第3話

 老父だったものはカレンダーを確認し、自分が一体いつのどこにいるのかその判断を下す。いささか信じられないのか自分の頬をつねり自身に痛みを与える。その痛みに喜びを感じてしまうのは、彼自身がそれほどまでにこの日に戻りたいと願い続けていたためであろう。

「行こう」

 時間を腕時計で確かめた彼はそう小さくつぶやくと自分の荷物も取ることを忘れ、妻の入院している病院へと歩を向けた。財布すらも忘れていたことに気がついたのは、タクシーに乗り込み運転手に病院の住所を伝えた後だった。

 「やばいな」そう呟いたのを聞いていたのか、運転手は「大丈夫ですよ。お代は結構です」と言う。思わず「どうして」と問うが、運転手は返答しないどころか「今日はいい天気ですね」となんとも素っ頓狂なことをいい始める。会話が成り立たないと感じた彼は、そうかこれは夢だった。と改めて今の状況を把握する。確かに、周りを見渡しても車通りも通常よりもだいぶ少なく、街を歩く人影など一つもない。ほっと一息吐いた彼は緊張から少しばかり解放された様子で、吊り上がっていた肩は少しばかりさがっていた。

運転手は彼が一息つくのを待って「お急ぎなんですか?」とゆったりとした口調で問う。

「ええ、今日が最後になる日なので」と少し冗談めいた返事をすると、運転手も「不思議な返事をするのですね」とおちゃらける。

「行先が病院ですから理由は伺わずとも察することが出来ますが、どうしてそのように悲しまれているのですか? ご自身がお分かりかどうかはわかりかねますが、目元をひどく腫らしていらっしゃる」

 本当ですか?と慌てて目元をシャツの袖で拭うのだが、その様子がどうも可笑しかったようで運転手は声を上げて笑い出した。

「そんな硬い物で目を殴っていては目を余計に腫らしてしまいますよ。座席の下に化粧ポーチがございます。私の私物で申し訳ないのですが小綺麗にされてはいかがですか? ……最後の時間になるのでしょう?」

 運転手のその静かな優しさに胸を打たれ、せっかく落ち着いた顔をまた歪めてしまいそうになる。

 自身の涙脆さを少しばかり呪うべきかと考え「若い時はこんなんじゃ無かったのにな」そう声を漏らした。

運転手は「まだお若いじゃないですか」と笑いながら言うが、彼にはそれが冗談だろうと思ってしまい「90が見え始めている年齢ですよ」と正直に答えてしまう。

「悲しい冗談を言うのですね」そう優しか放たれた言葉に、彼は心を拭ってもらう感情を覚えた。

「卑屈なのは治らなかったんだ」そんなことを運転手は呟くが、彼は勘付かず「なにか?」と聞くも「なにも」と返されるだけで終わってしまう。

少しばかりの沈黙を挟み、運転手からは「コーヒーはお飲みになれるようになりましたか?」と問われ、彼はコーヒーのサービスまでしてくれるのかと思い「有難いが、昔からコーヒーだけは苦手でね飲めないんだよ」と笑って返す。

運転手はあははと声を上げて笑い出し

「そうですか。それは失礼しました」

「そんなに面白いですか?」

 怪訝そうにそう問いかける。

「いえいえ、そんなことはありません。ただ、私の大切に思っている人も苦手だったもので」

「奥さんですか?」

「いいえ、ただの阿呆ですよ」

そして、目的が近いですよとカーナビの音声が車内に響く。

「準備は大丈夫ですか?」

運転手の問いに、彼は答えられなかった。何を準備する必要があろうか。手荷物もない、服もそう着込んでいない。気持ちとて久々に妻に会えるという高揚感のみで力んでまで心構えをする気にもなれない。何もしていない、何も考えていないのに準備も何もないだろうに。

 それでも、体は震えていた。

 老父を襲うのは、期待と不安だった。その二つは病院に近づくにつれて老父の体を震え上がらせる。

 カーナビの知らせる道順が鳴るたびに、ピクリと体が動く。

 車のタイヤが道路を進む音、風の音、エンジンがガソリンを蒸す音、そんな変哲もない音すら、彼にはその瞬間を伝えるアラームのように感じていた。

「到着しましたよ。長く感じたでしょう。さあ、お早く」

 そういうドライバーは、彼が財布から金銭を取り出そうとする手を静止し、優しく微笑んでみせた。

 そのドライバーからの好意にはどこかきみ悪さがあり、高揚している老夫が少しばかり言葉を詰まらせてしまうほどのものだった。それでも、そのドライバーには逆らってまで利用費のやり取りをしようとも思えず、まるでその動作をとることを台本に指示されているように「ありがとう」と答え、車から飛び出していく老夫。

 それから、病室までたどり着くまでの間に、老夫の足取りはいたく軽いものだった。 自身の昔の時代に戻っていることに気がついてから、これほどまでに足取りが軽かった事は初めてだろう。きっと、それまで様々なことを思い、様々なことを思い出しながら、それでも心を決めて、足を運んでいたがいざ、目の前に自分の欲していたものを目の前にして 今になって頭の中も素直になっていった証拠であろう。

 病室の番号やどこに自分の妻の席が割り当てられているのかを案内係やナースに聞くこともなく、自身の記憶を頼りに歩を進めていく。それは老夫にとって聞く必要もない項目であった。何度も何度もその病室へ走っていく様を夢に見て現実でそれが叶わなかった事は、せめて夢の中でも叶えたいと願い、夢に見て、夢を見ることすらできなくなってしまうこの年齢まで 思い返さなかった日は無いであろう。

 自身が息切れしていることさえも忘れ、 足が思うように動かなくなったことさえも気づかず、エレベーターがあることさえも気がつかず、階段を駆け上る。 妻が入院している部屋は8階建ての病院で7階に位置しており、それはいくら体が若返っている老夫であっても駆け上がっていくには容易ではなかった。

 そしてとうとう妻のいる部屋の前にたどり着いた。 荒くなった息を整え、くしゃくしゃになった身なりをさっと叩き、大きく息を吐いて自身の心も落ち着けることに努めた。

 再びふぅと息を吐き、ゆっくりとその扉の引き手に手をかけた。ローナ、トレールがこすれるガラガラとしたことが院内に響き渡る。そしてその部屋の奥に置かれているベッドに身を預けているその人は老父が幾度と無く会うことを望んでいたその人がいた。

「あら? どうしたの? そんなに息を切らして」老父に優しく問いかけるその女性は、体を起こす事はなく、ただ視線を病室の入り口へ向けたのみだった。

 その姿は夫である老父からすれば、記憶とかけ離れたその姿だ。その頬は痩せ、体はどこもかしこもうっすらと骨の形状が視認できるほど浮き上がっていた。それでも老父を見るの瞳と表情には、老父にとって、日常的に向けられたものであることには変わりなかった。

「痩せたね。すごく痩せた」頭をどんなことが巡っただろう。どんな言葉が巡っただろう。それを理解してあげる事はきっと他の誰かにはできず、彼の妻もその思いには気づけなかっただろう。

 彼女は小さく笑いながら「あなたは太ったよね」ひどく弱々しい声で冗談を言ってみせた。

 そうかな。と少し気恥ずかしそうに自身の段差を作っている。左の横っ腹をつまんで見せた。その手は、酷く震えていた。

 苦しいか? 辛いか? 体は大丈夫なのか? そうやって妻を労う言葉をどうしても口を割って出てこない。それは愛していないからではなく、愛しているからこそ言葉にすることができないのだ。それはプライドからくる気恥ずかしさもあれば、この何年間も後悔していたその感情がジワリジワリと湧き出てきているからこそ、言葉を次第に紡ぐことが出来ない。

 話したいことなど山ほどあった。伝えたい言葉など表現出来ないほどにあった。それでも彼の口からは愛想笑いしか出てこないのだ。

 生まれて初めて心から想いを伝えたいと、そう願った。告白の言葉や、プロポーズの言葉を伝えるときには、こんな思いは一切なかった。伝えるだけではない、言葉にするだけではない。相手に受け止めて欲しいのだ。

 男が気がつかないうちに、自身の目から涙を流していることを女が逃すわけがなかった。

 何泣いてるの?そうやって笑い飛ばそうとしても、彼の目から涙が溢れ止まる様子などなかった。

「もう少し早くにそれくらい見せてくれてたら、良かったのに」

 そんな事を男に聞こえないように小さな声で呟いた妻は、自身が泣きそうなのを悟られないよう笑って、「泣くなよ」と男の事を茶化した。

 ごめんと男は震えた声で応じるが、泣き止むことはない。

 静かな時間がゆっくりとゆっくりと過ぎていく。

 

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幻夢 ユタ @yuutakn

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