もういいよ

「う……あ、あぁああァッ!」


 気付くと僕は獣みたいに声を上げながら、鉄パイプを振りかざして男に襲いかかっていた。それは男の頭に直撃すると、半ばからぽっきり折れて地面に転がる。僕の剣は、とっくに錆びて朽ちていた。


「なんだよ。痛いじゃないか、ゆうくん」


 そう言いながら男は、ゆらりと僕に体当たりしてきた。よろけて尻もちをついた僕を、見下ろしてあのときみたいにいやらしく笑う。その手には、刃の赤いナイフが握られていた。


「……あ……」


 脇腹の辺りに、生ぬるいなにかの液体が溢れる感触。同時に激しい痛みが襲ってきて、確かめようと触れた手のひらは、ナイフと同じ赤に染まっていた。


「もう、いい、かい」


 意識が朦朧としていく中で、ひなのちゃんの声だけがはっきりと聞こえた。


 ──ああ、そうか。これが僕の罰か。


「もう、いいよ……ひなのちゃん……」


 僕のその言葉を合図に、男の背後のひなのちゃんがゆっくりとこちらを振り向く。そのスローモーションのような動きに伴って、彼女の小さな体はむくむくと大きくなっていく。愛らしい少女の見た目のままで、彼女は見上げるほどの巨体になっていた。


「みーつけた」


 大きすぎて顔はよく見えなかったけど、そう言った口元は楽しそうに笑ってくれていたから、僕も嬉しくなった。笑い返したかったけど、上手くできていたかは自分でもわからない。


「あ? 何を──」


 声と気配に振り向いたパーカー男の顔面を、大きな右手でむんずと掴んだ彼女は、そのまま、熟れたトマトみたいにグチャリと握り潰していた。


 ──そこで、僕の意識は途絶えた。


 目覚めると、病院のベッドだった。傍らから、知った顔の看護士さんが覗き込んでくる。彼女は市内の総合病院に勤務している僕の叔母さん。母の妹にあたるひとだ。


「ねえさんたち、もうすぐ来るはず」 


 外は、もう真っ暗だった。


 話によれば、例の男は十年前の件だけじゃなく、幾つかの事件の重要参考人として手配されながらも、ずっと逃れ続けていたそうだ。

 倒壊してきた機械の下敷きで顔を半分潰された男は、奇跡的に即死を免れてしばらく生きつづけ、苦しみぬいて死んだという。


 奇跡的と言えば僕の方も、あと少しでも応急処置が遅れたら命が危うかったらしい。


「たまたま通りかかったひとが救急車を呼んでくれたから、助かったんだよ」

「……あんなとこで?」


 叔母さんの言葉に違和感を覚える。あの路地を通る人なんかめったに居ないはずだ。──そもそも、こんな僕を助けなくて良かったのに、という気持ちもある。


「それが不思議な話でね、あんたと同じ年ぐらいの女の子が、路地の入口から必死に『たすけて!』って叫んでたんだって」

「え……」

「その子を追いかけてあんたを見つけたみたい。でも、その子はいつの間にか居なくなっちゃったらしいの。探して、お礼しなくちゃね」


 胸が、ざわつく。


「近所の子で心当たりないの? 黄色いワンピースに三つ編みの似合う、すごく可愛い子だったみたいよ」


 そのとき、どこか遠くから女の子の声が聞こえた。いつもより、すこしだけ大人びた声が。



「ゆうくん。もう、いいよ」



 ──僕は、声をあげて泣いた。

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