一、不老不死の夢の神

 わざとらしいほど綺麗な海だった。



 波のひとつひとつが絶え間なく降り注ぐ陽光を受けてアルミホイルのような光沢を放っていた。


 海岸と垂直に通った道路は、両脇に木造の小さな土産物屋や炭焼き屋がひしめき、真冬だというのに海水浴シーズンのような活気がある。

 分厚いウェットスーツを纏ったサーファーが濡れた布地を光らせてゆっくりと歩く様は二足歩行のイルカのようだと思った。



 俺が聞いたこともない名前のコンビニエンスストアの前で煙草をふかしていると、宮木が“アイドリング禁止”の立て看板の上でそよぐ旗を指した。


「見てください、『今年度版隠れた名村ランキング第四位。九十六年から毎年トップテン入り記録更新中』だそうですよ」

 ここの店員が画用紙と色鉛筆で苦心して描いたであろう文と港町のイラストを印刷した旗が潮風にのたうつ。


「いいですね。正直私たちの行くところって見るからに何かありそうな暗いところか、それすらもないところばかりですから。久しぶりに観光地らしいところに来られました」

「税金で旅行か」

 俺は吸殻を赤いブリキのスタンド式灰皿に投げ込んだ。

「自分でこんなに素敵な場所ですだなんて必死に発信する場所にはろくなもんがないぞ。第一ろくな場所なら俺たちが呼ばれない」


「ここに来るまでずっと不機嫌そうですね、片岸かたぎしさん」

 宮木みやきが肩を竦める。

「お義兄さんからの依頼だって仕事は仕事じゃないですか。それに今回はだいぶ条件がいい方ですよ」

「いいもんかよ……」



 妖怪や幽霊より生きているものの方が怖いというのは怪談の定番だが、俺は確かに怪異より義理の兄の六原ろくはらの方が苦手だった。


 初めて会ったときから、青白くて生気がない顔や、どこか遠くを見ているような癖に俺の一挙手一投足を見逃さない眼がどうにも不気味だった。

 家に招かれとき、義兄が冷蔵庫を開けるのを見て、中に真空パックに圧縮したひとの手首や内臓が入っているのを想像したことがある。


 最悪なのが六原は直属ではないにしても俺の上司でもあるということだった。

 職場が同じである以上、繁忙期も断る理由がないほど暇なときも把握されている。そして、今回のように正式に調査するには証拠が足りない案件を探るよう投げかけてくるのだ。

 お祓いで何とかなるなら怪異の方がまだマシだ。何度神社に駆け込もうと、人事部と戸籍謄本は動かない。



「だいたい今までは領怪神犯の素性を探れってわかりやすいもんだったが、今回は何もないことを確かめろってやつだぞ。悪魔の証明だ。ないことを証明するのは何より難しい」

 ぼやく俺に構わず宮木は土産物屋通りを歩き出している。


 店頭に網を出して練炭で干物を燻す男が団扇で煙をこちらに流し、観光地限定の入浴剤やフェイスパックを売る女が試供品を押し付けてきた。

 薬局の色あせたベンチで老人が大の字になって昼寝をしている。唇の端から垂れるよだれが光の糸を引いて、幸せそうな口元を縁取った。


「本当にのどかで活気のある観光地ですね」

 振り返った宮木の頭上で、桃色の鱗の人魚の看板が風に揺れていた。

「だといいな」


 どこもかしこも人魚だらけだ。フェルトで作ったマスコットキャラクターや日本の漁村に似合わないアメリカ風のモーテルのネオンまで人魚を象っている。



 宮木が足を止めて、売店のアイスケースを覗き込んだ。

「見てください、アイスまで人魚ですよ」

 霜が降りたケースの中で、白く凍りついたアイスキャンディに魚のヒレと女の長い髪の輪郭が見て取れた。


「冬にアイス? 女の子は身体を冷やしちゃ駄目よ。売っててなんだけど」

 よく響く声がして顔を上げると、エプロンの紐を結びながら中年の女が現れた。


 宮木は愛想笑いを返す。女は一目で観光客ではないとわかる俺たちのスーツを見て、一瞬恵比須顔に怪訝な影を浮かべた。

「お仕事でいらしたの?」

「はい、観光関連の取材で伺ってます。今日は役所での軽い顔合わせだったんですがつい足を伸ばしちゃいました」


 女はわかりやすく安堵の表情に変わり、店頭の商品を整え始めた。

 こういった出まかせの才能は俺にはない。俺は曖昧に会釈だけ返した。



「ここは本当に人魚がモチーフのものが多いんですね」

 宮木は初めて知って感心した風を装って言う。

「そうでしょう、もう聞いたかしら? うちの人魚伝説」

「浜に人魚が打ち上げられていて、助けた漁師と一緒に村の皆さんが看病したお礼に、人魚が不老不死になる自分の肉を分け与えた……でしたっけ?」

 もちろん役所になど行ってはいない。全て六原が俺に押しつけた資料にあった記載だ。手書きのはずなのにフリーフォントのように狂いのない字がまた不気味だった。


「そうなのよ、うちは長いこと助け合いの精神やってるから、困ってるひとや何か悪いことがあったらみんなで手伝うのよね。田舎にしては珍しく旅行に来た若いひとがそのまま居つくこともあるけど、やっぱりそういう温かみがいいのかしらね」


 女はレジ台の前に並ぶ人魚を模したマトリョーシカ三つを背の順に並べながら言った。

 来てまだわずかな時間しか経っていないが、それでもわかる。この村の人間は謙遜というものを知らない。

 他人を煽てるにしてもやらないような褒め方を自分の村に対してする。

 その奇妙な連帯感と相まって、人魚が監視同盟や秘密結社のエンブレムのように見えてきた。



「郷土愛が強いというか、村に誇りを持っていらっしゃるんですね」

 口を挟んだ俺の脇腹を宮木が小突く。これでも上手く言い換えたつもりだった。


「そりゃあもう!」

 女は気を悪くするどころか満面の笑みを浮かべた。

「何たって隠れた名村ランキング毎年トップテン入りですからね。全国でこんなに村がある中で、しかもうちの県ではここだけだからねえ」

 腹の底から響く女の大声に、向かいの店から流れる競馬放送のラジオが絡む。俺がそちらの方に集中しようと意識を飛ばすとまた宮木に肘で突かれた。



 陽射しが光の剣を伸ばしたように店内に差し込んだ。た。

 女は目を細める。


「もう聞いた? こうやって海がすごい光り方をするのを『人魚が寝返りを打った』って言うのよ」

 横目で見ると、ちょうど店と店の間から覗いた太陽が燦然と輝き、舗装された坂道とその先に続く青い海の水平線を照らしていた。


「ここは日当たりがいいから住んでるひとも明るくなるんでしょうね。隣の村は別の国みたいに崖があって山とも接してて暗いからあそこのひとは……」

 女はわざとらしく口に手を当てて押し黙った。


 視線の先、細い人影が白線が掠れた横断歩道を渡っていた。

 異様なほど明るいこの村の人間と雰囲気が違うのは一目でわかる女だ。縮れた毛糸のような髪を垂らし、裾長のダウンジャケットから生脚が突き出している。


 土産物屋の女は沈黙したまま、好奇と嫌悪の視線で彼女が渡り終えるのを見送った。

 宮木が俺に視線を送り、俺は首を振る。


 余所者が消えるのを見届けてから、店の女は笑顔に戻った。

「まあ、せっかくだからゆっくり見ていってくださいな。取材って旅行雑誌でしたっけ? いい記事頼んだわよ、記者さん」

 女は店の奥の鍋から小さな紙コップふたつに甘酒を注いで俺と宮木に押しつけた。



「道路を歩いてた女性、隣の村のひとですかね」

 湯気の立つコップを手に宮木は土産物屋をなぞるように進む。

「そうかもしれねえな」


 一見屈託がなさすぎるこの漁村にも唯一暗い影があることは聞いていた。隣の村との確執だ。

 観光客を盗られた、栄えている方は公共事業の面で優遇されてばかりでもう片方は廃れ放題だと不平が上がった。よくある話ばかりではある。


「まあ、確かにこっちはこの賑やかさですし、それに比べて来る前に通った村は閑散としてましたし、妬み嫉みで片付けられる話という気もしますが……」



 俺は宮木に敢えて知らせていないことを思い出す。

 そもそも義兄が俺にこの話を持ち込んだのは、ひとつの投書が発端だ。


 差出人は匿名だが、消印はこの漁村の隣村のものだった。ところどころ支離滅裂な文章の中で、人魚の看板のある村はマズいことになっているかもしれないというような一文が目を引いた。


 栄えている隣村を貶めるためなら週刊誌なりいくらでもやり方はある。

 妬ましくて仕方ない相手が気づいていない病をわざわざ医者に見せてやるような真似をするだろうか。



「というか、これ甘酒ですよね。何か魚っぽい匂いがしません?」

 宮木は湯気に顔を近づけて鼻をひくつかせた。

「干物も一緒に売ってたからじゃねえか」


 紙コップを持ち上げかけた腕が何者かにぶつかった。

「失礼……」


 俺の視線の先にダウンジャケットの女がいた。

 想像より若い。

 日にずっと当てていないような白い顔に黒子がいくつも散っていた。はだけたダウンの胸に浮く洗濯板に似た骨が痛々しい。短いスリップドレスにサンダル履きの脚は生傷だらけだった。


 病的な女の肩越しに、向かいの定食屋で夫婦が囁き合う声が聞こえる。

「あれ、また来てるわ」

「向こうにはモーテルがないからってわざわざ……」


 女は死人のような無表情で俺を見ると、機械的に片手を振り上げた。

 指先に当たった紙コップが俺の手から落ち、アスファルトに生温い液体がぱしゃりと広がった。


「あの、ちょっと」

 俺の前に進み出て、何か言いかけた宮木の肩を女が押した。


 非難する間もなく、俺たちの真横を豪速でトラックが駆け抜け、風圧が押し寄せる。

 排気ガスと風の名残だけが残る道路に紙コップだったものが貼りついていた。

 もう少し右に立っていたらタイヤの跡と地面の凹凸を全身に映して地面に貼りついていたのは、俺か宮木かだっただろう。


 遅れて住民たちが安否を尋ねる声が響き出した。

 女は無言で首を横に降ると、ジャケットのポケットに手を突っ込んで去っていった。



「何だったんだよ……」

 呟く俺の隣で宮木はまだ地面を見つめていた。

「片岸さん、飲まなくて正解だったかもしれませんよ」


 半笑いで強張った宮木の顔から足元に視線を移す。

 アスファルトの砂利の隙間に広がる甘酒が何故か煌めいていた。ただ陽射しのせいかと思ったが違う。

 麹に混じる虹色の粒は混入するはずのない、魚の鱗だった。

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