一、ひと喰った神

 狭い車内にコーヒーの匂いが充満している。


 助手席の宮木みやきが半分に割った鯛焼きから溢れる小豆を見下ろしてあっと呟いた。

「これ、こしあんでした」

「どっちも同じじゃねえのか」

「全然違いますよ」

 宮木が手についた餡をウェットティッシュで拭きながら観念したように鯛焼きにかぶりついた。


 暖房の熱気で結露した窓ガラスをスーツの袖で拭くと、今時珍しい木造建築の駅舎の脇の鯛焼き屋が映った。

 湯気の中で鉄板の鯛焼きを裏返す女主人の顔と目が合って会釈される。笑っていても悲しんでいるように見える泣き黒子に、俺が少しの間一緒に暮らした女の顔が浮かんで俺は顔を背けた。


「客の来ない屋台を出すなら駅員のひとりでも置けばいいのにな」

 俺は濡れて冷たくなった袖を擦ってコーヒーを啜った。

 宮木は諦めたように鯛焼きを齧っている。

 外からこしあんかつぶあんかわからないだけならまだいい。膨れた小麦粉の腹の中に何も中身が入ってなかったら。

 今回はそういう案件だ。



 朦々と立ち込める煙に似た木々が鬱蒼と茂る森を背に二階建ての病院が建っている。

 雨垂れて汚れた壁を見上げると、錆びたフェンスで囲われた屋上の物干し竿で白いシーツがはためいていた。夜に見たら幽霊だと勘違いするだろう。



 仕切りもろくにない駐車場に車を停めて、俺と宮木はバンを降りる。

「話ではこの山に“ひと喰った神”がいるそうですね」

 宮木が陰鬱な深緑の葉が覆う山の麓を見つめて呟いた。

「何でひと喰い神じゃねえんだろうな」

「言い伝えでは、昔は村人の願いを聞く代わりに叶えた後取って食う悪神でしたが巫女が自らを生贄に捧げてから改心して善神になった、とのことですよ」

「善神だったら俺たちが呼ばれてねえよ……」


 口に出しながらもそうでないことは俺自身がよく知っている。

 悪神だと断じられる存在なら是が非でも滅ぼせば済む話だ。善悪のような人間の物差しで測れないものを無理に破壊するととんでもないことになる。そういう事態を何度か経験してきた。



 病院の名前が白で彫り抜かれたうがい薬のような茶色のドアが開き、白衣を肩にかけた初老の医者が現れる。彼がドアを開けたまま待っていたので、俺と宮木は小走りに駆け寄った。


 昼休憩の最中なのか院内は静かで、リノリウムの床に反射する蛍光灯の光が廊下を洞窟のような暗さにしていた。

 受付では看護師がカルテや処方箋を堂々とカウンターに広げたまま電話をしていて、宮木が苦笑する。

 緑の公衆電話と紙パックのジュースの自販機があるロビーはあと少しで老人の溜まり場になるのだろう。


 どこまでも牧歌的な田舎の病院らしい廊下を進み、医者に促されるがまま俺たちは奥の診察室の中に入った。



 医者は引き戸を閉めてから俺たちにスチール椅子を勧めた。背もたれもない薄いクッションの椅子に腰を下ろして医者と向かい合うと患者になったような気分になる。


「本来は患者さんの個人情報なのでお見せできないんですが、今回は特別な措置ということで……」

 医者は棚から紙束がはみ出した分厚いファイルを机に置いた。

「うちで亡くなった方の記録です」

「拝見しても?」

 医者の首肯を待ってから俺はファイルを受け取った。

 手首にずっしりと重みがかかる。表紙にも背表紙にも表題はない。


 ファイルを開くと黄ばんだ罫線ノートの紙が何枚も閉じられていた。宮木が後ろから覗き込む。

 ボールペンで走り書きされた文字は専門用語なのか何語かすらもわからない。簡単な線で描かれた丸や四角の脇のメモはかろうじてドイツ語だろうと検討がついた。


「これはその、どういう……」

 無言で俺の手元を見つめている医者に解説を求めようと顔を上げかけたとき、ノートに挟まれた一枚の写真が目に飛び込んできて俺は息を呑む。



 白いアーチの門が幾重にも並んでいるように見えた。

 弧を描く梁の向こうに上を向いた人間の顎と鼻がある。寝台に寝かされて開腹された死人の上半身の写真だ。

 後ろの宮木を顧みたが、驚いた様子もなく俺の肩越しに写真を凝視しているだけだった。


 再び視線を下ろすと、アーチに見えた肋骨のぞっとするほど非人間的で機械的な構造がありありとわかる。それから遅れて気づいた。

 肋骨の中に収められているはずの内臓が皆無だ。骨と骨の間に張っているはずの筋組織すらない。丁寧に肉をねぶり取られたフライドチキンの骨を想像させた。



「内臓が……」

「そうです」

 俺の声に医者は溜息をついて頷いた。

「二年ほど前からこの村で亡くなった方に起こる事象です。生きている間は何の問題もないんです。ただ仏さんを開腹すると、あるはずの内臓がごっそりなくなっているんですよ。死後間もなく解剖を行ったときもそうですから、腐敗や微生物では説明がつきません」


「内臓だけを溶かす寄生虫ですとか……」

 口を挟んだ宮木に医者は首を振る。

「内臓の大部分を失っていて何の自覚症状もないのは考えられません。発端となった唐原さん––––失礼、患者さんは亡くなる一週間前にレントゲンを撮っていますがそのときは何の問題もありませんでした」


「生きている間あったはずの内臓が死んだ途端消えるのか……」

 俺はファイルを閉じた。

「警察には最初臓器売買を疑われましたよ。ご遺族の方が証言してくださって事なきを得ましたが」

 医者は自嘲するように笑う。俺は宮木を横顔を見る。よく飯を食った後で死体の写真を見て平気だな、とは聞かなかった。



 俺には内容のわからないカルテや解剖結果の写真をカメラで収めてから病院を出ようとした矢先、見送りについてきた医者を看護師が呼び止めた。

唐原からはらさんのお孫さん、また来てますよ」

 眉をひそめる看護師に医者は諌めるような視線を投げる。

 唐原。医者がうっかり漏らした第一犠牲者の名前だ。

 半透明の茶色のガラスから視線をやると、まだ若いが陰鬱な印象を受ける男が駐車場の車と車の間から見えた。



 俺たちが病院から出てきても男は気に留める様子もなかった。

「あの、私たちの車がどうかしましたか?」

 宮木が愛想笑いを浮かべると男は視線だけ動かした。猫背で痩せた身体が枯れ木のような印象を受ける。淀んだ目の下には涙袋と一体化した濃いクマがあった。


「東京の、ナンバーだな……」

 掠れた声だった。男は言ってからわずかに目を逸らす。詮索好きの田舎者と一緒にされたくない若者らしさを感じて俺は笑いそうになった。


「何でこんな辺鄙なところに?」

 俺が何か言う前に宮木が前に進み出ている。

「この村で起こっている事件について調査に来ました。唐原さんですよね? 何かご存知でしたらお聞かせ願えますか」

 有無を言わせない宮木の笑顔に男がたじろぐ。俺が止める暇もなかった。



 昼間にもかかわらず夜半のように薄暗い山道を歩きながら、唐原は二十四歳で、東京にいたが体調を崩して辞職し、今は故郷のこの村に戻って旅館で働いていると話した。笑顔すら想像がつかないこの男が接客業についているところは余計に想像つかなかった。


「旅館だけど、観光に来るところでもないから、奇特な営業マンか安い合宿所を探してる学生くらいしか来ないけどな……ここの人間じゃないのと顔を合わせられるだけでいい……」

 唐原は唇に煙草を押し当てて火をつけた。


「唐原さんがこの村に戻られたのはいつのことですか?」

 隣を歩く宮木が煙を避けてわずかに仰け反りながら問う。

「婆さんの葬式で一旦戻ってから半年後だから一年半前になるかな。本当は次、お袋の葬式でもない限り二度と帰らないつもりだったけどな……」


 唐原は煙を吐いて咳をする。

「聞きたいのは、うちの婆さんのことか?」

「まずはそうですがそれ以外にも知ってることがあれば」

 俺が言うと男は噎せるように肩を揺らして笑った。

「外の人間が調べて得のあるもんじゃない。第一ここの奴らの自業自得だからな」



 問い返そうとしたとき、小さな鈴の音が聞こえた。

 唐原が足を止める。

 山道を取り巻く木々の間からひっつめ髪の三十代くらいの女が飛び出してきた。


 唐原は鋭い視線で女を見た。煙草の灰が男の胸に落ちた。

 女は俺たちを見ると、慌てて屈んで地面に落とした鈴つきの鍵を拾った。

「どうも……」

 毛玉のついたトレーナーのポケットに鍵を押し込んで、女は逃げるように山道を駆けていった。



 女が出てきた方に視線をやると、密集した木々の枝葉にわずかな隙間が空いて、削り取れた傷跡に似た山へと続く獣道があった。目を凝らすと緑がかった黒の葉に埋もれるように赤の鳥居が浮かび上がっていた。


 唐原は獣道を睨んだまま足元に吸殻を捨て、爪先ですり潰した。

「だから、自業自得なんだよ……」

 男が俺と宮木に向き直った。

「うちに来るなら婆さんの遺品を見せる」


 紙巻が破れて中身の葉を溢れさせた煙草がくの字に曲がった何かの死体のようだった。

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