第16話

 早坂雄一郎の失踪のニュースはアメリカで見た。アメリカは楽しかった。人を殺したばかりの異常な気分と、捜査の手が伸びたところでここでは捕まらないという安心感で、変な感じだった。私は酒を飲み、マリファナもちょっと吸い、他の国からの留学生の男の子とデートしてみた。どれもそれほど楽しくはなかった。勉強が一番楽しいと思った。はっきりとしているから。それでも、いつもいい気分だった。なんでもできるような気分でいた。アメリカでの私は誰にも何も知られていない小さな留学生で、それなのに、Twitterを開けば私のやったことで大騒ぎになっていた。くらくらする。

「早坂先生どうしたんですか?」

「ひょっこり出てきてくれることを疑っていません。」

「新しいトリックの取材ですか?」

 そういう空々しいツイートの裏にも、不安がざわめいているのを感じていた。明らかに、もう帰ってこないだろうと誰もが思っていた。合間合間に事務的な、警察署の電話番号が添えられた高齢な一行方不明者の情報をまとめたツイートが流れていた。面白いなー、と、本当にただただただただ無責任に、思った。みんな真面目で、混沌としている。私がアメリカで過ごす間に、ツイートは減っていった。みんな自分の日常が大切で、そんなに早坂雄一郎のことで神妙な顔してる余裕なんかないのだ。

 それでも誰かが思い出して「早坂先生…」とツイートしたり、「早坂雄一郎全作品レビュー」をこの期に及んで突然始めるやつがいたりして、そのたびにタイムラインに流れているドラマの感想やソシャゲのガチャ報告や新刊の考察がすっと止んで神妙な顔をする気配がした。そしてそろそろ、というタイミングで神妙な顔つきをやめて、日常に帰っていく。面白いなー。早坂雄一郎の不在と、それによる話題の中に、私の名前はほぼなかった。デビュー当時の審査員だったことが長めの記事でちらっと触れられる程度だ。安心した。誰も私とあのじじいを個人として結びつけていない。

 死体が見つかったらどうなるんだろう。

 怖くて同時に楽しみだった。今あの死体はどうなっているんだろう。虫に食い荒らされているだろうか。どのぐらい腐っているんだろうか。軽井沢は涼しかった。あそこでは、腐敗もゆっくり進むだろう。軽井沢の土のことを考えながら、アメリカにいるのはおかしかった。殺したことが本当なのか、わからなくなることもあった。凶器は見つかっただろうか。

 そうだ、と思いついて、私は感じの悪いと思っていた男子学生のスマートフォンを尻ポケットから抜いて、Twitter等のアカウントを何個か作って、私が突き飛ばした男子とその友人たちの実名で性犯罪者だと告発したりした。それほどリツイートもされなかったけれど、こういうものが残っているのが大事だなと思った。見たら怖がるだろう。アメリカに行ったらやろうと思っていたのだった。それが終わると履歴は消してスマートフォンはそのへんに放っておいた。見つかったのかは知らない。

 アメリカにいるとき、小説は書かなかった。もともと書く予定はなかった。それなりに忙しくしていたのもある。私は真面目に勉強し、それなりに遊び、自分の犯罪が露見しないかに没頭していた。自分が、人を殺したことがあるミステリ作家だと思うと、うっとりとした。誰かに言いふらしたいような気がしたし、その分すごい小説を書いてやろうとも思った。

「経験していないことが書けないなら、推理作家はみんな殺人経験があるのか?」

 Twitterで見かけた。言っているのは編集者で、何千リツイートされていた。こういう話はちょっとした語尾を変えて何回も何回も繰り返される。そのたびに私はその言葉自体の陳腐さ、すぐに使い古されてしまう中身のなさ、そして、欺瞞にうんざりとした。だいたい、推理小説は人を殺す手口やその実感についての小説じゃない、ということもある。だいたい、元刑事の書く警察小説とか医師の書く医療ミステリとか、お前ら大好きだろ。腹が立ってくる。十代の女の子が書いたミステリと、それなりの人生経験とやらを積んだ連中の書くものを、同じ目線では読まなかっただろ。

 私が人を殺したことを知ったら、今まで読んでなかったのに急に手に取る人間もいるだろう。そのことを、私はさほどおかしいとは思わない。自然な感情だと思う。私だってアン・ペリーの小説を読むとき、ああ、と思う。だいたい、品行方正なくそじじいども、お前らは「英雄たち」より面白い短編が書けるのか? 私も別にアン・ペリーの小説家としての資質に殺人経験が深く関わっているとは思わないけれど、でも殺していないよりは、殺したほうがいいだろう。そんなの当たり前のことだ。殺人という行為の是非は置いておいて、それはそうじゃないのか? 誰もいない真っ白い箱の中で過ごすやつに外にいるやつが普通に読んで違和感を覚えないような色々な小説が書けると本当に思うのか? お前が適当に楽しんでいる小説は、誰もいない真っ白い箱の中で過ごす人間の書く小説ほど切実か? 私は結局あまっちょろいロマンチストに過ぎないので、切実な心情から出た言葉であれば、妥当性がなくとも許してしまうだろう。

 結局のところ、何もかもが、その場の雰囲気で発せられる言葉に過ぎない。誰かを馬鹿にしたいとか、自分を正当化したいとか、でも悪者にはなりたくないとか、そういういい加減な、惰弱な欲望から生まれているだけだ。誰かに「え?」って顔されたらその瞬間に「いやそういう意味じゃなくて」って言い訳が始まるような、いい加減な欲望。

 私は、でも、真剣なのだ。真剣に、この世の全てを経験したかった。自分の尊厳を投げ出して、世間の倫理に背を向けても、言葉が通じる多くの人が知っていること知りたかったし、彼らが知らないことも知らなかった。私は真剣だった。真剣さになんの意味があるのかと嘲笑われたって、私は真剣に小説を愛していたし、真剣に小説を書きたかった。

 でももうわからなくなってしまった。

 早坂雄一郎はいなくなった。死んでしまった。私が殺した。大騒ぎだった。最初はいい気分だった。アメリカから帰って、自分の部屋の、いつものパソコンの前に向かって、書こうとした。アメリカに行く前に、急ぎの仕事は全部終わらせていた。連載もないし、エッセイや解説や書評の類もない。できたらください、という書下ろしの仕事、というか、漠然とした約束があるだけだった。何を書いてもいい。そういう依頼は好きだった。商業的な制約が嫌いなわけではない。だが好きに書いてもいい、というのは権力であって、私は、ただ権力が好きなのだ。書こうと思った。早坂に話したプロットは、本気で書くつもりでいた。今までとは違う、須藤鏡花の小説。一仕事負えたすっきりとした気持ちで、書き出そうとした。

 書けない。

 本当に、なんにも、書けなかった。そんなことは初めてだった。私はいつだって何かを書けた。とりあえず書いて、あとで直す。書きたいことは数えきれなかったし、生きているうちに書ききれる気もしなかった。

 でも、書けない。

 指が鈍るとか、文に冴えがないとか、そういうレベルではない。まったく書けなかった。虚構についての文字を、ひとつも打つことができない。思い浮かべようとしても、できない。何も書けない。書きたくもない。

 メモを読んだ。書きたいアイディア。メモしたときにはいつか書けるようになることが楽しみで仕方がなかったそれらも、全部、どうでもいい。そう思った。書いて何になる。

 技術が失われただけでなく、意欲がなくなっていた。私はかつて、小説を武器にして、世界に挑もうと思っていた。私の武器は言葉だけ。虚構の言葉を連ねて人の感情を動かすことで、世界を動かそう。そう夢見ていたし、それが、できると思っていた。手ごたえがあった。ゴールは遠くても、歩いていれば近づくことができる。

 人を殺したことで、私はその夢を失ってしまった。早坂雄一郎失踪の熱狂は、私のどの物語よりも強烈だった。

 世界を変えたいのなら、小説を書くよりも人を殺したほうがいい。

 気付いてしまった。身も蓋もない。小説とか言葉とか、そういうものは力のない人間の持ち物で、この社会では法を無視できるという精神は力で、だから、私は力を持っているのだ。私は小説を書くことができる。そして、人を殺すこともできる。じじい一人殺した程度で何が変わるのかと思うが、もっと、殺すことはできる。もっと世間を震撼させる方法で。できるのだ。

 もう何を書けばいいんだ?

 わからなくなった。きっと、お金に困ってでもいたら話は別かもしれないが、書かなくたってもう平気だった。無茶苦茶な投機に失敗でもしない限りは一生安楽に生きていける金がある。

 仕事の依頼は次々とやってきた。私は全部断った。私の仕事はそれまで書いたものの誤字の修正と、二次使用三次使用の許可とチェックだけになった。私が終わった作家だという評判を見た。そうなのかもしれない。新しく私の小説に出会った人の感想も見た。すごく面白いと。大好きだと。そうなんだ。ありがとう。終わったところで、書いたものがなくなるわけではない。作家として死んでも、誰かが読めば小説は息をする。そして、お金を生む。私はもう書けないかもしれない。それでも、私は自分を養えるほどの文章を、もう書いたのだ。自分が書いたものは、そんなには愛せない。それでも私は頑張っていた。夢はかなわなくとも、懸命だった。

 就職活動や院試に明け暮れる学生たちを横目に見つつ授業に真面目に出て、卒業論文を真面目に書いて、大学を卒業した。入学式が一人だったように、卒業式も一人だった。袴は履かなかった。成人式にも出ていないし、私は着物を着たことがない。鮮やかな花柄のドレスを着ていき、写真を撮った。少し鮮やかすぎるドレスを着た私は顔色が悪く、子供の幽霊みたいに見えた。写真を送ると両親は「おめでとう」とメールをくれた。彼らにとって、私はどういう娘なんだろう。考えると気が沈むので、一人でお酒を飲んだ。酔えもしないのに。

 日本では大麻が違法でよかったなと思った。マリファナがあったら吸っていたと思う。私は暇だった。暇で暇で仕方がなかった。ネットをして本を読んで映画を見て美術館に行って観劇をしてドラマを見て。誰にも会わずに一人でぼーっと暮らしていた。依頼は減っていった。もう書かない人だとみなされていることに苛立つ。でも人を殺したんだよ。そう思った。いい気分だった。荒んだ愉悦で、自分が荒めることにも喜びがあった。

 何か月かすれば暇にも飽きるだろうと思ったが、全然飽きなかった。いや、暇だと感じた時点で飽きていたのかもしれないけど、暇から脱却しようと思うほどには飽きなかった。本を読んで映画を見て美術館に行って観劇をしてドラマを見て。その合間にはネットを見てyoutubeを見て。あるものを消費するだけでも一人分の時間はすぐ尽きる。そんなふうに人の時間を奪い合っているのだと思うと、とんでもないことだと思った。そんなふうに時間を使っている私も、小説でさえ有名な作品に読んでいないものがある。「カラマーゾフ」も読んでいない。この間たまたま手に取った本がびっくりするほど自分向きだと思ったが、それは百五十年前に出版された海外文学だった。そんなに昔に生まれた、完璧に私向きの作品でさえなかなか意識に届かないのに、毎日毎日新しい小説がどんどん出てくる。出版社から発行されるものもあれば、個人で発表しているだけのものもある。後者のほうが前者よりずっと読まれていたりする。

 本は本当に無限にある。本だけでそうなのだ。私は文字というものの機能を初めて知った子供みたいに、その事実に眩暈がする。そこに私が書く意味。そんなことを考えだすとわけがわからなくなってくる。

 書くこと。それは営みなのだろう。これまで本当に数えきれない人間が生きてきて、それでも人生が足りたということにはならない。足りるとか、そういう尺度で計ることではない。ただ生きていて、書く必要があって書き、そこに「今あえてこれを書く意味」なんてものは必要ないのだろう。そういうこともわかる。私もそういうふうに書いていた。依頼があり、求められるから書いた。この世にどれほどの作品があっても、今生み出される小説を必要とする人間はいくらでもいる。この時代に息をする作品は必要とされている。少なくとも今は。

 でも、私はそんなふうに書くことへの動機のなさを、自分に許せなくなった。人を殺してしまったのだ。殺すことが正しいと思った。それでも、私が書く人間ではなかったら、おそらく殺すところまではいかなかった。生きている価値のない人間だったけれど、なんというのか、人格とは関係なく、命と言うものは重かった。物理的な意味だけでも、殺すことは大変だった。軽井沢は遠く、灰皿は重かったし、死体はもっと重かった。そこまでやったのだから、意味がほしい。そこまでやるほどの、意味なんか、私の小説には、ない。見いだせない。そのことにも失望していた。書き始めたらきっと、もっと明確に向き合うことになる。

 ぼんやりと過ごしていると、LINEが届いた。大学の友人、というか、知人だ。グループではなく個人からメッセージが来ることは珍しい。「これ知ってる?」と、ニュースの記事がリンクされていた。開くと、懐かしい名前があった。すっかり忘れていた。大学時代の彼だった。強制性交罪。女子大生に酒を飲ませて無理に行為に及んだ。私は「知らなかった」と送って、「ありがとう」と送りかけて、やめた。思い入れを見せたくない。

 ニュースと自分の名前で検索して、結びつける情報がないことに安心した。このニュースが大きくなれば変わってくるのかもしれないが、ありふれた話なので、大したことにはならなかった。ありふれた話だった。アメリカで投稿しておいた告発ツイートが掘り出されて「これ信憑性あるな」と引用されていた。よかった。いいことをしたな。捕まってよかった。そのあと、被害者のことを考えて、落ち込んだ。もっとやるべきことをやるべき手順でやっていれば、彼女が被害者になることもなかったんじゃないか。当然そんなもの嘘だ。傲慢に近い卑屈が生み出す嘘。でも実際のところ、現実にはそういう側面も、ある。倫理のない化け物がいて、こいつらにはどういう倫理も通用しないので、社会を維持するためには化け物以外の人間が対処しなくてはいけない。畑を荒らされないよう守るために対処するのは人間のやるべきことだ。いや、相手は化け物ではないわけだ。むかつくな。むかつくが、被害者の女性に自分ができることがあったのではないかと思ってしまう。なんとなく、被害者支援の団体を探して、寄付をした。その瞬間すっとずっとざわついていたどこかが楽になった。どうして今までやらなかったのかがわからない。もう夜というか朝に近い時間だったけれど、欠伸をしながらインターネットで団体を調べて、いくつもいくつも寄付をした。シングルマザー支援。女子の学習支援。アダルトビデオの出演強要被害への支援。何も考えずに金をばらまいて、いつの間にか外は明るくなっていて、私は悲しくて悲しくて仕方がなかった。どうしてこんなにひどい目に遭う女の子が多いんだろう。そしてそんなふうに悲しむことも、この年にならなければできなかったように思う。私はもうそうそう踏みにじられる立場ではない。むしろ害する方だ。そして、哀しい女の子たちと私は、遠い。近くにいたら、ただ優しい気持ちにはなれない。踏みつぶされる人を近くで見たら、彼女たちがどんなふうに逃げようとしているかとか、どんな表情をしているかとか、そんなことが、きっと気になるのだ。せっかく助けてあげようと思ったのに、とか。その人たちだって好きで人に助けてもらわなくてはいけなくなるわけではないのに。わかっている。気にしたくなくても、気にしてしまう。そういうふうに育ってきたし、そういう価値観のもとに小説を書いてきた。だからお金を稼げた。そうやってようやく少しだけ優しくなった。優しくなるためには孤独が必要だった。私の周りにはもう誰もいない。そんなこと気にしない、と、言いたいのに、言えない。寂しかった。死ぬほどではなくても、寂しい。でも、誰とも一緒にいたくはない。

 ニュースの続報があったら聞きたいと思って、私はLINEをしてきた同級生と軽いやり取りを続けた。桐生北斗の名前が出た。探偵をやっているらしい。探偵? 声が出た。探偵って何。どうも駅とかにある看板の探偵事務所みたいな浮気調査もやっているが、雇われではなく自分で事務所を作って本当に殺人事件とかの捜査をやっているらしい、と、相手は言っていた。私は笑った。

 面白いな。

 体の中の、それまでずっと動かなかった部分でそう思った。探偵をしている桐生を想像した。面白い。小説が書けるかもしれない、と思った。心の片隅で、あのとき目撃されたことの、罪悪感、というより、もっと軽い、気まずさみたいなものも思い出した。でも多分大丈夫だろう。あの男は捕まったのだ。私が考えるかぎりもっとも卑劣な犯罪で。例えば自分も被害にあったとでも匂わせば桐生は絶対に私を責めないだろう。だから桐生に会える。会いに行こう。

 そのあとの「自分も小説を出した」というメッセージにも愛想よく返信してしまった。それが相手にとって一番言いたかったことなんだろう。そういうのむかつくなと怒ってみようとしても、うまくいかなかった。そんなもんだろうなと怒りが折れる。私はどうも、本当に、優しくなっていた。年齢のせいなのだろうか。だとしたら私をあれだけ駆り立てた憎しみも全て年齢のせいだったのか? 私はいつか、殺人未遂も殺人も、若いころにした過ちだと思うようになるのか? そんなの嫌だ。私は私の憎しみを、手放したくない。優しくなったとしても、自分が必死でつかんだ憎しみの核だけは持ったままでいる。何を憎むかと言うことは、自分の倫理の問題だからだ。私は決して、決して、私が殺そうとしたやつを許さない。あいつらが犯した罪を許さない。許さないために、自分の手を汚したのかもしれない。感情の証拠は残らないから、後になったらいくらでも書き直せる。でも、行為は消えない。心が変わっても、やったことは変わらない。私はあのときの憎悪を、犯罪によってこの世界に書き込んだ。消えることのない文字。私の小説より、もしかしたら、私自身より大きいかもしれない文字。

 また小説を書くなら、私はもっと大きい文字を書きたい。自分の犯罪に自分の創作が負けたことを、知りたくない。じゃあ諦めればいいのか? 本当に、もう、私は何年も書かなくなった。書かなくても平気だった。誰にも愛されなくても平気だった。不安で孤独。でも、平気だ。不安でも孤独でも、生きていける。

 たまに様子をうかがうメールが編集者から届く。そういうものには返信しない。ファンレターも届く。新作が読みたい、と、遠慮がちに書いてあったりする。ふーんと思う。思って、段ボールにしまう。私はもともとファンレターに返事を書いたりはしない。

 期待に応えたい。そう願ってしまうのは敗北だった。私のことを救ってくれない人間の期待。でも小説というものは、期待から背を向けて成立する類の表現ではない。読まれなければ始まらないし、読む人間との相互理解がなければ成り立たない。本質的に、小説を書くということは媚びるということなのか。もうずっと書いていないから、そういうこともよくわからなくなっていた。

 桐生に会いたいな。

 そう思った。桐生を特別に好きなわけではない。桐生だって私を特別に好きなわけではないだろう。それでも桐生は私を拒まない。そういう相手に会いたかった。

 会ってよかったんだろうか。読んだ小説の構造を探るように、私は自分の行動の意味を探る。桐生に会わなければ、私の殺人は発覚しなかったかもしれないし、死の危険を感じることもなかったかもしれない。殺人。調査。その筋道をストーリーとして辿って行っても、須藤鏡花という存在に行きつくのはかなり困難なように思う。捜査線上に名前があがらなければ、調べられることもないのだ。三年前のあの日、私は何もしくじらなかった。上手にやったのだ。そのことは誇らしい。本当に、曇りなく、誇らしい。やりたいことをきちんとやった。桐生に会わなければ、完璧だった。桐生に会ったことで、破綻した。

 桐生のせい。そういうふうに考えてみようとする。惰弱な人情で、私は失敗したんだと。これが小説なら、私はそんなふうに書いてみたい。売れるとか売れないとかそういうことは考えず、ただ、そういうふうに書きたい。

 でも現実の私は、そういうふうに考えられなかった。桐生に会ったことを、間違えたとは思えない。殺人が間違っていたとも思わない。その遂行は、今でも誇らしい。結局無駄になったとしても、誇らしいことに変わりはない。

 不合理なのだ。自分の書く小説よりももっと、現実の私は不合理だ。そしてかつての私は、そういう不合理さ、説明のつかなさに苛立っていた。不合理な場所に、甘さが忍び込み、私の人生を弱いものにしていく。そういう認識があった。私は私の弱さをよく知っていた。悪意と怒りを研ぎ澄ませておかなければ、ずるずると弱さに引きずられる。どこまでも弱くなり、私をただの女の子にしてしまう。

 今はもう、それでいいと思う。どうしてそう思うようになったのかも、よくわからない。今まで自分が積み上げてきたもの。自分がやったこと。無駄にするわけにはいかないと思ってきたもの全部、別にもう、いいと思う。須藤鏡花という人生みたいなものが、軽くなっている。軽くなって、ただそこにいる私がいる。名前のない、ただの主体としての私。軽くて何もおそれていない。

 桐生。

 私には家族がいる。関係は悪くはない。それなりに信頼関係のある仕事相手もいる。接点が少ない分まだ尊敬できている作家もいる。薄い薄い人間関係でも、なにもないわけではない。親しみを覚えることを弱みだと思っていても、私は弱い人間なので、人間のほとんどすべて憎みながらも、いつも誰かに愛着を覚えてきた。

 桐生が特別な相手ではない。たまたま、そこにいただけだ。

 それだけなのに、今、命さえどうなるかもわからない今、頭に浮かぶのは、桐生の顔だけだった。

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