第2話

 目を覚まそうとした時、老父はある違和感に気がついた。いつから感じていたかもわからなくなるほどの長い付き合いだった腰痛や関節痛などの多くの痛みが全く感じられない。ゆっくりと体を起こし、自分の体がどうなっているのかをペタペタと触りながら確認していく。体が軽くなったと感じていたが、若い頃よりは流石にガタが来ているように感じるが、それでも老人となった今から考えてみれば十二分に軽い。

 そして老父は、ここが夢の世界であると認識した。

「そうか。願いはこれだったか」そうつぶやく老父は、今から何十年と前の日付を指し示すカレンダーを見つめていた。その日付は老父にとって忘れもしない日だった。

 仕事では念願の企画が通り、まるで希望に満ち溢れている新入社員のように毎日目を輝かせながらひたすらに日々の業務をこなしていく日々。残業時間がいくら伸びようが気にもとめず、自分の企画が成功に終わることを夢に見て文字通り朝から晩まで会社に残っていたあの日々。生活がどれだけ荒れようが、家族との距離がどれほど離れようが、自分の大型企画さえ成功すれば一気に状況を好転させる事ができるとそう信じて疑いもしなかった。

 そんな日々に戻りたいとどうして自分が願っていたのか、それは今更ながら次第に理解していった。ボロボロになったスーツを身にまとい会社の仮眠室で目を覚ました老父は、枕がわりに丸めて使っていたスーツの背広を拾うことすら忘れ、大慌てで会社を飛び出していった。

 若くなったとはいえ40を過ぎた体にはたった数十メートルすら全力では走れない。それは日々の疲労が積み重なった賜物でもあり、走行距離は俄然少ない。なぜ寝起きであるのにこんなにも急ぐのだろう、そんな考えを持ち始めるのは老父が目的の場所へと足を踏み入れた時からで、今の走り続けている老父にはそんな小さいことなど考える余裕すらなかった。

 老父は、うまく歯車が回っていると信じていた。でも、この日。夢と分かっていても焦る必要性をはっきりと思いせる出来事が老父にはあった。

 老父の信じていた歯車が今日、老父の気がつくよりも前に崩れ去った。それは、最愛の妻が病死した事がきっかけだった。仕事で必死になっている間に、妻は倒れそのまま流れるように帰らぬ人となってしまった。老父がその事実を知った時には、もう生きている間に最後の別れを行うことはとうに出来なくなってからのことだった。

 老父はこのことを今の今まで忘れたことも思い返さなかったこともない。しかし、周りが落ち込むことを許してはくれなかった。妻の葬儀の段取りから始まり、子供の養育費などの世話、日常生活を一人で送るわけでないからこそ降りかかる日常の家事。そして、たった一人で立ち上げた会社の企画のまとめ。

 それなりに年を重ねていたがために、長くは続かなかった。壊れていくのは体だけではない、家族の関係性や、会社での立場、そして、己自身の心。

 壊れてからは、何もかも全てを巻き込んでいき、気がついた時には彼の周りには荒野のみしか残らなかった。

 その崩落の始まりに老父は戻された。あの恨みに恨んだその1日に、戻されたのだ。

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