翡翠の聖女は、勇者を愛している
トリンキュロ・リムリリィがまず感じたのは、違和感。
最上級悪魔としてトリンキュロが……カプリコーン・アインが保有する悪魔法『
トリンキュロが相手の魔法を奪う際に、唇を重ねるという過程を強引に踏むのは、自身の嗜虐的な趣向を満たすのと同時に……唇を重ねるというその行為が、相手の心に触れるのに最も効率が良いからだ。
心の理を、口づけのぬるさで溶かして解く。
思い出も、思考も、すべてを理解して取り込んだ上で『
トリンキュロ・リムリリィはこれまで、数多の魔法を取り込んできた。
悪魔の身でありながら、人に至る。
その欲求にどこまでも正直に従い、貪欲に己の心を変貌させてきたトリンキュロが理解できなかった魔法は、これまで一つたりとも存在しない。
「…………おい、なんでだよ」
存在しない、はずだった。
浸るはずの、その感触に。
頬を打たれたように、トリンキュロは目を見開く。
「なんで、どうして……ちょっとまってくれ。なんなんだ。おい、なんなんだよ、お前……どうして、何が、何を思って、そんなことを考えられる!?」
明らかな、異常。
理解できない、恐怖。
組み敷いているのは自分のはずなのに、主導権を握り返されたかのような、致命的な違和感。
トリンキュロ・リムリリィが次に感じたのは、嫌悪と。
「あはっ、ねぇ──」
強い拒絶。
離した唇と、薄ら寒い熱の残り香に、呆然と固まる最上級悪魔を、
「──いつまで、くっせぇ口近づけてるの?」
人間ではない聖職者が、嗤っていた。
「……あっ」
悲鳴を挙げる間すら、許されなかった。
次の瞬間には、トリンキュロの腕は人ならざる膂力によって引き千切られ、黒い鞭の如き尾で胴を薙ぎ払われ、その衝撃で小柄な体は、岸壁に叩きつけられた。
「ぐぶっ……ぉ」
抵抗する力は、もうなかったはずだ。
指先の一つすら、まとも動かせなかったはずだ。
頭の中で、回る疑問は尽きなかったが、なによりも。
その胸の内から湧き上がるような吐き気に、トリンキュロは頭を抑えて、静かに呻いた。
「なんで……どうして、理解できない。なぜ、模倣できない!? ボクが、こんな……」
「あは〜。よくわかんないけど……同族嫌悪ってヤツじゃない〜?」
悠々と立ち上がる、聖職者……だったモノ。
顔を上げたトリンキュロは、明白に言葉を失った。
聖職者の白く長い指先には、鋭い爪があった。
聖職者のなだらかな腰の下には、意思を宿してうねる尾があった。
聖職者のやわらかい髪の間からは、美しく生える角があった。
そして、なによりも。その変貌を祝福するように。
「
聖職者の背には、漆黒の翼が広がっていた。
対峙するトリンキュロが、なによりも見慣れているはずのそれを見詰めて吐き出したのは、疑問の言葉だった。
「なんだ……それは」
「変身だよ」
ランジェット・フルエリンの魔法『
では『変身』させるための条件は何か?
それは、自らの手で、触れたことのあるもの。あるいは、魔法を発動する瞬間に、触れているもの。
条件を満たすために必要な時間は、十数秒。
最上級悪魔は聖職者へ、口づけを交わしてしまった。
自分自身を触れたものに『変身』させる。
それが翠の色魔法……『
答えは、あった。
けれど、理解できない。
知らない。
わからない。
人間になりたいトリンキュロは……人間を目指す悪魔は、もはや人ではなくなった『それ』を理解できない。
「よかったよ〜。これを見せる前に、調子にのってくれて。あなた、見た目だけはかわいいから、キスくらいはくれてやろうと思ってたんだけど、本当に思い通りに動いてくれたね〜?」
「なんだそれは……そんな……そんなっ!? 魔法でそんなことをして、お前は……人間を捨てる気か!?」
「あは〜。知らないよ〜! これは、はじめてやったし、ぶっつけ本番だし。でも、おかしなことを聞くんだねぇ。トリンキュロ・リムリリィ」
勇者の心と同じ色の翼。
それを愛おしそうに撫でながら、人ではなくなった聖職者は、語りかける。
「あなた、いつも人間になりたいって言ってるはずなのにその口ぶりだと……変わることを、誰よりもこわがっているように聞こえるよ」
ランジェさん、と。
彼が呼んでくれる名前が、自分を変えてくれた。
愛とは、信じること。愛とは、些細なきっかけで変わってしまう心の、変わらない強さを信じ抜くこと。
それでも、もし。人を信じ、心を通わせる変化を肯定するのであれば……彼が奪い、塗り重ねてきた漆黒が変わらずに在り続けたその裏に、どれほどの悲しみがあったのか。旅の途中で消えた自分には、想像することしかできない。
だから、愛そう。彼がこの身に向ける信仰に、ありったけの慈悲で応えよう。
彼女は、世界を救った勇者を愛している。
彼に想い焦がれるものが多いのは知っている。
それでも、ランジェット・フルエリンは、変わり続ける。
変わっていく自分が、なによりも彼に、変わらない想いを望むこの矛盾を、孕み続ける。
この身が神に至ったとしても。この身が悪魔に堕ちたとしても。
なによりも色濃く、胸の内に刻まれたもの。
そう。だからきっと──
──この愛が、最もおぞましい
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