二、ひと喰った神
「うちの婆さんは、本当にろくでもない女だったよ……」
独り言のような唐原の声はほとんど重い磨りガラスの引き戸を開ける音にかき消された。それをいいことに俺と宮木は聞かなかったふりをした。
木目を模した塗装が剥げた玉すだれを指で跳ね上げて、家の中に入る。
底冷えする玄関から見える板張りの廊下は、丸めたカレンダーや空の額縁や段ボールに折りたたみ式の椅子か台車の骨組みと、所狭しと物が散乱していた。
「片付けて売るのが面倒で、仕事が休みのときはここに来て虫が湧かないか見てるんだ。ほとんど手をつけてないから散らかってるけどな……」
ベタつく床板を踏みながら夕暮れ時だというのにひどく仄暗い家の中を、物を避けながら進む。
積み上げられたゴミの山は闇の中に溶け込んで輪郭を失い、人間の居住地を丸呑みした魔物の食道を歩いているような気分になる。
「聞いただろ。俺の婆さんが最初の犠牲者だって」
唐原は俺たちを台所の椅子に座らせ、ヤカンから麦茶を注いで出した。
白地に赤い花模様のヤカンはおそらく彼の祖母が使っていたのだろう。
死んだ祖母の家の匂いがすっかり染みついた唐原は、まだ若いのに疲れ果てた老人のような雰囲気がある。彼の肩越しに居間の介護用ベッドが見えた。
「犠牲者なんて虫のいい。半分は婆さんの自業自得みたいなもんだ」
「もう半分は?」
宮木が麦茶を啜りながら聞く。唐原は答えず、俺たちに背を向けて居間の方へ向かった。
「私、怒らせちゃいましたかね」
「今更だろ」
戻ってきた唐原は贈答用の和菓子か何かの古い箱を手にしていた。
「これが婆さんの遺品の日記だ」
彼は取り出した手帳の最初のページを指でめくって、二ページ目からを俺たちに向ける。
黄ばんだ紙の中央に大きな楕円が描かれ、その中に脳みそや腸のような線が幾重にも重ねられていた。
俺は紙をめくった。どこにも同じような図が書いてある。たまに楕円の上の方に両側から突き出した線のようなものがあるものも混じっていた。
「これは……」
宮木が曖昧な笑みを浮かべて日記を返した。
「イカれてると思っただろ」
「お祖母様は闘病なさってたんでしょう。薬の影響でせん妄が起こることもありますから……」
赤鉛筆で書かれた不気味な絵に、俺は子どもの頃に見た蛙の薄い腹に血管と内臓が透ける様を思い出した。
「内臓か……?」
無意義に呟いた言葉に唐原が目を見開いた。
「いや、何でも。独り言ですから」
彼は口をつぐみ、しばらく俯いてから視線だけ上げて俺を見た。
「俺のこともイカれてると思うかもしれないけどな……」
唐原がテーブルの上で指を組んだ。
「俺が子どもの頃、トラックに轢かれたことがある。相当マズい状況だったらしい。ずっと昏睡状態だった。そのときに夢で……こいつを見たんだ」
陰鬱な面差しに更に暗い影がさす。
「暗い山道で、辺りが森みたいな木々に覆われた坂を登ってる夢だった。登りきったところに妙な生き物がいたんだ。角の生えた乾いた藁の塊みたいな生き物だった。そいつには目も鼻も耳もなかった。藁みたいな毛の中央が膨らんでてしきりに動いてた。毛が割れたところに薄く透ける赤いチューブやビニール袋みたいなものがあって、内臓だと思った。そいつには口もないのに、内臓は何か喰ったものを消化するみたいに動いてたんだ」
唐原は話し終わる前に俺と宮木から目を逸らした。
自分が理解されないことを言っている自覚があるのだろう。どんな反応も欲しくないというように伏せた目が淀んでいる。
「村で他にそういう生き物の夢を見たひとはいますか?」
唐原は首を振った。
「さあな、聞こうと思ったこともない。こんな田舎で狂人だ何て噂が立ったら仕事なんかできない。わかるだろ」
「では、この夢の生き物に心当たりは?」
唐原は卓上の鈍器のようなガラスの灰皿を引き寄せ、煙草を取り出して火をつけた。たゆたう煙が沈黙の底を這う。
彼は白い煙を吐くと同時に言った。
「ひと喰った神」
俺と宮木は視線を交わす。
「この土地の信仰だ。それを調べに来たんだろ。噂で聞いたよ。たぶん、俺が見たのがそれだ」
「なぜ、それが唐原さんの夢に出てきたんでしょう」
宮木の問いに彼は自嘲するように笑う。
「うちの婆さんが、そいつに祈ったからだろうな」
灰がテーブルに落ちて、残った火の粉がニスの塗装を溶かした。
「願い事を叶えるためにひとを食う悪神だったが、改心してひとを食うのをやめたなんて大嘘だ。あの婆さんの言うことには本当のことなんか何もない。あれは未だにひとを食う化け物だ。あの女はそれに祈ったんだよ。孫を助けてくれってな」
低い声に燻った怒りが混じるのを感じる。
「唐原さんのお祖母様はひと喰った神に祈って、あなたの命を助けてもらう代わりに、食われたと?」
「それはおかしいですよ」
俺の言葉を宮木が遮る。
「お祖母様は病気で亡くなったんでしょう? それも唐原さんが大きくなってからだいぶ後に。その場で食い殺された訳でもないのに……」
宮木がそこまで言って自ら黙りこくった。
「ひとを襲って食い殺すんじゃない。喰った結果だけを残す。だからひと食い神じゃなく“ひと喰った神”ってことか……」
唐原は無言で頷いた。
「うちの婆さんはとんでもないものを起こしやがった。あのまま死んでた方がマシだってのに……」
唐原は灰皿で吸殻を磨り潰して、立ち上がった。
「そんなこと言ったら駄目ですよ。唐原さん自身には何事もないんでしょう」
宮木が取りなすのに答える代わりに、唐原はシャツのボタンに手をかけた。唖然とする俺たちの前で乾燥した指が上から下までボタンを次々と外していく。
「ちょっと、何してるんですか」
唐原は全てボタンを外し、黒いアンダーシャツの裾を捲り上げた。俺たちは別の意味で言葉を失った。
「俺の腹には事故のときの傷跡があった。ぐちゃぐちゃだった腹を縫い直した傷だ。最初は縫合痕だった。でも、それがだんだん変わって」
肋の浮いた薄い腹に傷跡がある。成長によって引き攣れたり、古くなって変色した傷ではない。
赤黒い無数の直線が何重にも重なって、網目状の痕を作っている。
内臓を食い破ろうとした獣の鋭い爪に裂かれたような傷だ。
「襲ってくる化け物なら対処しようがある。でも、食われた痕しか残さない、見えない神ならどうすればいい?」
唐原は光のない瞳を歪めるように笑った。
「宮木、山に行くぞ。実態を調査しないと」
呆気にとられていた宮木が俺に視線を移して頷いた。
「山に行くなら、夜になってからにした方がいい」
アンダーシャツを下ろして再びボタンを留めながら唐原は言った。
「どれだけこの村が終わってるかわかるからな」
窓の外の夕陽は台所に差し込んだ側から黒い闇に変色し、部屋中にひしめく老人の遺物を色濃く縁取った。
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