第17話

「ご存じだと思いますが、私は天才です」

 おもむろに鏡花は言った。冗談でも虚勢でもなく、本気で言っているのが明らかだったので、聞いていた人間は言葉を失った。

「人を惹きつけて読みたいなと思わせる設定が作れます。まずこの能力が高いから、本が売れます」

 コーヒーの置かれたテーブルを挟んで正面に座る相手は無言のままだが、淡々と鏡花は続けた。

「売れるのは基本的にその要因が大きいですけど、それが何作も続いたのは文章が書けるからです。私は思いついたものは自分で書くことができました。文章力があるので。ジャンルに合わせて文体も変えられますし、作中作はそれらしく書くことができます。器用なんです」

「……それで?」

 ようやく言葉を発した相手に、鏡花は頷いて、紙束をテーブルに置いた。

「これ、さっきもらってきた早坂雄一郎が失踪前に送ったという原稿とチャットのログです。目を通しました」

 鏡花の言葉に、相手はちらりと紙束に視線をやっただけだった。怪訝そうに眉を寄せる。

「八月二十二日に送られた原稿で、打ち合わせ内容がそこに反映されてた。でも、おかしいんですよね」

「……なにが?」

「だってその時には早坂雄一郎は死んでいたはずなんです」

 相手はぎょっとしたように目を見開いた。鏡花は続ける。

「早坂雄一郎が死んだのは二十日なんです。二十日に死んで、その日のうちに埋められています。だから二十二日に原稿を送ったのが早坂雄一郎のはずがないんですよね」

「なんでそれを……」

 鏡花は無視して進める。

「話は戻るんですけど、私は相当器用です。早坂雄一郎の文体で小説を書いて、ほとんどの読者をだます自信はあります。ある程度器用な書き手ならできると思います」

「それで?」

「でも、これはできないです。チャットで相手に違和感を覚えさせないように会話して、その内容に合わせて早坂雄一郎らしく改稿する。そんなのできる人はいないと思います。これは文章力の問題じゃない。私が天才でもできない。だから誰もできません」

 相手はつい小さく吹き出し、不本意そうに咳ばらいをした。鏡花はちらりと微笑んで、すぐに笑みをひっこめた。

「だからこれは早坂雄一郎が書いたものです。でも、それはありえない。死んでたんですから」

「……それで?」

 鏡花は頷いた。

「そうなんですよね」

「え?」

「そうなんです。それで? ってことなんです。早坂雄一郎は二十日に死んだ。本人が書いた原稿が二十二日に送信された。それで? だから何? ってことですよね。だって早坂雄一郎が二十日に死んだことを知ってる人間なんていないんだから、別にどうでもいい話なわけです」

「何が言いたいの?」

「私が早坂雄一郎を殺しました」

「え……?」

「私が二十日に早坂雄一郎を殺しました。私が犯人です。そして、私は二十一日にアメリカ行きの飛行機に乗っています」

「は……?」

「私を容疑者だとすると、ここが大きな問題になるわけですよね。原稿が送信された二十二日まで早坂雄一郎は生きていた、と思われる。でも須藤鏡花は二十一日にはアメリカに飛んでいた。では二十二日の原稿は天才須藤鏡花が偽装したのか?」

 鏡花は自分の言葉に首を振った。

「そうじゃないです。あれは偽装された原稿じゃない。偽装する意味があったのは私だけだけど、私にはあれはできなかったし、そもそも疑われてもいないのにそんなことをする意味がない。だいたい二十二日以降に死んだんだろうと思われてるだけで、私がアメリカから帰ってきてから死んでる可能性だって否定できないんだから、アリバイさえ成り立ってない」

「何が言いたいの?」

「死体が見つかりましたよね。他にも」

 相手は無言だった。顔に警戒が滲んでいる。

「小説家って色々な悩みがありますけど、私は他の人が味わったありふれた悩みの中で、一つはまだ縁がないんです」

「なんの話?」

「私は最初から売れてたから、売れたいと思ったことがない。いや、ちょっと正確な言い方じゃないですね。売れたいとは思ってました。今よりももっと売れたいって。でも売れないことで悩んだことはないです。だいたいみんなそれで悩むでしょう?」

 鏡花は返事を促すように首を傾げた。返ってくるのはまた無言だ。

「私が売れなかったらどういう気分になるのか、ときどき考えることがあります。全然書きたくないもの書かされたりするのかなって。別に売れたら好きに書けるわけじゃないですけどね。売れる作家にはより売れそうなもの書かせたほうが大きく儲けられるわけですから。でも売れてる人間は交渉の余地があるけど、売れないって交渉できる武器がないですから」

 鏡花は一人で話し続ける。

「小説を書く理由って人によって違いますよね。私はお金もほしいし偉くなりたいとかそういう欲望もありますけど、それでも自分の書くことを自分で決められなくなったら書かないと思います。編集の意見を聞くこともありますけど、自分で書きたいと思えるものじゃなかったら書きたくない。私はそうなんです。でもそうじゃない人もいますよね。書けるならなんでもいい人っているだろうし、そもそも作家でいることが大事で、書くことはどうでもいいって人もいる」

 鏡花は口元をゆがめた。

「どういうスタンスがいいとか、判断するつもりはないですけど。でも、最後のはないですよ。自分で書かずに、ただ作家という立場の権力だけ楽しもうとする人間もいる。信じられないですよ。そういうの」

 鏡花はまっすぐに相手を見据えた。

「死ぬべきですよそんなやつは」

 正面に座っている鳥井祥子は青ざめて震えていた。睨みつける視線からも明らかな強烈な怒りを、しかし鏡花は気にする様子はない。

「あなた……何が言いたいの?」

「ミステリだけでも毎年新人賞がいくつもあって、受賞も最終選考からの拾い上げもあって、毎年何人もの新人が生まれます。みんながみんな売れたらいいけど、そうとは限らない。売れないままずっと続けている人もいるけど、そんな人だって少数派です。ほとんどの人が、業界からいなくなってしまう。小説を書かなくなったのかもしれないし、見えないところで頑張っているのかもしれない。面白いデビュー作を書いて、期待されて、でもたいして売れなくて、次が出るかもわからない。売上っていう裏付けがないから、自分が書いているものが自分が思っているほど面白いのかもわからない。きっととても不安だと思います」

 鏡花の声は微かに震えていた。彼女は涙ぐんでさえいた。

「そして、いつの間にかいなくなってしまう。誰にも気に留められないまま。努力の結果がどうなったのか、誰にも知られないまま。いつものこととして。そういうの、哀しいと思いませんか? 私は違うから、想像することしかできない。でも、そんなの哀しいと思いませんか?」

 鳥井は答えなかった。

「そういう人も、業界の人間とは関係のない場所に行って、最初は辛いけど、そのうちに自分なりに幸せになったりするのかもしれない。小説だけがこの世の全部じゃないから。そう思ってその人たちのことを考えるのをやめる。それはそれで正しいと思います。誰が悪いわけじゃない痛みをいちいち掬い上げるわけにはいかない」

 鏡花はため息をついた。

「私、早坂雄一郎のこと大嫌いでした」

「だから……殺したの?」

 鏡花は首を傾げた。細い髪が細い首をなぞり、彼女は少女じみて見えた。初めて書いた小説で持ち上げられ困惑していた十三歳の時のように。

「そうとも言えるし、そうじゃないとも言えます。私が早坂を殺したのは、あの男が今後の方針に迷っていると思って、セックスに誘ってきたからです。小説のために経験したほうがいいって」

 鳥井の頬がひきつった。

「私そういうの許せないんです。殺したほうがいいと思った。だって……侮辱でしょう。そういうの。女性というものへの侮辱だし、創作者への侮辱です。あの男は創作するうえでの人の苦悩を、自分が付け込むチャンスとしか思ってなかった」

 鏡花はじっと鳥井のこわばった顔を見つめた。

「そう思いません?」

「……思わない」

 小さな声だった。鏡花は首を傾げた。

「そうですか。まあ、それはいいんです。一旦置きましょう。そう。早坂雄一郎は私が迷っていると思うとチャンスとばかりにつけこんできた。私が許せないなと思ったのは、きっと同じことを何回も繰り返しているんだと思ったからです。鳥井さん、あなたもそうじゃなかったんですか?」

「答えると思う?」

「じゃあ勝手に想像します。でも、多分私はそんなに想像するのが上手じゃないんですよね。早坂に別荘に誘われたとき、私は似たようなことをこの男は繰り返してるんだなと思いました。立場の弱い女性を性的に搾取してるんだなって。それは……間違ってはいない。でも、多分半分ぐらいしか合ってない。あの男が誘って、搾取したのは女性だけじゃなかったし、目的はセックスだけじゃなかった」

 鳥井が唾を呑みこむ音が、早坂家のリビングに響いた。鏡花は嘔吐するかのように告げた。

「あの死体、あなたと早坂がやったんですね。そして、私もその中に入るはずだった」

 鳥井は肯定も否定もしなかった。

「いつからやっていたのかはわかりません。どういう経緯でそうなったのかも。でも、へたくそなりに想像してみます。早坂はパーティーや授賞式やイベントに頻繁に参加していました。そこで新人に話しかける。そして才能があるけれど伸びきらない新人に指導してあげると言い、軽井沢の別荘に呼び出す。おそらくプロットやアイディア帳を持ってくるように指示するんでしょう。別荘で合流して、そして……」

 喉が詰まったように一度黙り、苦し気に咳をした。

「そして、殺す。殺して埋める」

 鳥井が目を細めた。鏡花は怯えたように目を伏せた。咳ばらいをして、沈黙を避けるように話をつづけた。

「鳥井さんがそこ……殺害の場面、で、どういう役割を果たしているのかはわかりません。でも、一つだけ、これは確かだと思うことがあります」

「何?」

 そっと視線を持ち上げて、鏡花は鳥井と目線を合わせた。

「早坂雄一郎の作品を書いているのは、あなたですよね」

 鳥井は肩をすくめた。

「二十二日に送られた原稿は、誰かが偽装したわけじゃない。あのじじいが死んだあとも、作家としての早坂雄一郎は生きていた。そして、あのじじいが死んだことを知らなかった。それだけのことです。元の原稿を書いたのも、チャットで打ち合わせをしたのも、原稿を直したのも、全部東京にいたあなたがやっていたんです。早坂雄一郎はもうずっと、自分では原稿を書いていなかった。目をつけた新人からアイディアを奪って、文章をあなたに書かせていた」

 鳥井は目をつむった。

「そう思うと全部納得がいきます。打ち合わせにはチャットしか応じないのも、あれだけのベテランなのに作風が定まらないのも、それから、」

 鏡花は哀し気に眉を寄せた。

「鳥井さんが、まったく書かなくなったことも」

「……それを気にする人間がいるなんて思わなかった」

「気にしてる人はたくさんいます。口に出さないだけです」

「でも、好きで好きでたまらない作家だったら、言わずにはいられないでしょう。私、本当に、全然人に感想をもらったことがないの。仕事相手が下調べのために読んで、「よかったですよ」って言うだけ」

 鳥井はコーヒーカップに手を伸ばして、冷めてる、と言った。

「淹れなおしましょうか?」

 鏡花は首を振った。

「結構です」

「何が入ってるかわからないから?」

 鏡花は答えなかった。会話の主導権を奪われている。教師に詰問される生徒のように体を硬くしている。

「デビューしたとき、私はね、なんでもしようと思ったの。小説を書いて生きていくためなら、なんでもしようって。でも……でも、小説が出て、売れなくて、内容は褒められているのに、売れない。誰も直すべき部分なんて指摘してくれない。お世辞じゃなく、実際、そうだったんでしょう。よくできてる。自分は好きだよ。でも、売れない。本屋で見てぱっと「手に取ってみよう」と思わせる力がない。好きだってって言ってくれる相手も、今年の一冊にあげてくれるほどじゃない。そういうときってどうすればいいのかしら。もしも売れるなら人を殺したっていいって思ってたけど、誰を殺せばいいのかもわからないんだから」

 鳥井の語り口は優しく柔らかく、いっそ楽しげでさえあった。

「早坂に声をかけられたとき、本当に嬉しかった。あの人に作家としても男としても興味を持ってたわけじゃないけど、ちゃんとした作家だったから。わざわざ声をかけてくれるなんて夢みたいだと思った。あのとき本当に自己評価が地の底だったから、差し出せるものはなんでも差し出した。なんでも言うことを聞いた。利用したいだけだったとしても、自分に利用価値があること自体が嬉しかった。あの人に言われたように書いて、それがちゃんと単行本として出版されて、売れて、書評も見た。褒められても貶されても嬉しかった。夢みたいに嬉しかった」

 彼女のまなざしは宙を漂い、夢を見ているようだった。叶えられた夢。叶えられなかった夢。

「最初はそれでよかった。早坂がプロットを考えて、私が書く。すごくいい組み合わせだと思ってた。早坂はね、変わった人だった。支配欲が強いのに、小説についてはどうでもいいみたいで、好きなように書かせてくれた」

「鳥井さんは逆なんですね」

 鏡花の言葉に、鳥井は視線を地上に戻した。

「何が?」

「早坂は現実的な権力以外はどうでもよかったなら、鳥井さんは小説さえ書ければどうでもよかったんだなと」

 鳥井は優しく微笑んだ。

「ええ……そう。書ければなんでもよかったの。自分の作家性みたいなものさえどうでもよかった。これを書けって言われて、書いて、人に読んでもらえれば、それで」

 あなたにはわからないでしょうね、と、鳥井は言った。

「殺すつもりなんかなかった」

「え?」

「って、早坂は言ってた。女の子を一人殺してね……深夜に電話がかかってきて、朝一で新幹線に乗って行ったの。居間に女の子が転がってて、その夜に二人で埋めたの。死体を見ているのが嫌だから毛布を掛けて……夜まで二人で口論してた。早坂は興奮してて……下手なことを言えば、私も殺されるのかと思った」

 それは冗談ではないようだった。

「彼女はその三年前に佳作をとってて……でも二作目が出なくてね。企画が通らなくて……私と境遇が似てた」

「新坂里美さんですか?」

 鳥井は目を見開いた。

「知っているの?」

「デビュー作で誘拐ものの話を書いた人ですよね。叙述トリックの使い方がさりげなくて面白いと思いました。ただいくらさりげなくって言ってももう少し派手にやらないと、トリックがあること自体気づかれないのが惜しいなと思いましたけど」

「彼女、早坂じゃなくあなたに相談すべきだったかもね」

「そうしたらまだ生きてたって?」

 鏡花は鳥井を睨みつけたが、鳥井は意に介さなかった。

「殺すつもりじゃなかったってことは、つまり私の代わりをさせるつもりだったんでしょうね。何が起こったのかはともかく、彼女は私ほど扱いやすくもなければプライドがなくもなかったんでしょう。交渉はうまくいかなくて、早坂は彼女を殺してしまった。プロットやアイディア帳を奪ったのは、そのついで。でも、それを元にして早坂がプロットを作って私が書いた作品がヒットした。本当に、それまでで一番売れたの……。それで、繰り返すことになった」

「どうして私だったんですか?」

「どうしてって?」

「スランプだったとは言え、私はそれまでの被害者より売れてた、というか、有名人でした。成人はしていても学生でしたし、同じようにもみ消せたとは思えません。仕事の関係で捜査もされたでしょう」

 鳥井は頷いた。

「そう。馬鹿なことをしたと思う。あなたがターゲットだったこと、私は知らなかったの。あれは早坂の単独行動。本当に、馬鹿なことをしたと思った」

「え?」

「早坂がいなくなったとき、本当に何が起こったのか私にはわからなかったの。失敗して逃げ出したか殺されたかしたんだろうなと思ったけど、しばらくしたら段々あなたが殺したんじゃないかっていう気がしてきたの。早坂はなんのメモも残してなかったけど、あなたの話をよくしてたことだけは覚えてる」

 鏡花は眉を寄せた。

「なんて?」

「たいしたことは言ってないけど。よくやってるとかそういう心のこもってない褒め言葉から始まる悪口。未熟だとかわかってないとか、売れてるのは今だけだってね。悪口から入ると自分があんな女の子にむきになってるって思わされるのが耐えられないんでしょう。私はいつもまた始まったと思ってた。これは私の想像だけど、早坂は単に、あなたを利用したいというより、あなたの存在に我慢できなかったんじゃないかしら」

「私が売れていたから?」

「ええ。早坂は自分で書くのを諦めて、人を殺してアイディアを奪って、そうやって作家として成功したでしょう。新人賞の選考委員にまでなって、作家としての地位を確立した。でも、」

 鳥井は首を振った。

「そんな苦労なんか何もしてないように見える女の子が自分よりはるかに売れていて、しかもいつも反抗的で、しかも自分に敬意なんかちっとも払ってくれない。目ざわりでしょうがなかったでしょうね」

「だから殺そうと?」

「もしかしたら殺すつもりはなかったのかもね。単にてなづけようとしたのかもしれない。セックスに持ち込めば、自分のほうが上だと思うでしょう。そういう人だった」

 鳥井はいっそさばさばと話し、その内容のおぞましさに鏡花は顔をゆがませた。真っ白な顔で吐き気をこらえる彼女を見て、鳥井は笑った。鏡花はその顔に、早坂の面影を見た。人を踏みつけることに快楽を覚える人間。

「どうして殺そうとしたんですか」

「何?」

「私のことです。どうして鳥井さんは、私を殺そうとしたんですか」

「口封じのためだと思わない?」

「でも弱みがあるのは私も同じです」

 鳥井は目を細めて、宙を眺めた。今度は夢を見ているというより、そこにある見つけにくい何かを探しているようだった。

「早坂を失ってから、私もずっと死んだような気でいたの。といっても、普通の夫婦みたいな意味ではないけど」

「書く場所を失ったから?」

「ええ! そう!」

 急にあげた高い声は悲鳴のように響いた。

「そう……そうなの。私は何も書くことができなくなった。人を殺しても書きたいと思っていたのに。もう書くことができないんだから」

「書けばいいじゃないですか」

「誰も求めていないのに?」

「私は読みますよ。鳥井さんの書くもの好きだから」

「ふざけないで!」

 鳥井は立ち上がり、鏡花に向かった。鏡花も立ち上がって後ずさるが、服をつかまれる。二人はもみ合い、椅子が倒れる。躓いた鏡花はそのまま押し倒され、倒れた椅子の角に頭をぶつけた。鳥井はその小さな体に馬乗りになった。赤ん坊のように細い髪を鷲掴みにした。ぶちぶちと髪がちぎれる音がして、鳥井の指にも血が滲んだ。大きく骨の太い指で、白い喉を掴んで、圧した。鏡花は高い音で咳き込んだ。おもちゃのように脆い体に力はほとんど入らず、ろくな抵抗もしないが、睨みつける眼差しだけが力を失っていなかった。

「何がわかるの。あなたに……何がわかるの」

「私を殺したら、さすがに捕まりますよ」

 鳥井は鼻で笑った。椅子のぶつかったテーブルから滑り落ちた花のカップが割れ、鏡花の靴下をコーヒーが濡らした。

「だからなんなの。今更もうそんなことどうでもいい。あなたが本当に殺したなら、絶対に私の手で殺してやるって思ってた」

 鏡花は諦めたように微笑んだ。

「なるほど」

「これが終わったら、私も死ぬ。あなただけ生きてるなんて許さない」

 昏い声だった。鏡花は応えず、諦めたように目を閉じた。鳥井はその反応に一瞬躊躇したあと、両手で首を押さえ、全体重をかける。苦しさに鏡花の手足がばたばたと絨毯を叩くが、すぐに力が抜ける。鳥井はじっと、規定の作業をこなすように力を込め続けた。興奮が頂点に達して、室内はいっそ静かだった。

 突然そこに、アラームが鳴り響いた。強烈な音に、動揺した鳥井の手から力が抜ける。鏡花は体を丸めて咳き込んだ。鳥井は慌てて再度力を込める。何の音かを確かめるのは殺してからでいいと判断する。鏡花の細い指が、絨毯をかきむしる。細く開いた鏡花の目が、不意に大きく見開かれる。

 鳥井の頭に、大きな石が振り下ろされた。

 何の躊躇もない一撃に鈍い音がして、鳥井の体が崩れ落ちる。倒れかかる鳥井の体に潰されて、鏡花は咳き込みながら呻いた。鳥井をまるで荷物のように押しのけ、そっと鏡花の上体を起こし、背中を撫でる人物。

「……桐生?」

「うん。大丈夫?」

 いまだにアラームは鳴り響いている。

 鏡花は動かない鳥井を見て、それから室内を見回した。あれだけの大立ち回りのつもりでいたのに、室内はそれほど荒れていなかった。椅子が倒れ、コーヒーカップが落ちている程度だ。視線を移すと、窓が割れていた。窓を割り、そこから鍵を開けたのだろう。鳥井を殴ったのはおそらく庭にある石で、それで窓も割ったのだ。二人とも興奮状態だったので、窓が割れる音に気付かなかったのだろう。アラームは窓の防犯システムだ。そのうちに警察が来るはずだ。

 鳥井をもう一度見る。まだ動かない。死んでいるのかもしれない。北斗が手元に置いている石は鏡花では片手で振り上げるのも困難だろう大きさだった。べっとりと血がついている。

「……殺したの?」

「多分ね」

「……なんで?」

 ここには鏡花一人でタクシーで来た。後からつけて、庭に潜んで様子を見ていたのだろう。鏡花はそこまで予想した。

 だが、北斗が手を汚す必要などなかったはずだ。ただ警察に通報すればいい。鏡花の命を守るためでも、いきなり殴りかかることはない。突然目撃した見知った人間の凶暴性に、鏡花は息を整えながらも身を固くする。

 北斗は鏡花を見て、微笑んだ。

「人を殺したかったんだよ」

 こわばった筋肉がつい緩むような、優しい声だった。

「あなたの小説に人生を変えてもらったから、あなたのために、人を殺したかった」

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