二、不老不死の夢の神

 砂浜に降りてみると、海は一層輝きを増して目を焼かれるようだった。



「すごい顔してますよ、片岸さん」

 宮木はパンプスを脱いで逆さにし、靴底に入った砂を吐き出させていた。

「眩しいの苦手なんだよ」

「確かにすごい日差しですね。目が目玉焼きになりそう。じゅって音がしますよ」

「してたまるか。公務員は労災の申請が面倒なんだぞ」

 俺は海に視線を戻した。



「宮木、あの甘酒どうした?」

「さすがに捨てましたよ」

「あれ、鱗が入ってたよな」

「まぁ、干物とかも売ってる店でしたし、加工するときに混入するんですかね……」


 俺は首を横に振った。

 この村ではこういった光景を、砂浜の白を肌に、波の煌めきを魚鱗に見立てて、人魚の腹とか何とか呼ぶらしい。

 アスファルトの凹凸に広がった甘酒の中のぎらつく鱗を思い出し、不気味さに想像の中で溶けかけた米糠の白く歪んだ形が蛆に変わっていくようで、思わずかぶりを振った。



「お義父さん、あんまりそっち行っちゃあ駄目ですよお」

 寄せる波が砕ける音に女の声が重なった。

 黒い日傘をさした初老の女が波打ち際をなぞって緩慢に歩く様は、一瞬今が真夏のような錯覚を覚えた。


 女が眩しそうに眉を下げて笑い、俺たちに会釈する。どこまでも明るく無遠慮なほど人懐っこいこの村の人間だ。

 女の視線の先に老人がいた。



 白髪と髭を伸ばし放題にした老人は、波打ち際の飛沫がかかりそうなところで立ち尽くしていた。

 布靴を水が侵食して、茶色い布地が黒に近い色になっていく。


 老人はそれを見下ろしながら少しだけ膝を動かし、前に出るような動作をした。

 踏み出しかけたというより、将棋の駒のように全身をまるごとひとマス進めるのを躊躇ったような不気味な動きだった。

 録画した映像をリモコンで一秒前に巻き戻したのに似ていた。


 老人は脚を海水で濡らしながらその動作を繰り返す。俺が目を奪われていると、日焼けの跡のシミと皺が歪んで恍惚の笑みを作った。乾燥してひび割れた唇から唾液が一筋滴り、セーターの胸に落ちる。


「お義父さん、冷えちゃうから帰りましょ」

 日傘の女がその肘を捕まえる。老人は微笑んだまま女を振り返って頷いた。

 女は老人の手を取って歩き、俺たちの方に向かってくる。


 俺と宮木は動かずにだんだんと近くなるふたりを見つめた。

 すれ違うとき、女が老人に囁いた。

「また人魚さんの夢を見ていたんですか」

 俺は視線で宮木に「聞いたか」と問う。宮木は曖昧に頷いた。


 上空をカモメが飛んでいる。

 悲鳴のような鳴き声に顔を上げると、浜辺へと続く階段の上にダウンジャケットを羽織った女が立っていた。

 縮れた髪を風になびかせて女は俺を凝視していた。



 女に先導されながら海岸通りを進むと、住民の視線が背中に突き刺さる。

 土産物屋のカウンターやスタンド式灰皿の横のベンチから覗く村人は皆、顔面を圧縮したような笑顔を浮かべたまま、細い目の奥で俺たちを追っていた。


「先ほどは……」

 俺は何を言えばいいかわからなくなる。

「お礼なら言わないで、聞かれるから」

 酒焼けした掠れた声だった。


「ええっと、我々に何かお話ししたいことが?」

 愛想笑いを浮かべた宮木を横目で見て、女はポケットに手を突っ込む。

「ここじゃ話せない」

「じゃあ、カフェとか。お嫌でければご自宅でも構いませんが」


 女が足を止めた。ジャケットのフードについたフェイクファーが揺れる肩の先に、寂れたモーテルがあった。

 モーテルというより安アパートを一階だけ残して後は切り払ったような平坦な建物だ。


「客ってことにしといて。それが一番マシだから」

 俺は宮木を見る。

「大丈夫です、片岸さん。お仕事ですよ。しっかり聞いてきてください」

 宮木は無責任に親指を立ててから、「あっ」と付け加えた。

「話を聞くだけですよ」

 俺は答える気にもならず、犬のように女の後をついてモーテルへ入った。



 受付の眼鏡の老人に睨めつけられながら、暗い廊下を抜け、女が渡された鍵の番号の部屋を開ける。


 貝殻や海星を描いた安っぽい青と白の壁紙の部屋は仄暗い。

 壁に掛けてある絵画はここでもまた、泥のような砂浜に横たわる人魚だ。油絵のねっとりとした筆で刻み込まれた臍の窪みや鎖骨の輪郭が、どことなく隠微な印象を受けた。



 女はベッドに腰を下ろし、須崎すさきと名乗り、隣の村に住むフリーターだと言った。

 俺はひとまず机の下に押し込まれた椅子を引き出し、距離を開けて座る。

「東京のひとでしょ。何となくわかる。観光業界の人間じゃないのも」


 須崎は卓上の灰皿を取って布団の上に乗せ、煙草に火をつけた。

「手紙を、見てきたひと?」

 俺は考えを巡らせた。この村がおかしいとして、この女も仲間ではないと言い切れるだろうか。

 沈黙の間、須崎は生傷だらけの足をぶらつかせていた。思考がまとまりきらず、俺は結局首肯を返す。


「じゃあ、この村がヤバいって聞いてきたんだ」

「まあ、聞いただけで……」

「もうわかったでしょ」

 俺は頭を掻く。須崎は小馬鹿にしたように笑った。


「村がおかしいのと人魚伝説との関係はありますか」

 須崎は唇にフィルターを押し当てて煙を吐いた。


「敬語とかいいよ。そう。何ていうかな。この村がクソだったのはずっと前からだけど、ヤバくなったのは人魚のことがあってから」

「ずっと前からクソだったっていうのは?」

「クソだと思わなかった? 自分の村がこんなに立派で住んでるひともよくてなんてまともなら言わないでしょ」

 俺は答えなかったが、否定しないのが何よりの答えだと思ったらしい。


「人魚伝説は知ってるんだよね。おかしいと思ったところなかった」

 彼女は布団に灰が散るのも構わず、灰皿の隅で煙草の先を叩く。

「細かいところだが……」

「うん」

「出だしがまずおかしいと思った。この村の人間は困ってる奴がいたらみんなで協力して助けるんだよな。なら、何で漁師は誰にも頼らず、医者にすら見せずに、ひとりで人魚を看病し続けた。漁師が特別変わり者だったってならそれで終わりだが……」

「合ってるよ」


 須崎は脚を組んだ。

「漁師さんは変わり者だった。村の奴らがクソだったってわかってたとこが。奴らに教えたらろくでもないことになるって思ったからひとりで面倒見てたの。結局見つかっちゃったけど」

 煙の匂いに煙草が吸いたいと思った。俺は唇を擦って話の続きを待った。


「人魚の肉を食べると不老不死になるって知ってる?」

「八尾比丘尼伝説だな」

「知らないけど。そういうのあるんだ。そう。だから、ここの連中は人魚を見つけた後、殺して食べたの」

 俺は油絵の中の人魚を見やる。虚ろな微笑みは浜辺で見た老人と似ていた。

「それをよくもあんな話にしたよね。本当にこの村の奴らは恥知らずだし嘘つきの極悪人ばっかり。そもそも人魚伝説だって最初はうちの村にあったんだよ」



「じゃあ、漁師が自分の意思で海に船で漕ぎ出したってのも違うよな」

 女はにんまりと笑う。恍惚とは違う病的な笑みだ。

「おそらく人魚より先に漁師が殺されたんだろ。人魚を出せと言われて抵抗したから邪魔になって殺した。その後、村人は人魚を殺して食ってから明け方漁師の死体を処分した。違うか?」

「ちょっと違う」

 俺は肩を竦めた。


「殺されかけたのは本当だけど、漁師は何とか生きてたんだ。壊された船と一緒に海に捨てられてから、木の板をビート板代わりにして泳いで隣の村に流れ着いて、逃げ延びたんだよ」

「何でそう言える?」

 須崎は幼い仕草で首を傾げてから、事もなさげに言った。

「だって、その漁師が私のお祖父ちゃんだから」


 俺は打ち上げられた魚のように口を開閉させていたと思う。椅子から立ち上がりかけてから、思い直してまた座った。

「それはまた……なるほど……」

 間の抜けた俺の返答に須崎は声を上げて笑った。


「お祖父ちゃんはうちの村に流れ着いて、世話してくれたお祖母ちゃんと再婚したんだ」

 年より幼く危うげに見えるこの女の祖父が本当にかの漁師だとしたら。この村の伝承は全て嘘ということになる。

 その場合、食われた人魚が村人に贈ったものが祝福であるはずがない。


「自分が元いた村とは絶対に関わるなって家族みんなに言ってたんだけど、お祖父ちゃんが死ぬ前にこの話聞いて、どんな村なのか気になっちゃったの。ああ本当にクソだなって確かめたんだけど、それよりもっとヤバいってわかって––––」



 窓の向こうから緩んだファンベルトとタイヤが擦れる耳障りな音が聞こえ、爆発に似た衝撃音が響いた。


 煤けたレースのカーテンを払って外を見ると、軽自動車が傾いだ電柱に突っ込んでブルドックのようにひしゃげていた。少し離れたところで横転したバイクを煙を上げている。

 外に置いてきた宮木の姿を探したが見えなかった。


「行くなら行って」

 短くなった煙草を持った須崎は窓の方を見ようとすらしない。

「私はまだいる。お互い時間差で出た方がいいから」

「ご協力どうも」

 俺は財布から抜き出した部屋代を机に放って、部屋から飛び出した。



 外は既に野次馬が集まっていて、救急車のサイレンが聞こえた。


 人集りの外側で腕を組んで様子を見ていた宮木が俺に気づく。

「終わりました?」

「まあな。事故か?」

「ええ、両方村人どうしみたいです。車に乗ってた方は軽傷みたいですが、バイクの子が……」

 自動車の前で運転手らしき男が血の滲んだタオルで額を抑えている。

 男の足元からは黒い擦過痕が弧を描いてアスファルトに広がり、壁に叩きつけられたバイクまで伸びていた。


「救急車が来たぞ、道開けてくれ!」

 野次馬のひとりが叫び、村人たちが両脇に避ける。

 俺はよく考えもせず、空いた空間に滑り込むように事故現場に近づいてしまった。

 ひとの波を掻き分け、まだ空回りを続けるバイクの後輪が見えてくる。

 村人たちの囁きも徐々にはっきりと聞こえ出した。

「でも、よかった」

「何が?」

「ほら、見てよ。この子……」

「あ、本当だ」


 ライダースジャケットの大学生らしき青年が倒れていた。赤黒い血がじくじくと噛みつくように路面に伸びていく。村人の楽観的な声から想像したよりずっと重傷だ。頭から絶え間なく血が流れ、顔半面が真紅に染まっている。

 俺が青年の顔が見えるまで近づいた瞬間、村人の声が聞こえ、後悔したときにはもう遅かった。


「ちゃんと人魚様の夢を見ているね」

 青年は頭を割られて夥しい血を流しながら、赤くなった顔で浜辺の老人と同じ壮絶な笑顔を浮かべていた。

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