トラフ
古川卓也
トラフ
「ボクの栗、あげる」と中山先輩はヘルメット一杯になった栗を私に差し出した。「キミのヘルメット、ちょうだい」と言うので、私は自分のヘルメットを脱いで彼に渡した。すると中山先輩は、私のヘルメットに自分が採った大粒の栗を一つ残らず全部まるごと移し替えた。
「えっ。全部くれるの? 中山さんの分は?」と私が訊くと、
「ボクはまたすぐに採れるから、いいんだ」と彼は言って、自分のヘルメットをコンコンと叩くや、ヘルメットの内側のゴミを除いてから再び頭に被った。
この一帯の線路沿い区間には栗林が続いており、JR在来線の敷地内ということで、鉄道保全の仕事では、線路側に山林の飛び出した樹木の伐採がたまにあり、こういう美味しい仕事も待っていた。人が普通に立ち入れない道なき道の山林には、こうした自然の恵みに遭遇することはよくあった。甘柿もあれば自然薯もある。秋のJR在来線には、過酷な労働もあれば、こうした味覚の風情も豊かだった。浅春の竹林には筍狩りもあって、初めからその情報が判っていると、前以て安全ベルトに筍掘り用の小さな鍬が挿してあった。筍狩りは決して仕事とは言い難いが、伐採仕事の贈り物とでも捉えるべきであろう。自然に生ったものを家でその日の内に煮付けて食べると、これまた美食家もびっくりするほど甘くて美味しいのだ。しかも安全安心の立派な日本産でもある。
中山先輩と親しくなったのは、以前、先輩から命を助けてもらったからである。背の高い私は身長のわりには体重が少なくて、60キロしかなかったのだが、腕力や筋肉はそれなりに人並の強さは備えていたものの、時に想定外の過重労働を強いられることがあり、その日、とある在来線の某支線で自動列車停止装置(ATS)の埋設工事での出来事だった。
川沿いの小さな無人駅で、夕陽がとても美しく川面に映える場所だった。そこのATSの埋設工事区間はおよそ100メートルくらいの距離だったろうか。線路脇に50センチ幅で50センチ高さの溝が掘られ、溝の長さが大体100メートルくらい続くのだ。溝はあらかじめATS工事区間計画で黄色い掘削工事車輌が掘っている。線路の上を動いてゆく工事車輌は線路バラスを超えて正確な位置までアームを伸ばし、その位置から下へゆっくりと土を掘り下げてゆく。掘削された土は外側へ盛られ、埋設工事が終了すれば、盛土はコンクリートの溝蓋を覆ってゆくが、余った盛土は工事車輌の後ろに連結されたパケットに回収される。
ゆるやかにカーブした線路沿いのATS用溝には、太い電線ケーブルを埋設するためにコンクリート製のトラフを置いてゆかねばならなかった。横幅30センチ×高さ30センチ×長さ50センチ×厚み5センチの「コ」の字型トラフで、一個あたりの重量は25キログラムだった。25キログラムのコンクリート製トラフを一つずつ溝に置いてゆく作業だけは、なぜか手作業だった。最初は一輪車で運びながら8人くらいが搬入しては、順番に置いて並べていったが、徐々に人数が減って来て、私と3人の先輩だけが残って設置作業をこなしていった。10個運んで並べても、たったの5メートルしかならないので、30メートルくらいから作業員が1人去り、2人去り、重労働から上手に逃げるように、ケーブル埋設用のドラムや電気装置系統の仕事の方へ着手し始めていた。私の体はすでに悲鳴を上げていて、腰が砕けそうになっていた。
およそ60メートルくらい進んだところで私が後ろを振り向くと、怪力の中山先輩が両肩にトラフを1個ずつ載せてこっちへ向かって歩いていた。私と中山先輩だけがこのトラフ搬入設置作業をしていて、他には誰もいなかった。中山先輩は私のそばを通り過ぎて、先の方までトラフを持ち運んでいた。トラフは掘られた溝の盛土とは反対側の横に無造作に置かれて並んでいた。あと数十メートルで持ち運びだけは完了しそうだった。70メートルあたりで私はいきなりめまいを起こし、持ち抱えたトラフと共に体ごと前のめりになって土の溝に落ちてしまった。
そこからの記憶はなく、ただ軟らかい土の匂いと、汗まみれになっている体の汗の滴が目の中に入り、何も見えなくなっていった。土は次第に冷たく感じるようになり、意識は完全に薄れてしまった。
しばらくして、誰かが大きな声で叫んでいた。中山先輩の野太い声だった。
「こっちこっち。早く来てくれ!」
「意識はありますか?」と救急隊員に訊かれ、中山先輩は、
「動かさないほうが、いいんですよね? 意識はないみたいですけど、心臓は動いてます。脈もありますから。ボクがそろっとトラフを持ち上げてますので、ゆっくりと引っ張り出してください」と二人の隊員に言うと、隊員二人は私の体を土の中から引きずり出して、ストレッチャーのタンカに乗せた。
「おい、杉崎。しっかりしろ!」と中山先輩が叫んでいた。タンカに運ばれてゆく私のまわりには作業員たち全員が取り囲んでいた。再び意識を失った私は、漆黒の闇のなかにいるような深い眠りに陥っていった。
翌日に目が覚めると、私は労災病院の病室にいた。
「杉崎くん。どうだい? ボクのこと、わかる?」と中山先輩が訊いたので、
「はい。先輩、わかります」と私は答えた。
中山先輩はベッドの上に置いてある押釦スイッチを押すと、すぐに若い女性看護師がやって来た。
「どうですか、杉崎さん。気が付かれました? ちょっと脈、診てみますね」と言ってから、
「手の具合はどうですか?」と看護師に訊かれて、
「えっ、手ですか?」と私は左手の中指あたりに違和感を感じて左手を毛布から出すと、何かズキっと痛みを覚えた。手に包帯が巻いてあり、真ん中の指あたりに添え木のようなものが固定されていて、左手全体が負傷しているようだった。
「中指だけ骨折してますけど、他は大丈夫でしたよ」と笑いながら看護師が言った。
「杉崎。お前の左手、血だらけだったぞ。発見した時、指がみんなグチャグチャに見えてさ、ボク、こわかったよ」と怪力で大男の先輩には似合わない言葉だったので、私は思わず笑みを浮かべた。明眸皓歯の看護師も白い歯並を見せて、まるで一輪の花のように笑っていた。
念のために頭のCTも勧められたが、私は拒んでその翌日には退院し、自宅に一旦戻った。中指の骨折が治るまでひと月かかり、一ヶ月ほど休業して再び鉄道保全の仕事は左手の指を庇いながら続けた。あの駅のATSの埋設工事はとっくに終わっていて、また別の区間で新たに始まるようになっていたが、私は別の作業に就くことになった。
中山先輩は身長が190センチもあり、体重は100キロを超える大柄の体形をしていたので、鉄道保全のような力仕事にはうってつけだったかもしれない。義務教育の中学をまともに卒業できずに、家の事情で行方を晦ましてしまっていた先輩だったが、森のなかに自分で小屋を作って生活をしていたというから、先輩の話がいったいどこまで本当の話なのか判らないが、シュレックじゃあるまいし、半信半疑ではあるものの、そんな彼を見つけた電設工事会社の辻野社長は彼を不愍に思ってか、今の仕事を彼に与え、アパートの世話もしてくれた経緯はやはり美談に思えた。
そんな中山先輩が、ある日のこと、私に小さな声で「家庭って、どういうものなんだ」と訊いて来たことがある。
「家に庭があれば、それは家庭なのかい?」と先輩が真面目に訊くので、
「少し違いますね。アパート暮らしでも家庭はありますから」と私は言った。
「社長がね、中山、お前も家庭を持て、ってボクに言うんだ」
「それはいい話じゃないですか、先輩」と私が言うと、
「ボクは部屋にどうやって庭を持てばいいのか、わからないんだ。盆栽を置けばいいのかなあ」と先輩は困った表情で言うので、
「そうじゃなくて、身を固めなさいって、ことですよ」と私は言った。
「じゃあ、こうやって、歯を食いしばり、力を込めて、あぐらするんだね」
「ははははっ。冗談がきついですよ、先輩」
「じゃあ、もっと腕に力を入れるのかい?」
「身を固めるっていう意味は、早く結婚しなさい、って言われてるんですよ」
「け、結婚? 社長夫婦みたいに?」
「そうですよ。先輩もいい歳ですからね。いま30歳くらいですか?」
「わかんない。社長が知ってると思うんだ」
「えっ。自分の年齢をマジで知らないんですか?」
「うう~ん。知らない。でも、ボク、自分の名前と生年月日は言えるよ」
「なんだ、知ってるじゃないですか。生年月日はいつです?」
「天保九年四月六日、名は中山弥多兵衛、薩摩藩士でごわす」
「えっ。江戸時代の生まれだったんですか。そんなワケないでしょ、先輩。それじゃあ、とっくに100歳超えてるじやないですか。いや、もっと行ってます。150歳は超えてますよ」
「ボク、150歳なのかい? 夢ヶ鼻の大桜が樹齢150年くらいって言ってたから、あの大名桜とおんなじ年齢だね。来年の春になったら、夢ヶ鼻の花見に行こうかな。杉崎くんも行こうよ」
「いいですね。あそこの花見は樹木の形が末広がりに見えて、とてもいいですよね。行きましょう行きましょう」と私は話が逸れてしまったが、150歳の中山先輩と話すと不思議なほど楽しくなるのだった。中山先輩の性格なら、きっと良い家庭が持てると思った。どういう女性とめぐり会うのかも興味が湧いた。頭が少し変ではあるが、性格がとても優しいので幸せな家族が築けそうだった。その上、力持ちで仕事をとても大事にしている中山先輩こと中山弥多兵衛の男気には、実に魅力があふれているといえる。
同じ釜の飯を食った中山先輩が、それから二年後、なんと労災病院で私が世話になった看護師さんと結婚に至ったとは、正直びっくりした。先輩の猛アタックで交際が始まったようで、あれほどの美人でありながら独身で彼氏いない歴がずっと続いていたとは、これにもおどろいた。まともに恋愛もできないと言っていた看護師さんの看護職は、私のような凡人とは違って想像を絶する忙しさなのだろう。それにしても、中山先輩が意外と手が早いのにもおどろかされた。そして、その新婚の先輩から「家庭はいいぞ。杉崎も早く家庭を持つといいな」と言われて、28歳の私はまったく恐れ入ってしまった。(完)
トラフ 古川卓也 @furukawa-ele
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