三、ひと喰った神

 夜の森は空との間が曖昧になるほど黒々として広がっていた。



「片岸さん。思うんですが、廃校舎のときもそうですけど、私たちって踏み込まなくていいところまで踏み込んで、遭わなくてもいい危険な目に遭ってませんか」

 節くれだった木の根が隆起した道に足を取られまいと慎重に進む宮木が情けない声を出す。


「何言ってんだ、税金で飯食ってんだからこれくらいやれ」

「はいはい、民間で誰もやりたがらない仕事をやるのも公務員の特権ですもんね」

 宮木の蹴った小石が俺の踵に当たって、宮木の代わりに不満を訴えているようだった。


「こういうの、ホラー小説とかだと村ぐるみで何かを隠してて、何も知らない余所者を生贄にするとかよくありますよね」

「生贄も何も……そもそも唐原以外の村の人間はそれほど重く捉えてなさそうだぞ。せいぜい隣の市の警察に疑われるのが面倒だってくらいじゃねえか」

「そこですよ。信じられません」


 天蓋のように垂れ込める頭上の木々が夜風にざわついた。

「普通に生きてるつもりでも知らないうちに何かに内臓を食い荒らされてるかもしれないんですよ。犠牲者は理由も法則性もわからないって言いますし。普通は嫌じゃないんですかね」


 俺は肩を竦めたが暗闇の中で見えたかはわからない。

「生きてる間何ともなけりゃ気にしねえって奴は多いんじゃないか」

「本当に生きてる間は何事もないんですかね」

 獣に引き裂かれたような唐原の腹部の傷跡を思い出す。俺は首を振った。


「生贄って言えば」

「嫌な前振りですね」

 風でそよいだ木々の葉が食い破られたように割れて遥か上の月光が降り注ぐ。

「ひと喰った神に身を捧げた巫女ってのは本当にいたのかな」

「どうなんでしょう……来る前に調べたんですが、記録が何もないんですよね。ひと食い神じゃないのかって話に都合よく後付けした嘘かも……」


 ペンライトを握る俺の右手に何かが触れる。枝や葉にしては柔らかい感触だった。

 視線を右側に少しだけズラす。黒い森がひたすら続くだけだ。

 風が一際強くざわめき、鼓膜をねぶるような音を立てる。そのとき舞い上がったのは垂れ下がる黒い枯葉ではない。

 乾燥した海藻のように濡れて固まった黒い毛髪の束だ。


 俺は気づかないうちに足を止めていた。

 腰まである黒髪を前に垂らした女が立っている。

 髪に隠れて顔と上半身は見えないが、その下の緋色の袴は巫女が身につけるものだとわかった。

 袴の腰の辺りが緋色というより、海老茶に近い色に変色していた。


 女が手を震わせ、腹に垂れる髪に触れる。

 やめろと言いたかったが、声が出なかった。

 黒髪の幕がこじ開けるように左右に広げられていく。白い着物の腹の中央は血で幾重にも曲線を描いた跡がある。唐原の祖母が書き残したメモと同じ図面だ。

 女が下帯を解き、着物の合わせをくつろげた。

 その中にあるのは空洞だ。古い大木の洞のような黒い穴が口を広げている。


「片岸さん!」

 宮木の抑えた声に我に返った俺の前にはもう何もいない。

 背筋を伝い落ちた汗が急速に冷えていく。

「どうした……」

「どうしたはこっちの台詞ですよ。大丈夫ですか?」

 気遣うように覗き込んだ宮木の瞳に、強張った表情の俺が映っていた。


 俺は手汗で取り落としそうになったペンライトを口に咥えて、脇腹になすりつけるように汗を拭く。そのまま無意識に自分の腹に触れた。肋骨と肉の感触が手の平を押し返す。空洞ではない。


 俺は呼吸を整えて、もう一度どうしたと聞いた。

 宮木は無言で獣道の向こう側を指さした。


 見たくはなかったが、俺はゆっくりと宮木の指が示す方向を向いた。女はもうそこにいない。

 木々の間から見える坂道の斜面は少し登ったところが開けていて、山頂に近づいていたのだとわかった。

 そのまま踏み出そうとしたが、宮木が俺の肩を掴んで止める。


 砂利と枯れ葉が濡れて月明かりを鈍く反射させる地面に、大きな岩の塊のようなものがあった。

 塊が微かに震えている。そこから押し殺したような声が響いていた。

「お願いします。どうか、どうか……」


 俺は咄嗟にライトを消して口元を抑えた。宮木が闇の中で小さく頷く。

 塊は人間だ。全身を折り曲げて、地面に手をつき、土下座をして何かを陳述するようにうずくまった人間だった。


 闇の中で縮れた白髪がそよいで逆立ち、老人だとわかる。暗さに慣れてきた目に臙脂色のダウンジャケットの背と、古いカーテンのような花柄のプリーツが寄れたスカートの腰が見えてきた。

 泥に汚れるのも構わず額を地面につけた老婆を見下ろすものはいない。

 老婆の声だけが風の中に染み出してくる。

「あの女を殺してください……」


 俺は息を呑んで宮木を見た。蒼白な横顔は微動だにせず、視線は老婆のいる方に釘付けになっている。

「あれは悪い女です。息子は騙されているんです。お父さんが亡くなったのもあの女のせいです。私にはわかります。あの女はお父さんが一生懸命に働いてやっと建てた私たちの家が欲しいだけなんです。私も足腰が立たなくなったら邪険にされて殺されます。今まで十九で嫁いでから、お舅さんにもお姑さんにもずっと尽くして、辛いこともずっと耐えて、私に残ってるものは家と息子だけなんです。あの女にそれを全部盗られたらたまりません。今まで私は何にも悪いことなんかしたことはありません。それでも私は地獄行きで構いません。ですから、どうか、あの女を殺してください……」


 押し殺した老婆の声に混じる憎悪が夜闇に溶け出して、闇を一層濃くする。月光が折れ曲がった老婆の背の輪郭をなぞる。

 そのとき、老婆の前に佇む何かがいた。


 子どもほどの大きさの藁の塊に見えた。

 その両脇から枯れ枝に似た角が突き出している。


 宮木を呼ぼうとした瞬間、それが目の前にいた。

 目も鼻も耳も、口もない獣だ。

 毛羽立ったラクダ色の毛の中央が割れて、蛙のように膨らんだ腹が透けている。赤いゴムホースのような腸と風船じみた臓器がしきりに脈動していた。


 薄々気づいてる奴はいるんじゃないかと思っていた。理由も法則性もないはずの犠牲者は皆、“ひと喰った神”に願いを叶えてもらって食われたんだ。

 この村の連中は死後内臓を抜かれることを気にも留めず、異形の神に願を掛けていた。


 俺の右側に巫女服の女が立っている。

 口もないはずの獣が笑ったのがなぜかわかった。

 女が俺を見ている。髪の中から強いるような視線を感じた。

 そこまで辿り着いたなら、お前は捧げないのか、と。

 おそらくこれを止める方法はひとつしかない。

 誰かがまたこの巫女のように身を捧げて、この神にひと食いを辞めさせるしかないのだ。


「俺は––––」

 ざっ、と斜面を滑るような音がした。

 振り向くと宮木が強張った顔に薄笑いを浮かべていた。

「す、すみません。足が滑っちゃって……」

 獣と巫女は消えている。代わりに木々の向こうで音を聞きつけた老婆がこちらを見ていた。


「よし、逃げるぞ」

 俺は宮木の手を掴んで、凹凸の激しい坂道を転げるように駆け下りた。

 視線を感じる。獣か巫女か老婆のものかはわからない。


 息を切らして山の麓に飛び出すと、廃墟と変わりない薄汚れた病院が佇んでいた。顔を上げると、屋上にまだ干したままのシーツがはためいている。その上に満腹になるまで腹に詰め込んで丸々膨れたような満月が光っていた。



 正午を迎えた村は活気があるとまではいかないが、後ろ暗いところなど何も感じさせない長閑な明かるさで満ちていた。


 バンの助手席に座った宮木が報告書に視線を落として溜息をつく。

「直ちに問題はなし、ですか」

「詳しいことは記録に残らないように口頭で伝える。信用できる奴だけにな」

 俺はライターで煙草に火をつけて煙を吐いた。



 光で霞む無人駅にはひとひとりいなかったが、あの老婆に顔を見られた以上村に長居はできない。

「鯛焼き、買わないのか」

「食べる気になりませんよ……」

「つぶあんじゃないからか」

 宮木が呆れたように笑った。


 駅舎の奥にせいぜい三、四階立ての小さなホテルが見えた。刑務所に似た茶色の壁からタクシーが一台吐き出され、駆けてきた白いシャツにベスト姿のホテルマンに見送られながら遠ざかっていく。


 排気ガスが白く尾を引くのを見つめて立ち尽くす男に見覚えがあった。

 髪を分けて制服を着ていたが、目の下のクマと痩せた背は間違いなく唐原だった。


 唐原が一瞬俺の方を向いた。

 接客業の人間らしく上げていた口角がふと下がり、何もかも諦めたような無表情になる。淀んだ目で駅舎とフェンスの向こうの線路と睥睨すると、唐原は踵を返してホテルの中へ消えていった。



「生きてる間に何にもなきゃいいさ」

 俺は窓を開けて車外に煙を流す。


「俺たちだってそうやって騙し騙し生きてるだろ。わかんなくてもその場限りで上手くやれれば後は気にしない。俺もお前の前職が何か知らないしな」

「聞きたいですか?」

 俺は首を横に降る。


「私も片岸さんがその歳でバツイチって噂、確かめようと思ってないですよ」

 宮木の笑みを含んだ声が耳に痛い。


 俺はフロントガラスの向こう、駅前の鯛焼き屋で相変わらず店番をする女を見た。煙草を携帯灰皿に捩じ込む。相変わらず笑っていても不幸そうな泣き黒子だ。


「本当だよ」

 俺は窓を閉めてからシートベルトを確かめ、アクセルを踏んだ。

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