二、ひとつずつ降りてくる神
小型のクレーン車が水面を啄む鳥のくちばしのように動き回り、ガソリンスタンドの屋根を突き破って降ってきた巨大な耳を摘まみ上げる。
クレーンの真下で待ち受けていたトラックが後退し、荷台を差し出すと、敷き詰めた緩衝材の上に耳朶がぽとりと落下した。
「手慣れたもんだな」
黄色と黒のテープで仕切られた現場を眺めながら埃まみれの俺と宮木は苦笑した。
スーツの上にレインコートに似た黄色いビニールの上着を羽織った初老の男が額の汗をぬぐいながら俺たちに駆け寄ってくる。
「いやあ、驚かれたでしょう……こういうことはたまにあるというか、あっちゃいけないんですが、何しろ他のところのひとに説明してもどうにもわかってもらえないものですから……」
地元の有力者なのだろう。こちらを伺うような笑みの奥に焦りの他、俺たちに有無を言わせぬ何かを探ろうと考えを巡らせているような冷たい威圧感がある。
「ああ、ご心配なく。自分たちもこういうのは初めてじゃないですから」
男が意表を突かれたのか取り繕った微笑が頰から剥がれ落ちた。
「耳や目が降ってくるのが、ですか?」
「いや。ただこういう何というか、余所の人間に説明できないような事態には慣れてます。そのための調査できてますから」
男と俺の間に共犯者じみた視線が交わされた。
宮木が俺の耳元で囁く。
「片岸さん、言い方」
「送り盆の頃になると井戸水が何かの生き物の羊水に変わる村にも行きましたよって言う方がよかったか?」
鋭角の肘が軽く俺の脇腹を小突いた。
男が運転する軽自動車の助手席に乗りながら、悠々と後方に流れていく金の稲穂の波を眺めていると、少し後ろを走るトラックの運転手の顔がサイドミラーに映り込んだ。
俺は目を逸らして、気まずい沈黙をごまかすように話題を探した。
「村の方から聞いた話では落ちてきた物は神社に奉納したそうですが、今でもそちらに?」
「それが入りきらなくなりまして、今は廃校になった小学校を倉庫代わりにして納めています。ひとつひとつが結構な大きさですからね。それぞれを教室に入れておけば鍵もかかりますし、カーテンで外からは見えませんし、まあ、何とかやっております」
男はハンドルから片手を離して脂ぎった頰をさすった。
頭上のミラーに後部座席で熱心にメモを取る宮木の姿が反射している。
暖房の乾いた空気で身体中の水分が蒸発するようで、俺は許可を取る前に窓ガラスを少し下げた。涼しい風が吹き込むと、野焼きの焦げくさい匂いも入り込んでくる。
道の凹凸にタイヤが乗り上げて車体が跳ねたとき、路肩にガソリンスタンドの前で見たのと同じ石の欠片が集めてあるのが見えた。
泥をかぶって文字は見えないが、先ほどのものよりふた回りは大きい。
「あの石像のようなものは何です? 先ほども見かけましたが」
「あれですか」
男がエンジンを強くふかすと、深く穿たれた轍に入り込んだタイヤが泥を跳ね上げて再び速度を上げた。
「うちの村の守り神といいますか、道祖神のようなものですかね。昔はああやって村の道端のいろんなところにあれを建てて、いいことも悪いことも神様がちゃんと見てるぞって示すものだったんですよ」
「でも、今は大多数が壊れていますね?」
シート越しに宮木が口を挟んだ。
「ええ……昔、村の開発がありまして、山からトンネルを抜けてくるトラックや何かを通すためにたくさん道路を作ったものですから。嫌らしい話ですが、作れば作るほど助成金も出ましたし。ですから、ちょっと一旦退かさせてもらって。もちろん邪険になんかしてませんよ。ちゃんと神主さんにお祓いなんかをしてもらって移してね」
俺と宮木はミラーを介して視線を交わす。
男がウィンカーを明滅させて合図した。
青い空にそびえる古びた校舎が視界に飛び込んだ。
「着きました」
男が校門の脇に車を停めてシートベルトを外す。男に続いて俺たちも車を降りた。
肌寒い空気に身を震わせて俺は空を見上げる。
錆びついた緑のフェンスの網目から覗く校舎は、止まった時計やバスケットゴールが在りし日の姿のまま残っていた。
男が柵に二重に巻いた鎖と南京錠を外して門を開く。トラックが土煙を上げながら校庭に縦長の胴を滑り込ませた。
茶色い塗装は雨垂れと蔦に覆われ、突き出した室外機と鉢植えが指で突けば崩れて塵になりそうなほどにひび割れていた。
「なあ、どう思う」
先行して歩く男に聞こえないよう俺は声を抑えて宮木に聞く。
「どうって、やっぱり村中の石像が壊れてるのがまずいんじゃないでしょうか」
「だよな」
埃を被ったセピア色のガラスの前で男が足を止め、校舎へと続く扉を開く。
生温かい空気がどっと吹きつけた。
「後のことはこっちでやりますから、東京の方にはちょっと様子を見ていただいて……」
男は俺たちを中に通してから、何度も腰を折り曲げて去っていった。小さくスイッチを押す音がして、暗く沈む校舎に橙色の明かりが灯った。
「行くか」
俺は胸元からペンライトを取り出して廊下を進み出した。
埃と黴の匂いでむせ返りそうな空気が充満する廊下は長く仄暗い。突き当たりの階段を上ると靴底がぎゅっと鳴る音だけがこだました。
二階に到着するとすぐ左手の銀の非常扉がペンライトの光を反射し、壁に映る俺と宮木の顔を歪めて映した。
光を右側にやると暗がりの中で舞う埃の粒と「二年一組」の看板が目に入る。ペンライトを下げてみたが、閉ざされた教室のドアのガラス窓には黒く奥行きのない闇しか映っていていなかった。
「宮木、電気のスイッチあるか」
「ちょっと待ってくださいね。ここかな」
背後で宮木が壁を擦る気配があり、カチッという音と同時に周囲が明るくなった。
ペンライトを下ろしかけて、俺は声を漏らしそうになる。
ドアの小窓から見えたのは暗闇ではない。教室いっぱいに張り巡らされた膨大な量の毛髪だった。長くとぐろを巻いた髪の繊維がガラスに張りついて、乾いた皮脂の白い跡を引いていた。
宮木が小さな呼吸音が聞こえた。
「行くぞ」
俺は手汗で滑るライトを握り直して奥へと足を進めた。
二年二組の教室の壁は水を吸って膨れたように湾曲し、錆びた画鋲やプリントされた掲示物が手前にせり出していた。
小窓を除くとなだらかな白い山の稜線に似た隆起が広がっている。表面に麻の葉模様に見える細かなキメが見えて、それが引き伸ばされた皮膚だとわかった。
「これ全部見ていきますか」
いつの間にか隣を歩いていた宮木が暗澹とした声を出す。
「見てもどうしようもねえ気もするがとりあえず調査だからな」
二年三組の前に差し掛かる。ライトの先を動かして小窓を照らし、奥に机や椅子をバリケードのように並べた教室の中央にてらてらと光を浴びる球体があることだけ確認して俺は脚を早めた。
「ここの守り神が土地開発で石像を壊されてバラバラになったってことですよね」
「石像を壊したせいか、道路を開通させて土地が分断されたせいかはわからないけどな」
互いの歩幅が次第に大きくなる。
「でも、不思議なことがあって。ここの神様は山に住んでるわけでしょう? 何で山から出てくるんじゃなく空から降ってくるんでしょうか」
「それは……お前、あれだろ……」
俺が言葉の続きを見つけるより早く視界が縦に揺れた。
「地震ですか!?」
校舎全体が悲鳴を上げるように軋み出し、天井から埃と塗装の欠片が降る。
「とにかく一旦出るぞ!」
俺たちは元来た方へ走り出した。地面が上下し、足を取られそうになる。
二年三組の前を駆け抜けようとしたとき、壁を叩きつける鈍い音が響いた。
ガラスがひび割れ、柔らかな生き物か何かが無理矢理狭い空間を通ろうとするようなみちみちという音が聞こえた。
俺は一瞬視線をやったことを後悔する。今さっき通りかかったときには教室の中央にあったはずの球体が小窓に貼りついていた。
ガラスに押し付けられて充血した眼球がぐるりと反転し、淀んだ薄鼠色と黒の瞳孔が俺を捉える。
背後でさらに衝撃が破裂した。隣の教室の扉がガタガタと揺れ、さらに巨大な白い目玉が今にも窓突き破ろうとしている。ふたつの教室に収められた双眸が回転し、互いに視線を結ぶ。
「片岸さん、これ……」
「いいから走れ!」
俺は宮木の腕を掴んで脇目も振らずに廊下を抜け、階段を駆け下りた。
一階に辿り着いた瞬間、あれほど激しかった揺れがぴたりと止んだ。震動になれた脚が膝を折りそうになるのをごまかして、俺たちは校舎から飛び出す。
汗だくで息を切らす俺たちを初老の男が奇妙なものを見る目で見下ろしていた。
「焦らなくても結構ですよ。そろそろお呼びしようと思ってましたが……随分長く見ていらっしゃいましたね」
男の愛想笑いと冷たい空気が背筋を伝う汗から熱を奪っていく。錆びたフェンスの隙間を埋め尽くす空は夕暮れの赤に変わっていた。
「私たち、五分もいなかったですよね?」
宮木が顎の汗を拭いながら言う。俺は首肯を返すのがやっとだった。
「何が何とかやっておりますだ……あの身体のパーツ全部動いてるぞ……」
校舎から出て行くトラックを誘導する男の背中に毒づいたつもりが掠れた声しか出なかった。
「どうなってるんですか、あれ。自分の身体をひとつの場所にまとめようと動いてたんでしょうか」
宮木の声に俺は資料で見た記録を思い出す。
「御神体だ」
俺は白線のトラックが残る地面を靴の先で踏み均す。
「資料に山と土地が守り神の御神体そのものだって書いてあっただろ。あの神の本体はこの土地そのものなんだよ。だったら、バラバラになった神が戻ろうとする場所はこの土だ。だから、地震は縦揺れだった。アスファルトで分断されて帰れなくなった地面に戻ろうとしてんだろ」
納屋やガソリンスタンドの屋根を突き破って地面にめり込んだ巨大な眼球や耳朶の映像が脳裏に浮かぶ。
「今更道路を引っぺがすのは無理だとして、せめてあの石像をどうにか戻さねえと……身体が全部集まったらたぶんエラいことになるぞ」
俺は咳払いをして姿勢を正した。
「エラいことってどんな?」
「たぶん、憶測だけど、あのデカい神が山か地中に還ろうとして一斉に動き出すんだ。村がズタボロになる」
茜色の空の裾野に触れるように影法師のような山がそびえていた。
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