シナヤとルーシェ②

 遡る。

 エルフの村で、長老を殺した、あの夜に。





 生きている、と認識するのに、少し時間がかかった。


「……あー、死ぬかと思った」


 わざわざ呟いたのは、まだ震えている自分の膝を鼓舞するためだ。おれは起き上がって、周囲を見回した。幸い、敵の気配はない。

 あのクソジジイの長老から逃げるために、崖の上から川に飛び込んだ。そこから先の記憶は、自分でも曖昧だ。

 もう一人のおれは、目の前で間違いなく殺された。おれはたまたま偶然、二分の一の確率で狙われなかったから生き残ったに過ぎない。シャナちゃんの魔法で増えたおれの人数は三人。死体が見つからなければ、生き残ったおれをあの執念深い老獪は必ず探しに来るだろう。

 逃げようか、と。少し思った。

 たまたま偶然、立ち寄った村だ。べつに、執着する必要はない。運良く生き残ることができたのだから、ここで起こったことはすべて忘れて、アリアのところに帰ればいい。冒険を、再開すればいい。それだけだ。でも、村にはまだもう一人のおれと、シャナちゃんが残っている。

 自分自身を見捨てるのは、卑怯なことなのだろうか、と。少し思った。

 最も最悪なのは、おれという存在が、ここで全滅してしまうことだ。魔王を倒すこともできず、アリアのところへ帰ることもできず、道半ばで勇者として倒れてしまうことだ。だから、大丈夫だ。きっと、もう一人のおれも、おれを見捨てて逃げることをわかってくれるはずだ。

 そんな風に言い聞かせながら、おれは川を辿って、村へと戻った。

 自分自身を見捨てることはできても、花をくれたあのハーフエルフの女の子を見捨てることはできなかった。勇者として失格の烙印を押されてもおかしくはない、愚かな決断だった。

 それでも、おれはまだ自分自身を信じていたのかもしれない。もう一人のおれは、シャナちゃんを守り抜いてきっとまだ生きている。もしかしたら、あのクソジジイを倒して、もうすべては終わっているかもしれない。そんな、淡い期待を抱いていた。

 結論から言ってしまえば。おれが再び村に辿り着いた時には、たしかにすべてが終わっていた。


「なんだよ。これ……」


 赤々と燃える火が美しかった森中に広がり、木と葉と、肉が焼けるいやな匂いがそこら中に充満していた。なぜか、ほとんどの村人が事切れていて、視界の中で動くものは揺らめく炎だけだった。


「おい! しっかりしろ! なにがあった!?」


 まだ辛うじて息があった住人を、抱き起こす。しかしこちらを見詰める瞳は、どこまでも虚ろだった。


「……ゆるさない。なにが、勇者だ。なにが、魔王だ」


 吐き出された血と同じくらい、その怨嗟の言葉は黒かった。


「私達はお前を、絶対に、ゆるさない」


 息を切らしながら、村中を走り回った。まだ生き残っているはずのおれと、シャナちゃんを探した。走って、走って、何も考えることができない動物のように、ひたすらに駆けずり回って、


「あ」


 ようやくおれは、探していたものを見つけた。

 それはもう、息をしていなかった。それは、もう死んでいた。

 おれが助けたかったはずの女の子は、丸太の下敷きになって死んでいた。


「なんで……」


 どうしておれは、この子を助けられなかったんだ? 

 一緒にいたはずだ。一番近くにいたはずだ。守ることができたはずだ。

 なのに、なんで、どうして? 

 なにをやっていたんだ、勇者は? 


「お兄さん……?」


 本当に微かに、呻くような声が聞こえて。おれは顔をあげた。

 最初に出会った、もう一人のシャナちゃんが、そこにいた。ボロボロの姿で、丸太の下敷きになっている自分自身を、感情の抜け落ちた表現で見詰めていた。

 おれは、何を言えばいい? 

 おれは、この子に何を言ってあげられる? 


「……ごめん」


 結局、口をついて出たのは、許しを請うような最悪の言葉だった。

 でも、おれを見下ろすハーフエルフの女の子は、それを笑わなかった。


「お兄さん」


 おれは、たった一人の女の子すら救うことができなかった。

 何もかも遅くて、間に合わなくて、届かなくて。


「私を、助けてくれますか?」


 けれどそれは、勇者になれなかったおれが、最も欲しかった言葉だった。





 彼に助けてもらったあと。少女の生活は、とても恵まれたものに変わった。

 暴力を振るわれることもない。理不尽な命令を強いられることもない。二人で旅をして、ご飯を食べて、笑い合って。

 そんな、生温い生活に浸りながら、しかし少女は心のどこかで諦めをつけていた。

 この人は、勇者だから。これから、勇者になる人だから。

 こんなにも、やさしくて強い人だから。

 だからいつか、もう一度世界を救いに行くのだろう、と。

 その旅に、自分が付いていくことはできない。以前から不安定だった魔法の制御が、あの日のトラウマで使い物にならなくなっていた。魔術の練習だけは彼に見えないところでひっそりと続けていたが、勇者の隣で戦うのに相応しい実力ではないことは、自分自身が一番よくわかっていた。


「ねえ。もう大丈夫だよ。私、一人でも生きていけるよ?」

「だめ。自分で大丈夫っていう女の子が、一番大丈夫じゃないんだよ」


 一緒に生活を続けている内に、いつの間にか染み付いた敬語は抜け落ちていた。距離感が少しずつ縮まっていくのを感じる反面、どこか一線を引かれているな、とも思った。

 関係が変わるのが、こわかったのかもしれない。

 もう大丈夫、と言いながら、穏やかな彼との生活が終わってしまうのが、やはり恐ろしかったのだ。


「……あれ」


 それは本当に、ただの偶然だった。

 いつものように立ち寄った村で、人々から歓声を受けて囲まれているパーティーがいた。

 彼と同じ顔の、勇者がいた。

 自分と同じ顔の、賢者がいた。

 彼らは村人たちから口々に感謝の言葉を述べられ、賑やかで温かな輪の中心で、笑っていた。


「どうする? あの人たちに、会いに……」


 会いに行かないの、なんて。そんなことを言いかけた自分は、どこまで馬鹿だったのだろう。

 彼の服の袖を掴みながら。見上げたその横顔を、少女は一生忘れない。

 憧れ。後悔。憎しみ。焦燥。葛藤。懐かしさ。

 絵の具の色を感情の赴くままに、パレットの上でぐちゃぐちゃに混ぜていったような。決して一言では表現することのできない、その表情を見て、悟ってしまった。

 ああ、この人はもう、あそこには戻れないのだ、と。


「……顔を合わせるのは、まずい。この村に泊まるのはやめよう」


 言い訳をするように、温かな声に背を向けた。

 どうして、私たちが逃げるように去らなければならないんだろう。

 どうして、私たちがこんな惨めな思いをしなければいけないんだろう。

 どうして、自分たちの存在が、偽物のように感じてしまうんだろう。

 彼の背中を見上げながら、少女は考えた。

 私は、何を言えばいい? 

 私は、この人に何を言ってあげられる? 


「ごめんね」


 結局、口をついて出たのは、謝罪の言葉だった。

 それは、許してほしいという自分の我儘だ。ごめん、という言葉は己の非を認めているようで、本当はどうしようもなく身勝手な一言だと思う。




「──私のせいで、勇者になれなくてごめんね」




 許してほしい。認めてほしい。自分を見てほしい。

 しかし、我儘で身勝手でもいいのだ、と少女は気がついた。


「でも、私がいるから」


 いつも撫でられて、慰められてばかりだったから。

 その日だけは、自分よりも大きい彼の体を抱き締めて、自分よりも高いところにある彼の頭に、手を伸ばした。

 子どものように泣きじゃくりはじめた彼の頭を撫でていると、はじめて何かが満たされた気がした。


「……おれは、勇者じゃない」

「うん。知ってるよ」

「どうしようもなく情けない男だ」

「それでもいいよ」

「本当はきみに、こんなこと言うのは、違うかもしれないけど」


 情けなくていい。かっこよくなくていい。

 彼の言葉は、どこまでも勇者らしからぬものだったが、


「おれを、ずっと側で助けてほしい」


 けれどそれは、賢者になれなかった少女が、最も欲しかった言葉だった。





 そうして、偽物の勇者と偽物の賢者は、本物になることを諦めた。


「名前を、決めよう」


 勇者になんて、ならなくていい。

 賢者になんて、ならなくていい。


「名前?」


 世界なんて、救えなくても構わない。


「ああ。おれの……いや、オレたちの、新しい名前」


 たとえ自分たちの存在が、魔法によって形作られた偽物だったとしても。

 そのはじまりが、価値のない空虚な白だったとしても。

 重ねていった感情は、決して色褪せることはない。


「どんな名前が良い?」

「……あなたが決めてくれるなら、なんだっていい」


 一から十まで。十から百まで。

 自分のすべてを捧げたい。

 それが、人を愛するということ。

 賢者にならなかった少女は、ルーシェ・リシャルという名前を得た。

 勇者にならなかった少年は、シナヤ・ライバックという名前を選んだ。


「シナヤ。私は、あなたの全部になりたい」


 偽物たちはその日、はじめて本物の愛を理解した。

 魔王を倒すためではない。世界を救うためでもない。

 互いを見つめ合う二人は、心の底からそれを理解した。


 オレの人生は。

 私の人生は。


「ルーシェ。おれのすべてをかけて、きみを幸せにする」


 きっと、生まれた時から、この人を幸せにするためにあったのだ。

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