鳥は私を嫌っている

 緑深い森を抜けると、そこは異世界だった。

 冷たく抜かるんだ地面には電柱が斜めに突き刺さり、なだらかな丘には鳥居がただ一つ置き去りにされている。ここまでずっと私を覆い隠していた森もパツンと途切れて、まるで人の手が入っているように均等な草が並ぶ原っぱだけが視界一杯に広がっていた。

 足元を流れる小川を踏みつけ、私は原っぱへと踏み入る。濡れぬよう手に持っていた靴下とローファーにようやく足を通し、紺のスカートを翻す。

 五段ほど積み重なった入道雲の手前から、やけに甲高い鳥の鳴き声が聞こえてくる。それは鳶よりも鋭く、糸を張ったような耳に優しくない音だった。まるで人間を拒絶するようなその鳴き声に私は惹かれて歩を進めてしまう。


 今日、私の身に起きた、タンスの中に森が広がるという『ナルニア国物語』のような導入は私の心を高ぶらせた。着替えることも忘れ、制服のまま深い森の中を踏破してしまうほどには私の頭から冷静という言葉を奪っていた。どこかで、このようなことが起きることをずっと待っていた気すらしている。

 そういえば明日提出の課題をまだやっていないとか。今日は私が夕食の当番だったとか。お父さんはまたお酒を飲んで帰ってくるんだろうとか。お母さんの不倫相手がまだ家にいるとか。弟は明日からフリースクールに通い始めるんだとか。

 私の肩を引っ張っていた縄がすべて千切れた感覚だった。

 それはたとえ私を拒絶する鳥が跋扈する場所だったとしても。


 鳥居には、鳥居しかなかった。本来存在するべき社殿は、その形跡すら存在しなかった。これは何の入り口なのだろう。試しに潜ってみても、何も起こらない。この鳥居がここにある意味は特別何もないのだろう。私は自由の鳥居と名付けてみた。

 私は丘の向こう側、森からは見えなかった場所へと下りてきた。そこには変わらず電線をくらげのように揺蕩わせた電柱が地面に突き刺さっている。そしてその中に一つだけ、電話ボックスが建っていた。今日日見ることの少ない公衆電話というやつだ。

 お金は持ってきていない。カードの差込口があるが、たぶん私は使えるカードは持っていないだろう。試しに受話器を手に取る。

「一言、ください」

 抑揚のない言葉が流れた。その声には肉感があり、自動音声という感じはしなかった。しかし、「誰ですか?」と問いかけても「一言、ください」としか返ってこなかった。

 一言、何を言おうかと私は思案する。一言というからにはそう長く語ってはいけないのだろう。短く、意味のある言葉。言葉に好きも嫌いもない私は何を口にするべきか悩んでしまう。座右の銘でも持っていればよかっただろうか。

 悩みに悩んで、ようやく一つ思いついた。

「……私、たぶん幸せでした」

 私がそういうと、電話はプツンと切れる。

 これが公衆電話か、と私は思った。

 受話器を戻し、電話ボックスを出る。電柱たちの向こうに目をやれば、おもちゃの工場のようなファンシーな建物が見える。

 次はそこへ向かってみよう。

 空では鳥が、私を拒絶する。

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テキトウ @3sugi

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