幻夢
ユタ
第1話
この町には、みんなが噂している店がある。
その店は、人知れず、ひっそりと営業している。栄えているわけでもなく、全く売り上げているわけでもなく、ひっそりと少ない売り上げであるにもかかわらず。
何を売り、何を生業にしているのか定かではないが、人の危害になり得るようなものではなく、むしろ客にとって涙を流しながら感謝の弁を述べながら帰っていく。そんな店らしい。らしいと言うのは、噂程度でしかなく、確定的に言える情報はこの街の中にあると言う部分のみで、客として訪れたものを特定する事さえできておらず、決まって噂しているのは小中学生の子供たちだけで、大人になるとそんな噂話を本気にするような住人はいないのだ。噂が途切れることも過度に広まることもなく、ただの噂話として子供達に楽しまれているだけのそんな小さな話である。
地元の不動産屋と駄菓子屋の間に2mばかり開いた道の奥、裏路地に入ると少し和風めいた建物が一軒立っている民家のようにも見えるその建物こそが噂の元となっている店である。
そんな噂されている店は名前を「夢屋」と名付けられており、主に出入りしているのは二人である。一人は八雲正人。もう一人は霊堂蓮の二人である。店の奥でゆったりとソファに座り、煎れたてのコーヒーを飲みながら大きくあくびをかくのが霊堂蓮である。そして、店の前を箒で清掃しているのが八雲正人である。
朝早くから店の前をいつものように清掃している八雲は、この店の受付のような役割を担っている。しかし、月に一人来るか来ないかの客入りの店であり、その店の存在も噂程度で止まってしまうほど認知度が低いため、彼が受付としての職務を全うすることは基本ない。
そしていつもの客の来ない日常とは違って、店に向かって歩む老父の姿が一人いた。「やあ、どうも」と、八雲に声をかけた老父は優しい面持ちで軽く会釈をした。八雲も合わせて会釈を返し「どうされましたか?」と言葉を返す。
「ここのお店のことを聞いてね。一つお伺いしたいと思ったんだ」
老父のその言葉に、八雲は笑顔を見せ「大丈夫ですよ。ご案内いたします」と答え、箒を玄関口の脇に立てかけ扉を開けながら老父へ屋内へ入るよう促した。
老父は足を自由には動かせるような様子ではなく、引きずるようにして歩みを進めていた。八雲はそんな老父の肩を支えようと手を差し伸べるが「気にしないでくれ、一人で歩く方が楽なんだ」と老父に言われ、老父が倒れてもすぐに支えられるよう近くを歩くに留まった。
八雲は老父を室内奥に置かれているソファへと案内し、霊堂の反対側に置かれているソファにゆったりとした動きで老父は腰をおろし、霊堂にどうもと軽く挨拶をする。
「歳をとると歩くのも座るのも辛いもんだね」
静かな雰囲気を少しでも和らげようと老父は渾身の冗談を放つ。八雲はやんわりとそうですねと同意をして返すが、霊堂は大きなあくびをひとつするだけで言葉を返すことはなかった。八雲はそんな霊堂の態度を「ごめんなさい、いつもこんな感じなんです」と柔らかく擁護する。そのまま、老父の眼前にお茶を注いだ陶器コップを「どうぞ」の声と共に置き、老父はそれに「ありがとう」と言葉を返しのんびりとした様子で一口嗜む。
「最近はダメになってしまったよ。緑茶しか飲めなくなってしまってね。若い時には酒だ、なんだと溺れるほど飲んだものだが、今となっては一杯のお茶で腹が膨れてしまう」
「まぁ、それだけ老いぼれればしょうがないのかもな」と霊堂は茶化し、八雲は居た堪れないと引き攣った笑いをあげる。霊堂がどんな人間に対しても同じように失礼な態度を取ることを理解している八雲は彼に正すように諭すことすら諦め、いつからか自分に火の粉が飛び散らぬように取り繕うようになっていた。
この老父にとって、その冗談を「そうだね」と間に受けたような態度を示した為に、霊堂は少し申し訳なさそうな表情を一瞬見せるも、すぐに調子を取り戻し言葉を返す。
「ここに来れる客は全員が噂を全て知ってからのことだと思って対応している。あんたはどうだ?」
霊堂の問いに、老父はしばらく返答をしなかった。ここまで保ってきた笑顔がじわりじわりと崩れ始め、ゆっくりとその目尻は下がりだす。ゆっくりと言葉を探し、ゆっくりと沈黙を破ろうとする。
霊堂達は言葉を探している様子になんら反応する事なく、ただその答えを示される事を待っていた。
老父はゆっくりと言葉を絞り出す。
「今度子供が結婚するといっていてね。お祝いに結婚式でもと息混んではいるんだが、男手一つで育ててきたからあまり蓄えがなくてね。その時にこの店のことを聞いたんだ」
老父の手は静かに震えていた。細かく揺れるお茶の水面が落ち着くことはなく、老父の落ち着きが得られるまで時間を要することを指し示していた。
先述した通り、この店は少し不思議な商いをしている。決して人の役に立つことはないだろう。彼らの商いが公にならない理由の一つは、取り扱うものが「物」でないから言葉に表しずらいのだ。
彼らが取引するものは「夢」だ。夢を客から買い取り値段をつけることをしている。将来に対する希望なのか、後悔からくる過去への思いか。その形はなんであれ、その人物が自分を保つために持っているほどの大きな希望や願望を買い取り現金へと変える。当然取引に用いられたそれは2度と思い出すことはない。それは一つのリスクが伴っているといっても良いのかもしれない。人生での潜在的に願っていたことがなくなってしまうと自分自身を保つことができないのではないかと、そう危惧した人はこの店の存在を知っていても利用することはなかった。
自分を保つことができなくなるかもしれない。そんな不安を背負ってでも老父にとっては「子供の結婚式」という行事が大きな存在であるのだろう。老父が二人に聞かせる話のほとんどは子供に関するような話題ばかりで、それほど愛している存在なのだと感じることは容易であった。それでも笑顔でこの場を取り繕うとするのは彼の気性からなるもので、無理をしているのは簡単に掴めてしまう。
「さて、そろそろ覚悟、できた?」
そういう霊堂の表情には笑顔は消え、老父をただまっすぐに見つめていた。じっと老父を見つめるその表情はどこか楽しそうで、どこか寂しそうでもあった。真顔とも取れる。哀しんでいるとも取れる。深読みをしようとすれば幾つでも可能であろう表情は、簡単に老父の表情から笑顔を奪い去ってしまう。
「ありがとう。いつでも大丈夫だよ」と今でも消え去ってしまいそうなか細い声で老父は答える。その声に「わかった」と寂しそうに答える霊堂は、そっと老父へ手を伸ばし老父へ握手を求める。老父がそれに答えるように握手に応じた瞬間ゆっくりと老父は眠りについたのか体を脱力させ、ゆったりと体をソファへと預けた。次第に深い寝息を漏らすようになった。霊堂もまたゆったりと体をソファへと預け、どこか楽しそうな表情を浮かべたまま眠りについた。
「いってらっしゃい」と小さくつぶやいた八雲は、二人にブランケットをかけ事務所の掃除を再開させた。彼にとっての仕事の大半は暇を持て余している霊堂の話し相手か事務所周りを含めた掃除である。時に寂しさを感じることもある八雲ではあるが、事が済んだ霊堂から何を見てきたのかの話を聞く事が、何よりの楽しみになっていることもあり大きな不満には至っていない。
誰からも見られていないことをいいことに鼻歌や大きなあくびをしながらの掃除を続ける日常へと戻っていった。
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