まあだだよ

 あれから十年。

 犯人は、いまだ捕まっていない。重要参考人として浮かび上がった男は、行方をくらましてそれきりだった。


 そうして僕の耳には、あの日から彼女の「もういいかい」が幻聴のようにこびりついて離れないんだ。それはふとした時、どこからともなく耳に這い入って、僕の心臓を冷たくきゅっと締めあげる。


 でも、僕はそれに一度も答えることはできなかった。「もういいよ」と口にしたら、どうなるんだろう。ひなのちゃんが、あの世から僕をつかまえにやって来るんじゃないか。


 そんな考えに取り憑かれ、どうしても恐ろしくてその言葉を口に出すことはできなかった。


「もういい、かい」


 また、聞こえた。ただ、今日のそれはいつもと何かが違っていた。学校で補講を受けている間じゅう、断続的にずっと聞こえ続けていたから。

 しかも、友人と別れ家路をひとり歩くうちにそれはすこしずつ明瞭さを増して、例の裏路地の入り口前を通りかかるころには、はっきりと僕の鼓膜を揺さぶっていた。


 あの日以来、僕はいちどもその道に足を踏み入れたことはない。それどころか、前を通るときは必ず下を向いて、路地の奥、工場跡の方だけは絶対に見ないようにしていた。


 ──だけど。


「もういぃ、かい」


 これまでで一番はっきり聞こえた。僕の足はそこ──路地の入口の前で、止まってしまった。


「もぉいぃ……かぁい……」


 それは間違いなく、道の奥から聞こえていた。僕は、恐怖なのか好奇心なのか罪悪感なのか、もうよくわからないぐちゃぐちゃの感情に突き動かされて、足元に落としていた視線をゆっくりと、そちらの方に向けていった。


 路地のひび割れたアスファルトからは、ところどころ雑草が伸びている。事件のせいもあって、その細い道沿いには空き地と廃屋しかない。真昼なのになぜだかうす暗く見えるその道の先、そうちょうどあの工場の裏あたり。


 ──そこに、入っていく人影が見えた。


 背の高いパーカー姿と、そいつに手を引かれた小さな女の子。一瞬でよく見えなかったけれど、少女の背には三編みが揺れていた気もする。


 あいつだ。あの男だ。間違いないと僕のあの日の記憶が叫んでいた。


 警察に連絡しなくちゃと取り出したスマホは、震える手から転げ落ちて、側溝の格子蓋の隙間に吸い込まれていった。周りに人通りはないし、下手に騒いで刺激してしまうのもまずい気がする。急がなきゃいけないのに、どうする、どうする、どうする。


 瞬間、脳裏にあの日の、天を見上げたまま動かないひなのちゃんの姿が浮かぶ。──駄目だ! それは絶対に繰り返させない!


 次の瞬間。僕は工場跡に向かって、裏路地に飛び込んでいた。



 ──工場跡の敷地は、「立入禁止」の札をぶら下げた有刺鉄線が張られていた。事件の後に追加されたものだろうけど、それはとっくに錆びてちぎれて意味をなしていない。



 僕は、足元に転がっていた細い鉄パイプを拾い上げる。昔、よく剣に見立てて振り回していたものだ。


「もういーかい」


 声を頼りに奥へ進むと、すぐに男の後ろ姿が見えた。ちょうどあの日、僕が隠れ場所から見たのと同じあたりだ。そしてゆっくり近付いていくと、男の向こうには、工場の外壁に顔を伏せている小さな女の子の背中が見えてきた。


「もういいかーい」


 言っていたのは彼女だった。黄色いワンピースと、三つ編みの。


「──ひなのちゃん」


 驚きのあまり、思わず声が漏れた。それを聞いて振り返る男。


「なんだ、おまえか」


 パーカーのフードで顔はよく見えない。ただ口元を奇妙にゆがめて、男は言った。


「あーなんだっけな、たしか……そうだ、ゆうくんだ。大きくなったな? また、見せて欲しいのか」


 なにをいってるんだこいつは。こいつは、なにを、いって、るんだ。


 …………。


 ああ、そうだった。思い出した。あの日の僕は、ずっと見ていたんだ。


 こいつがひなのちゃんにした酷いことの一部始終を、隠れ場所から顔だけ出して僕は見ていた。こいつはその視線に気付いていたけど、ひなのちゃんがどんなに僕の名を呼んでも、僕はただ見ているだけだったから、そのままいやらしく笑いながらそれを続けた。


 やがてひなのちゃんは何も言わなくなって──そして、こいつは立ち去って行った。


 でも僕は、そのことを誰にも話せなかった。怖くて、後ろめたくて、自分が許せなくて、いつしか自分自身を守るために、記憶まで都合よく書き換えてしまっていた。


 ──僕はあの夏の日からずっと、隠れたままだった。

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