三、不老不死の夢の神

 救急車のサイレンが遠ざかっていく。



 野次馬たちは通りを舐め尽くすような赤いライトを目で追いながら、搬送される大学生を見送った。


 村人たちの顔には被害者への同情や加害者への嫌悪どころか、好奇の色すらない。事故現場に似つかわしくない安堵の表情がそこにあった。


 俺は笑みを浮かべたまま微動だにしない村人を掻き分けながら人混みの抜け穴を探す。対岸が見えないまま黒い海を泳いでいるような気分で肩と肩の隙間を抜けたとき、目の前に立っていた女の背にぶつかった。



「あぁ、すみません……」

 五十半ばの女は振り返って軽く会釈する。目尻と口元のしわが更に顔の中心に寄った。

「大変なことになってしまってね。でも、よかったわ。ちゃんとあの子笑っていたから……」

 俺は謝るのも忘れて女の虚ろな笑顔を見下ろした。口の中が乾燥して上手く言葉が出ない。


「あの子はいい子ですから、ちゃんと人魚様が夢を見せてくれたのね。もう万一のときでも安心ですねえ」

「あの、バイクに乗っていた彼とお知り合いですか」

 女は一瞬きょとんとした表情で俺を見ると、何故か照れくさそうに顎のあたりを手の甲で拭って再び微笑んだ。

「知り合いというか、息子ね。私、あの子の母です」


 女の靴の布地をアスファルトに染みた血が這い上がり、白いスニーカーを赤茶けた色に染めていく。

 息子の血を染み込ませた足で直立しながら、女は笑顔を崩さなかった。



 後退りかけた俺の肩を冷たい手が掴んだ。

「片岸さん」

 宮木が強張った顔で首を振った。

「ここ、もしかして、あれじゃないですかね……」

 俺は声量を落として囁く。

「ああ、この村、今まで行った村の中でトップクラスにおかしいぞ」



 日が傾き始めた海岸通りは、両脇の土産物屋が車道に影を落とし、全体が海の底にあるような藍色に染まっていった。

 俺は村人たちの視線に注意しながら、モーテルで須崎から聞いた話を語る。宮木は何度も頷きながら「そんなことかとは思ってましたけどね」と呟いた。


「人魚が殺されて食われたのなら村人たちに不老不死なんていいものを与えるはずがないですよね」

「ああ、俺が人魚だったら死んでも祟るだろうな」

「でも、人魚の肉が与えるものが祝福ではなく呪いなら、何でここの村人たちは幸せそうに笑って死ぬんでしょうか」

 俺は口を噤み、思考を巡らせる。ことの全てが繋がりそうでいて、決定的なパーツが欠けているようだ。考えがまとまらない。


「それに、人魚の肉を食べたのが彼女の祖父の世代なら直接食べたひとはもうほぼ残ってませんよね? でも、さっきの大学生は笑ってましたし。末代まで祟るってやつですか?」

「さあな。幸せそうに笑って見えるだけで本当は違うのかもしれないだろ。当人のことはわかんねえよ。だいたい祝福だろうが呪いだろうが本来の不老不死ではない訳だしな」



 宮木は顎に手をやってしばらく考え込むような仕草をしてから、「そういえば」と、指を鳴らした。

「関係あるかはわかりませんが、この村は現代日本では珍しい土葬の風習が残ってるらしいですよ」

「土葬?」

「はい。片岸さんがモーテルに入ってる間暇なのでお墓参りに来たっていう家族連れと話していたんです。前は他と同じように火葬だったんですが、少しでも長く人魚の夢を見たまま幸せに眠っていられるようにと土葬になったって言っていました」


「そっちもいろいろ聞き込みしてたみたいだな」

「片岸さんだけ働かせるわけにはいきませんから……モーテルでは話を聞いただけですよね?」

「他に何があるんだよ」

 宮木が含みのある薄笑いをする。悪態をついたが、この世の外にあるものを見ているような村人の笑い方よりずっとマシだった。



 海の反対側、コンクリートの階段と家々の屋根が連なる向こうに一ヶ所陥没したように低くなっている場所がある。目を凝らすと、小さな石造りの直方体が密集しているのが見えた。墓石だ。

「行くか」

 宮木が頷く。潮風が冷たさを増してきた。


「そういえば、フィアースマイルという言葉を知っていますか」

 宮木が思い出したように顔を上げた。

「恐怖を覚えたとき本能的に出る笑いもあるそうですよ」

「嫌なこと言うなよ」

 海から這い上がって通りを吹き抜ける風は魚の匂いを孕んで膨らみ、腐乱死体を思わせた。



 上り坂を進んで汗ばんだ背が冬の空気で冷え始める頃、俺と宮木はブロック塀に囲まれた小さな霊園に辿り着いた。


 港の明るさはなく、ミイラのような枯れた木々の枝が重なり合って蓋をする墓地は他の田舎と大差ない。

 墓石はどれも茶色い松の葉や水垢で汚れきっていた。古びてひび割れたブロック塀の上を見上げると、ざっくりとえぐられた山肌の中腹に停まるブルドーザーがある。観光客用にホテルでも造るのだろう。



 空は水色と橙色が二層になっていた。俺たちは墓石の間を縫うように歩き出した。


「さすがに何もないですね、ゾンビ映画みたいに土から腕が突き出す訳もなし」

 宮木が肩を竦める。


 腐りかけた花が水差しに絡みつく中、色褪せてはいるがまだしっかりと挿さった花があると思ったら造花だった。

 連なる四角形の向こうに湾曲した影が見えた。視線をやると、岩場に座り込む人魚を模した墓石がある。

 空に吠えるように身を反らした女の、波状に広がる長い髪からヒレが覗いている。


 無意識に足をそちらに向けたとき、耳元でガラリという音がした。砂埃の匂い。

 振り向いた瞬間、波が砕けるように崩落したブロック塀の破片が灰色の煙を上げて俺に降り注いだ。––––



 ––––「さすがに何もないですね、、ゾンビ映画みたいに土から腕が突き出す訳もなし」

 宮木が肩を竦める。


 腐りかけた花が水差しに絡みつく中、色褪せてはいるがまだしっかりと挿さった花があると思ったら造花だった。

 連なる四角形の向こうに湾曲した影が見えた。視線をやると、岩場に座り込む人魚を模した墓石がある。空に吠えるように身を反らした女の、波状に広がる長い髪からヒレが覗いている。

 どこかで見たことがあると思った。


 無意識に足をそちらに向けたとき、耳元でガラリという音がした。––––



 ––––「さすがに何もないですね」

 宮木が肩を竦めた。その声と仕草に覚えがある。


「どうかしました?」

 俺は足を止めた。墓前の腐りかけた花の中で一輪だけ埃をかぶった造花がある。

「ここ、来るの初めてだよな?」

 宮木は怪訝な顔をした。


 少し視線を逸らせば、四角い墓石の先にひとつだけ人魚を模した墓石があるはずだ。

 宮木の肩越しに石でできた波状の髪と三角のヒレが見えた。

 俺がなぜこれを知っているのかわからない。


 宮木は不思議そうに俺を見てから、人魚の墓石の方へ足を運ぼうとした。土埃の匂いがする。

「宮木、行くな!」

 無意識に叫んで手を伸ばしたとき、耳元でガラリという音がした。



 宙に腕を突き出した手首を、細い指が掴んでいた。

「大丈夫ですか?」


 目の前にあるのは侘しい霊園に寒風が吹きすさぶ、どこの田舎町にもある光景だった。

 全身が強張っていた。宮木の手が震えているのかと思ったが、震えているのは俺の手首の方だ。

「何が……」

 俺は硬くなった首を動かして宮木を見る。黒い瞳に逆光を浴びる俺が映っていた。

「片岸さん、今、笑ってましたよ」



 宮木の声に重なって、薄い鉄を叩くような高い声がした。

「何だ、違ったんだ」

 振り向いた瞬間、霊園の最奥のブロック塀が波が砕けるように崩落した。巻き起こった灰色の煙が俺たちの方まで流れる。


 大きな破片のひとつが人魚を模した墓石に激突し、首から上を撥ね飛ばす。ごろりと転げた人魚の頭部は、松の葉が積もる地面に上向きで落ちた。その顔は笑っていた。俺と宮木は身動きもできずそれを眺めていた。


「危ないから……もう出よう」

 俺の声に宮木が力なく頷いた。



 俺と宮木は顔を上げもせず、足早に坂道を下った。

 追い立てるように山の影が俺たちの背に伸び、夕陽に染まるアスファルトを黒で塗り替えていく。


「人魚は不老不死を与えなかったんじゃない。祝福じゃなく呪いとして与えたんだ」

 俺は自分の爪先を見下ろしながら言う。

「老いないとか死なないとか人間がいいように思い描くものじゃない。人魚がもたらした不老不死はたぶん、死ぬ直前の瞬間を永遠に繰り返す悪夢だ」


「何ですか、それ……」

「村人が虫の知らせみたいなものが働くって言ってただろ。たぶん死にそうな目に遭う瞬間、一、二秒だけ映像を巻き戻すようにその直前に戻されるんだ。その間は老いも死にもしない。脱出口に気づけば抜け出せるが、気づかなかったり病気や老衰みたいな逃げようがないものなら、おそらく永遠に……」


 俺は言いながら怖気が背筋を這い上がるのを感じた。呪いとしての不老不死だ。死の瞬間から永久に解放されないず、それに気づかないか、気づいても逃げようもなく精神が摩耗して狂うか。どちらにせよその悪夢は肉体が朽ち果てるまで続くのだろう。


 宮木は気遣うように俺を見上げてから目を伏せた。たぶん、俺が見たものも何となく察したが、言わないでくれている。

「その夢を見てる人間は側から見れば笑顔に見えるってことですか」

「たぶんな」

「もし、身体が朽ちるまでそれが続くなら……」

 宮木は顔を上げて、坂の上の霊園を仰ぎ見た。

「土葬なんて本当に地獄じゃないですか……」

 山の影が斜面にどろりと伸びる様は、人魚の濡れた長い髪が肌にへばりつくようだった。



 駅の近くのコンビニエンスストアまで来ると、駐車場に須崎がいた。

「帰るの?」

 彼女は年より幼い仕草で首を傾げた。

「はい、ご協力ありがとうございました……」

 宮木が下手な愛想笑いを作る。須崎は笑わない。それが今はひどく救いのように思えた。


「須崎さん、あんたのお祖父さんは」

 隠れた名村ランキング入りを喧伝する旗が風にそよいで騒ぐ。俺は絞り出すように聞いた。

「笑って死んだか?」

 宮木が咎めるような視線を俺に向けた。


 須崎は傷だらけの生脚の先でサンダルを弄んでから首を横に振った。

「ううん、お祖父ちゃん生きてるときもあんまり笑わなかったし。でも、苦しみもしなかったよ。お祖母ちゃんが朝ご飯だって起こしに行ったら寝たまま死んでたんだ。ちょっと疲れたって感じの顔で」

「そうか」


 墓地で聞いた声を思い出す。違ったんだと、女の声が言った。

 人魚の呪いはこの村にかけられたものだが、須崎の祖父がそうでないように、この村に関わる全員に当てはまるわけではない。


 俺の臆測だが、人魚が憎んだ村人の性質、私利私欲のために他の存在を食い物にすることをしなければ発動しないのかもしれない。俺の悪夢は宮木を助けようとした瞬間に終わった。



 俺たちは須崎と別れ、駅のホームにちょうど来ていた鈍行列車に乗り込んだ。

 青いシートに崩れ落ちるとどっと疲れが噴き出す。

「二度とあの野郎の頼みなんか聞くか……」


 窓には赤い海が燦然と輝いていた。

 列車が動き出せば、須崎の住む隣村も通るはずだ。

 俺はふと人魚伝説は元々須崎の村のものだと言っていたのを思い出す。なぜ人魚はこの村まで流れ着いたのだろう。

 村どうしの軋轢は根深い。もしも、村人の性質をよく知った隣村のものが初めから呪具として送り込んだとしたら。


 俺は考えを振り払うように目を逸らす。

 隣を見ると、宮木は小さな箱のような機械を鞄から取り出していた。

「何だそれ」

「携帯ゲームですよ。自分で村を作れるんです」


 見せられた画面の中には、四季もまばらな花が咲き誇る庭と赤い屋根の家があった。

「可愛いでしょう? たまに来る野犬や虫は追い払って、駄目ならリセットすればいいんです」

「よくゲームでまで村に行く気になるな」

「逆ですよ。こういう仕事の後は虚構に逃げ込みたくなるんです」

 宮木はゲーム機を手元に戻して呟いた。


「片岸さんが考察してた人魚の呪いってゲームの裏技みたいですよね。駄目だと思ったらリセットして戻るんでしょう」

「プレイヤーは気楽でもゲームの中の奴らはたまったもんじゃねえのかもな」

 ゲームの中の人間と違ってループから逃げる術はある。善良たれ。呪いの人魚が求めることは至極真っ当で、まるでまさしく村人を厳しく見守る女神のようだ。


 列車が動き出す。

 窓の外を流れていく漁村を見たくなくて、反対側を見ると先ほどの駐車場が見えた。まばゆい夕陽の中で佇む須崎の影が、ひとつの卒塔婆のように伸びていた。

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