一、水底の匣の中の神

 最悪なことは重なりがちだというのは今更何の新しさもないことだが、ここまで来ると何かの陰謀に思えてくる。



 使うはずだった飛行機が強風の影響で運行中止になり、日程が狂った。そのせいで、宮木が前の部署の引き継ぎでどうにも動けなくなる日と重なった。俺はひとりでもいいと言ったが、行く予定の村でよくないことが起こり、万が一にとふたり組で行く羽目になった。

 この人選が何より最悪だった。


 事務室でごねる俺を宮木みやきが薄笑いで宥めているとき、窓から駐車場に一台の車が音もなく滑り込むのが見えた。車種にも運転席に反射する影にも見覚えがある。

「あの車から降りて来る奴が来たら、俺は死んだって言っておいてくれ」

 宮木にそう言って部屋を出ようと来たときには既にノックの音がしていた。


 宮木は正直にドアを開け、扉の向こうの相手に会釈する。

片岸かたぎしは今少々……」

「また死んだか」

 掠れた陰鬱な声が聞こえた。

「死にましたね」

 声の主が小さく笑う。

「義弟に香典をやりに来たんだが」


 レンタカーのハンドルに身を預けながら、俺は助手席の方を見る。

 これから義兄の––––、六原ろくはらの陰鬱で病的に青白い横顔を見ながら仕事をするのかと思うと気が滅入った。最悪だ。



「気が乗らなさそうだな」

「あんたの頼みで行った村がどんなところだったか話しただろうが」

 六原は眼と泣き黒子を同時に歪めた。

「今回はまだマシだ。何せ問題の村はもう水の底だからな」

「何言ってんだ。余計悪いじゃねえかよ」

 窓に落ちた水滴が潰れた花のような形を作る。


「俺たちが領怪神犯の破壊をしない理由は壊せないからだけじゃねえ。その後万一問題が出たとき、もう永遠に取り返しがつかないからだろ」

「人間関係と一緒だな」

 六原のろくでもない締めくくりは聞かないことにした。


 フロントガラスに落ちる雨粒をワイパーで拭い去ると、灰色の空との間が曖昧になる巨大なダムの外壁が広がった。



 車を停めて降りると、すぐに巨大な獣のような水音が聞こえた。


 一昨日から始まり今もぽつぽつと降り注ぐ雨が湖の水嵩を増し、放水の量も普段の数倍になっているのだろう。

 濡れて濃い緑になった木々に埋もれる刑務所に似たダムの壁は、水の跡が爪で引っ掻いたように白く残っていた。



 警備員らしい男がビニールのレインコートを風にはためかせながら、赤い警棒片手にこちらへ駆け寄ってきた。

「東京から遥々ご足労いただいて……いや、こうして急を要する前にお呼びすればよかったんですが、何分特殊な話ですから」

 忙しなく話し始めた守衛は一旦言葉を区切り、「まずはこちらへ」と警棒を揺らして駐車場の先の建物を指した。俺と六原は車のように誘導された。



 ダム管理所の中は外の暗さと寒さに対抗するように蛍光灯の光と暖房の熱が満ちていて、どこか居心地の悪い。


 守衛に促されて入った部屋はデスクとパソコンが規則的に並び、壁一面を使った緑色のグラフと何かの数値が並ぶモニターが点滅していた。


 液晶の弱い光に顔を照らされて所在なさげに座っていた職員が俺を見留める。

 俺と六原は彼の前の椅子に腰を下ろした。



「一応、彼が目撃者なので」

 守衛がコーヒーの入ったマグカップを並べながら言う。

「目撃者というと、何の?」


 職員の男は組んだ指を動かしながら目を伏せた。ワイシャツに羽織った紺の作業着の肩がまだ濡れていた。

「ここ最近雨が続いて……昨日の夜、自分と上司がダムで異音を感知したって言うんで原因を調べてたんです。普通、危ないから現場を見に行ったりしないのに

 、上司が見に行くって言って、止めたんですけど……しかも、雨のときは使っちゃいけないってみんな知ってるのに、エレベーター使ったんですよ」

「エレベーターを使えないのは、故障か何かですか?」

 口を挟んだ六原に男は首を横に振った。


「そういうんじゃないんですが、とにかくマズいんで……で、三十分待っても一時間待っても戻って来なくって。ダムに落ちたりしてないよなと思って。自分までどうにかなったらどうしようもないから、別のひとに電話入れてから見に行ったんですけど。探しに行ったらダムに落ちてるどころか、まだエレベーターの中にいたんですよ。腰抜かして青い顔して座ってて」

 男はやっと顔を上げた。


「自分が話しかけても、受け答えがおかしいんですよ。夕飯はこっちで食わないで帰るからとか、帰りに買うものあるかとか。しっかりしてくれって肩揺らしたら、やっと自分の方見て『死んだ嫁さんの声がした』って」

 六原が俺を見る。上司に精神疾患や薬物の使用履歴があったかとは聞かないでおく。


「馬鹿みたいな話ですけど。でも、自分は見たんですよね。腰抜かしてる上司を箱から引きずり出したとき。真っ暗な中でエレベーターの窓にダムのライトが反射してるんだと思ったらって。上のひとに聞いたら『そういうもんだから』みたいな感じで言われて……」

「見たというのは?」

 職員は答える代わりに身を半分捩って片手でキーボードを操作した。モニターが緑のグラフから定点カメラで写したダムの光景に変わる。



 爪痕に似た水の痕跡がひどく汚れて暗い印象を受けるダムだ。

 濁った土色の水と水平線の奥に並ぶ木々も、鬱蒼とした森と地面を見ているような気分になる。

 観光地として人気の出るダムもあると聞いたことがあるが、機械的な冷たさと底知れない自然の悍ましさを混ぜたようなこの場所では望みは薄そうだ。


 膨大な水が固まって落ちて砕ける映像を延々と見つめていると、カメラの故障か、ある一点が黒い影になっているのがわかった。その周囲はサーチライトで照らされて薄く明るくなっている。

 俺は目を凝らす。それの正体がはっきりとは見えていたが頭が受け入れなかった。


 絶え間なく落ちる水が飛沫を上げる水面に人間が立っていた。

 縮尺から考えて、身長が四メートルなければこうは映らない。何より生身の人間があの水圧に耐えて呆然と佇むのは不可能だ。


「ライト、じゃないな。目か」

 六原は顎に手をやってモニターを覗き込んだ。

 サーチライトに見えた光は全身黒く影のように輪郭がぼやけた人型の頭部から発されていた。楕円形の金色の眼光がふたつ浮かんでいるように見えなくもない。


「あれはずっとあのままで危害を加えてくる訳ではないんですか?」

「はい、他のひとがいうには今までも雨になると度々出てきたそうです」

 職員は立ち上がって一緒にモニターを見た。


「“あれ”とエレベーターに乗るなというのは何か関係が?」

 聞きながら六原はマグカップの縁に唇をつける。よく得体の知れないものとモニター越しに目を合わせながらコーヒーが飲めると思う。

「たぶん……あるとは思うんですけど、いまいちよく……自分は入ったばっかりなんで、上司ならもっと知ってたと思うんですが」

 六原が俺を見た。

「行ってみるか? エレベーターで」

「止めない。俺は行かないけどな」



 俺はもう一度モニターを見る。黒く長い人物は微動だにしない。薄曇りの空と水面に滲み出すような金の眼光からは悪意を感じず、むしろどこか寂しげな印象さえ受けた。

 あちらから何も仕掛けて来ない以上、こちらもできることが少ない。いつものことだ。善悪で割り切れるような魔物なら苦労はない。意図すらもわからないどころか、存在しているだけで何かをもたらすのがこいつらだ。



「貴方の上司の方は今?」

「病院です」

 職員が答えたきり管理所は時間が止まったような沈黙に包まれた。モニターの映像も静止画と間違えそうだ。

 俺はコーヒーを飲み干してカップを置く。


「とりあえずこれじゃ手詰まりだ。一旦出て調査してから戻るか」

「時間も時間だしお昼にしたら? 兄さんも朝食べてきてないみたいだし」

「そうだな」


 返事をしてから喉の奥が塞がれたように息が詰まった。

 あまりにも自然な響きで答えるまで疑いすら持たなかった。今の声は誰のものだ。

 六原と職員は無言でマグカップをトレーに乗せている。ふたりのどちらかが言ったはずがない。聞こえた声は女のものだった。

 それも、忘れたつもりでいたが、今の幻聴をきっかけに自分でも嫌になるほど鮮やかに思い出せる声だ。


 俺に手元のカップを寄越すよう六原が促す。この男を兄と呼ぶのは––––。



 俺はモニターの中の黒い影を睨んだ。

 向こうから見えるはずはない。

 だが、金色の光が微かに形を変えたように見えた。


 笑ったのか、哀れむように目を細めたのかはわからなかった。

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