かに、何か正常に進むはずのものが一点狂って、それで歪みが起きてるような感じはする。当てずっぽうだけどな」

「歪みか……」



 六原は水を半分飲んでからコップを傾けた。

「今起こっているものとはまた違うが、ダム建設の数年前も今は水底のあの村で妙なことが起こったらしい。何でも、村の木を使って作られた木箱から死人の声がするとか」

 俺は平静を装って「へえ?」と聞き返す。


「亡くなった旧友や家族の声を聞いた村人が、会いに行かなければと言って楠の木で首を吊る事件が多発したそうだ。その頃、四メートルほどの背の高さの喪服を着た人間を見かけたという情報が多く寄せられたらしい」


 ダムの中に脚を突っ込み、ぼんやりと佇む黒い影。あれが全ての元凶か。

「棺桶作りに使う神聖な木を俗なことに使ったから罰が当たったとか何とか……そちらも調べる必要がありそうだな」



「言うか迷ってたけど」

 俺はすっかり冷めきった白米を水で流し飲んでから、箸を置いて六原を見た。

「ダムにいた奴と目が合った後、実咲みさきの声を聞いたんだ」

 六原が小さく目を見開く。

「特別なことは何も言ってない。一旦休んで飯でも食ってくればいいとか、馬鹿みたいに普通のことでうっかり返事したぐらいだ」



 窓を伝う雨の筋は白い渦を描くように外の光景を滲ませた。

「死人の声に、返事をするのはよくないな」

 六原は苦笑いで肩を竦めた。大惨事に出くわしたときも不謹慎なほど落ち着いている男だが、今のは虚勢だとわかった。


 ふたつ隣の席で老人たちが爪楊枝をねぶる音だけが響く。六原は窓の外に視線をやって独り言のように言った。

「お前がこの部署に来るのは反対だったんだ。実咲はもう死んだ。原因を解明したところで戻る訳じゃない。過去に囚われないで好きに生きてほしかったんだが……」

「あんただけで決めることじゃねえよ。あんたの妹でもあったけど、俺の嫁でもあったんだ」

 俺はレモンをかけすぎたトンカツをかじる。レモンの味しかしない。


「それに、何だかんだ言ってしっかりろくでもない案件山ほど持ち込んでくるじゃねえか」

「あるものは有効活用しないとな」



 六原が顎を上げて少し笑ったとき、着信音が鳴った。

 六原が携帯を取り出し、二、三言答えてから電話が切れた。携帯を折り畳んでしまうと、再び魚の骨をバラす作業に戻る。

「どうでもいい話か?」

「微妙だな。ダムの職員から連絡があった。マズいことになったらしい」

「どこもどうでもよくねえよ。何平然と飯食ってんだ」


 六原はあってもなくてもいいような漬物を摘んで席を立とうとしない。

「大方、例のおかしくなった職員が更におかしくなった程度だろう。急いだって治る訳じゃない。茹で卵を生に戻せないのと同じだ」

「死人が出てたらどうする」

「じゃあ、尚更焦っても意味がないな。死人は生き返らない」

 俺は焦るのも馬鹿らしくなって冷めた味噌汁をすすった。



 会計を済ませて店を出ようとしたとき、老人たちが空の皿を挟んで話す低い声が聞こえた。

「そういえば、あの変なのが来てたぞ」

「変なのって」

「あの村がダムになる前に出入りしてた連中だ。新興宗教か何かはわからねえが。妙な赤い飾りみたいなの配ってた」

「そんなもん来られたってうちは棺桶なんか作らねえぞ」

 話を聞きたかったが、片方の老人と目が合い、気まずくなって俺はそのまま店を出た。

 外は傘をさすのも迷うような細い針に似た雨だった。



「遅いですよ。どこまで食べに行ってたんですか!」

 すっかり馴れ馴れしくなった守衛が赤い警棒片手に駆け寄ってきた。

 六原が店の名前を答えると、「すぐそばじゃないですか!」と守衛が目を剥く。わざわざ言わなければいいのにと思う。



 滑稽なほどの慌てぶりが笑い事で済まされないのは、職員たちが総出で集まっていることでわかってきた。

 白と黒の車体で雨を弾きながらパトカーが数台駐車場に滑り込む。


「何があったんですか」

「それが、おかしくなった例の職員が病院を抜け出して戻ってきまして」

 守衛が口の端に乗せた泡を飛ばす間にも、車から降りた警察官がぞろぞろと管理所に駆け込んでいった。


「暴れたんですか?」

「暴れましたけど、問題はそこじゃなくて、暴れてダムのエレベーターの方に行っちゃったんですよ!」

 六原が眉をひそめる。管理所の方から男たちの驚愕の声が聞こえてきた。


「エレベーターに乗って何をしたんですか、ダムに降りた?」

「降りる前に、食われたんです!」

 俺と六原は顔を見合わせる。ダムの底に立つぼんやりとした寂しげな黒い影が浮かぶ。

 あの神は何もしてこないんじゃなかったのか。



 俺と六原は急き立てられてダムの方へ向かった。

 砕けて身体に吹き付ける水飛沫が雨か放水のものかわからない。


 ずぶ濡れになりながら管理所を抜けて、ダムの内部へと続く武骨な打ちっ放しの通路に通された。

 ひとの姿はないがひどく騒がしい。

 俺の肩を押しのけて警察官が奥へと駆けていく。喧騒が一層増した。


 銀のプレートが一面に張り巡らされて宇宙船のような通路を進むたび、金属に声が反響する。そこでやっと会話の内容がおかしいことに気づいた。


「明日の図画工作で牛乳パックが必要なの」

「何でもっと早く言わないの。お父さんに帰りに買ってきてもらわないと」

「なあ、お前が誕生日にくれた靴紐すぐ千切れちゃったよ」

「次の休日にタイヤを冬用のに交換しないと。雪になりそうだ」


 警察官のどよめきに混じって、家庭や学校や職場でかわすような雑談が響いてくる。何でこんな状況でこんな話をしているんだ。



 俺はひと集りに突き当たって足を止めた。

 ひしめく警察官が怒鳴りながら、黄色と黒のテープを張り巡らせている。

「これは……」

 六原が呟いたとき、俺は警察官の肩の向こうにあるものを見てしまった。



 無機質な銀のエレベーターの扉が開け放たれ、重量オーバーのブザーがしきりに鳴っている。

 腫瘍のような巨大な膨らみがいくつも重なり合って、重たげな銀の扉を内側から押し開けていた。

 たっぷりと実った食虫植物にも似たその房は真ん中が赤く裂けて、しきりに蠢く。

 口、口、口、口、口。

 匣に満ち満ちた無数の口を生やした何かが囀っている。


「ねえ、お父さんピンクじゃなく水色がいいって言ったじゃない」

「お前に貸した漫画そろそろ後輩に貸したいんだけどさ」

「そろそろ年だし、お墓の管理は兄さんに任せようと思うのよ」

「明日の釣り、先輩は来るんですか。後の飲み会だけでも行きましょうよ」



 あまりにも奇怪な腫瘍が、あまりにも平凡ないくつもの声で、あまりにも和やかな言葉を吐き出していた。


 無数の口はエレベーターを封鎖するテープに反応して宙を噛み合わせる。

 黄ばんだその歯はまだ真新しい血を塗っていた。

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