一、ひとつずつ降りてくる神

 よくある田舎の光景だった。



 都会では考えられない広い庭だ。家を取り囲む青々とした生垣には冬になれば椿が咲くのだろう。

 木の枝が少し道路に突き出していても近所の住人は気にしないらしい。

 庭の隅には真新しい納屋が空色の塗装を陽光に照らされて輝いていた。


「孫が帰ってきて塗ってくれたんですよ。この家にはちょっと派手なんじゃないかって言ったんですけどねえ」

 この家の持ち主の老婆が紫色のシミが散った手を揉みながら俺に向かって微笑む。俺は愛想笑いを返したが上手くできたかはわからなかった。


「この納屋が例の、ですか」

 老婆が曖昧に頷いた。

 俺はスーツのポケットからインスタントカメラで撮った一枚の写真を撮り出す。裏面にインクが漏れたポールペンで記された日付は一年前の今日に当たる。


 俺は写真を裏返し、空色の納屋に重なるように掲げた。

 よくある田舎の光景では全くなかった。



 無惨に押し潰された納屋がある。

 台風が通った後のようだが、背景の庭木戸には傷ひとつない。

 納屋だけがささくれたベニヤ板を地面に撒き散らし、中の農耕具やひしゃげた子ども用の自転車や木製のバットとグローブをぶちまけていた。


 問題なのが廃材を敷物がわりに鎮座している巨大な球体だ。

 おそらく直径は一・五メートルほどある。牛乳寒天のような質感の白い円が撮影された当時の朝日を反射して濡れたように光っていた。ふた回り小さな薄灰色の内円があり、その中にもうひとつ小さな黒い円がある。目を凝らすと白い球体に珊瑚のような赤い血管が散っているのがわかった。


「目、ですか」

「みたいですねえ」

 俺の漠然とした問いに老婆が苦笑を浮かべる。

「去年、おたくの納屋にこれが降ってきたと」

「ええ……」

 俺が写真を下ろすと、新調された納屋がスライドするように視界に映った。

「右目か左目かはわからないんですけどねえ……」

「まあ、そこまでは問題じゃないですから」


 俺の言い方が不機嫌に聞こえたのか、老婆は身を縮こめて会釈した。

 こういう聞き込みに俺は向いていない。生垣の向こうに視線をやると、俺と同じ就活生のようなスーツ姿の女がニヤリと笑った。



宮木みやき、こういうの次からお前も来てくれよ」

 老婆の家から出て、舗装されていない道の脇に残るガードレールにもたれかかりながら、俺は煙草に火をつける。

「私は役所の方で調査がありましたから。片岸かたぎしさんもちょっとは聞き込みに慣れないと」

「どっちが先輩かわかんねえな」

 乾いた風に息を吐くと、木々の間から見える田んぼから上がる野焼きの煙に紫煙が重なった。


「それで?」

 宮木は鞄からクリアファイルを出す。

「始まったのは九十七年ですね。最初はここから坂を降りたところにある第三小学校のプール。今は廃校です」

「少子化だな」


 俺は資料を受け取った。新聞記事をコピーしたA4用紙は画質がひどく粗い。

 目を凝らすと、白黒写真に写っているのが二十五メートルプールの縁だとわかった。

 画像の中央に巨大なホースのようなものが端から端まで渡されている。 プールの途中でわずかにくの字に湾曲していた。

「カラーにしてくれよ」

「税金の無駄遣いはできませんから。灰、落ちますよ」


 咥え煙草のまま紙面を遠ざけ近づけを繰り返し、ようやく全貌が見えてくる。

 プールの端の飛び込み台に、五つに分岐したホースの先端がかかっている。それぞれの末端が細く、黒ずんだビート板に似た楕円形の硬質な何かが付いていた。

「腕か」

「みたいですね」


 宮木は鞄にファイルをしまいながら言う。

「九十七年から毎年一度必ずこの村に巨大な人体の一部が落下してくるようになったそうです。現在確認されているのは鼻、右腕、犬歯と見られる歯、膝、四十メートルほどで二十キログラムの毛髪、あとは、内臓も。脾臓と左の腎臓らしいですよ」


 軽快なクラクションが二度鳴って、俺と宮木は顔を上げる。

 木材を積んだトラックの運転席から日焼けした老人が笑みを浮かべて片手を上げた。俺は口角を上げて笑みを返そうと努める。

「都会のひと?」

「はい、自治体の調査で東京から参ってます」

 俺が口を開く前に宮木が明朗な声で答える。

「そう、もっと若いひとが観光に来てくれるようにさ、上に言っといてくれよ」

 人懐こい笑顔とエンジン音を残して、老人を乗せたトラックが去っていった。


「よくすらすら嘘が言えるな」

 宮木は肩を竦めた。俺たちが東京から来ているのだけは本当だ。それでいい。

 各地で起こる放置できない怪奇現象の調査のために派遣されているなど言えるはずがない。



 俺は携帯灰皿に吸殻をねじ込んで坂道を下り出した。

 葉を落として乾ききった木々の隙間にどこも似たような生垣に囲まれた家々が並ぶ。

 更に向こうにはひび割れたアスファルトの車道が田畑を焼き払った跡のように走っているのが見えた。


「ここの土地神についての調査はまだ始めたばかりで」

 宮木がパンプスに染みる泥を注視しながら俺の隣を歩く。

「それは俺が調べた」

「先に言ってくださいよ」

「お互い私用の連絡先知らねえだろ」


 俺はスーツのポケットから折りたたんだコピー用紙を出す。郷土資料館にあった、奇特な学生しか見ないような各地の民間伝承の本の隅に載っていた筆書きの挿絵だ。

「天保十年、ここに住んでた絵師が描いたものらしい」

 宮木が俺の手元を覗き込む。黄ばんだ半紙には俺でも書けそうな直線を重ねた山稜と点で表した水田がある。そして、山の影から虚ろな表情で覗き込む、丸坊主の痩せた巨人が描かれていた。

「味のある絵ですね」

 ほとんど空洞のような巨人の目は感情を読み取らせない。筆を寝かせて走らせた線は巨人を見上げる村人たちを表しているようだ。


「詳しい伝承はほとんどない。この神の名前もなかった。山と村の土地全体が御神体で、常に村人を見守っている、とかその程度だったな」

「それだけですか?」

「あとは明治初期に詠まれた短歌みたいなもんが載ってた。よくわからないが、ある年の祭りでもう充分この村が豊かになったから神様は還っていったとかなんとか……」

「あ、それは私も聞きました。その歌に合わせて村のお祭りで踊ったらしいですね」



 爪先に石よりも大きな何かがぶつかって俺は立ち止まる。

 足元を見下ろすと、融解しかけた氷のような形の石が半分埋まって土から突き出していた。

「危ねえな、何だこれ」

 屈んだ瞬間、直感で触らない方がいいと思った。こういう仕事をしているとろくでもない予感ばかり当たるようになる。

 泥で汚れた石の表面を削り取った「穣」「道」の字だけが見て取れた。


「どうかしましたか」

 宮木の問いに俺は首を振る。

 坂道は終わり、周囲に黄金色の稲穂が広がっていた。

 視界の隅に、木陰に埋もれるような閑散としたガソリンスタンドがある。赤と橙の線が入った屋根の下に車は一台もない。

 ガソリンの時価を教える電光掲示板も明かりが消えていた。


「本当に田舎だな」

「これでも少し前に開発が進んで道路をたくさん通したらしいですよ。山も開拓してトンネルが開通したとか」

「それ、いつ頃の話だ」

「九十七年頃ですね」

 俺と宮木は顔を見合わせた。


 霞む空を渋茶色の墨で塗りつぶしたような山が見える。山肌を凝視すると、細く引っ掻いた線のように樹木の生えていない部分がある。

 あれが開通した山道なのだろう。

 先程の老人が今頃、古びたトラックであの山を駆け上がっているのだろうか。


「宮木、そういえば、村の祭りの日っていつだ」

 俺の声がわずかに上ずったことに宮木は気づかない。

「最近はもうやっていないらしいですけれど、ちょうど今日に当たる日ですね」



 そのとき、雷鳴のような音が響いた。

 咄嗟に宮木の前に出た俺に灰色の風が吹きつける。

 朦々と立ち込める煙に細かな砂利が混じって身体に叩きつけられた。

 俺と宮木は噎せ返りながら霞む視界の先を睨む。


 赤と橙のガソリンスタンドの屋根が折り紙のようにV字に折れ、中央に穴が貫通していた。

 真下のガソリンポンプが傾き、今にも折れそうだ。

 引火して爆発したらまずいと思ったがそれどころじゃない。


 屋根を突き破って落下した物が瓦礫の山の上に乗っている。

 薄橙色のシートのような柔らかい物体がもうひとつのガソリンポンプに半ばかぶさっている。複雑なしわを描いた襞の中に円があり、中に生えそろった産毛の影まで鮮明に見えた。

 それは巨大な耳だった。


 善とも悪とも言いようがない、人智を超えたどころか人間の手には負えない超常現象又はそれを引き起こすものを、俺たちは“領怪神犯”と呼んでいる。

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