かみさまのしんじるもの

「月並みな表現になるけれど……人間っていう生き物はさ。みんな、ありのままの心に仮面を被せて、それを自分の顔みたいに見せかけて、生きていると思うんだよね」


 トリンキュロ・リムリリィは、膝を折るランジェット・フルエリンに向けて、ゆったりと語りかける。

 周囲には、激戦の跡があった。木々は折れ砕け、山肌は抉れ落ち、大地には破壊の爪痕が刻まれている。両者の戦闘がそれほど苛烈で、拮抗したものであったことは、想像に難くない。

 四天王第一位は、編み込んだ髪をいじりながら言葉を紡ぐ余裕を残していた。

 聖職者は、肩で荒い息を吐き出しながら、立ち上がる気力すら残されていなかった。

 今、この瞬間。対峙する二人の状況が、そのまま戦闘の結果だった。


「きみの仮面は上等だった。でも少しだけ、ボクと踊り続けるには、その厚みが足りなかったようだ」


 ランジェット・フルエリンの魔法は、たしかに強力だ。

 数多の魔物に変身し、特性を使い分けるその多様性は、同じように数多の魔法を使い分けるトリンキュロの『麟赫鳳嘴ベル・メリオ』に匹敵する。

 しかし、匹敵するだけだ。

 足りなかったのは、持続性と肉体。

 単純に言い換えれば、スタミナ。

 もとより人を超えた身体能力を誇る怪物の最終到達点……悪魔であるトリンキュロと、人間のランジェットでは、変身する前から、基礎的な能力値に埋められない差がある。

 その差を埋めるために、ランジェットは『翠氾画塗ラン・ゼレナ』による変身を繰り返してきた。

 しかし、いくら薬で誤魔化したとしても、いくら精神的な高揚で誤魔化したとしても、行為に、心と体が耐えられる保証はない。

 ランジェットは、トリンキュロと対峙した瞬間から、ずっと己の体に嘘を吐き続けていた。

 そのリスクと負担は毒のように蓄積され、体を蝕むには充分過ぎるものだった。


から、勇者はきみをパーティーから外したんだろうね」


 単純な指摘。

 事実に基づいた何気ない単純な指摘だからこそ、トリンキュロの一言はどこまでも残酷にランジェットの心へ、指をねじ込んだ。


「きみは自分のことを神様だと言ったけど……でも、ボクのようなバケモノからすれば、相手に合わせて変わろうとするきみの在り方は、ある意味どこまでも人らしいよ。多くの人から好かれるために。多くの人から尊ばれるために。望まれた姿に変わろうとするきみの献身は、とてもいじらしい」


 仮面を被ろうとする人間の心を、トリンキュロは否定する気はない。

 好かれたい。望まれたい。愛されたい。

 人間はどこまでも脆弱な生き物で、親の腹から生まれ落ちた赤ん坊は、決して一人では生き残れない。他の動物とは明らかに違う。それは、人がこの世界に生を受けた瞬間から背負う、宿命のような欲求だ。

 だからこそトリンキュロ・リムリリィという悪魔は、その仮面を剥がして心を丸裸にする瞬間に、これ以上ない喜びを抱く。

 その気になれば、いつでもへし折れる白い首筋。そこに指を這わせる感覚を楽しみながら、トリンキュロはランジェットの体を、片手で持ち上げ、締め上げた。

 飛び散る汗が、地面に滴り落ちる。

 あえぐ喉笛が、か弱い音を鳴らす。


「ちが……ランジェは……」

「違わないさ。きみは、所詮どこまでいっても人だ。信じられたい。好かれたい。愛されたい。そういう浅ましい欲求を隠しきれない、人間だ」


 人の心を理解する。

 その先にある感情を、貪り尽くして、模倣する。

 己の中に眠る第一の魔法『意心伝心ハルトゴート』を発動させた最上級悪魔は、唇を舌先で湿らせて。


「では、いただきます。神様」


 いっそ皮肉なほどにやさしく、聖職者と自分の口元の赤色を重ね合わせた。







 それは、昔の話だ。


 あなたを人間に戻せば、おれの仲間になってくれますか?


 世界を救う。

 そんな大言壮語を悪びれもせず吐き出し、ランジェットを仲間にする、と宣言した少年は、当然の如く教団に捕縛された。その気になれば抵抗もできただろうに、しかし一度抵抗してしまえばランジェットを仲間にする、という目的から離れてしまうと考えたのか……両手を縄で縛られ、地面に組み伏せられた少年はあり得ない提案を教団幹部に向けて告げた。


「あ、わかりました。じゃあ入信します。ランジェット・フルエリンを信仰させてください」


 未来の勇者に成り得るかもしれない、と噂されていた少年の実態は、どこまでも破天荒で、どこまでも狂っていた。あるいは、ただの命乞いだけで入信を申し出たのなら、口先だけの詐欺師で済んだだろう。

 しかし、彼は誰よりも献身的に身を粉にして働き、誰よりもぼろぼろになって魔物たちから信者を守り、僅か一ヶ月ほどで幹部たちの信頼を勝ち取っていった。

 それほどまでの無茶な働き。

 何かの螺子が外れているとしか思えない犠牲の献身。

 負傷し、傷ついた彼をランジェットが優先して治療するようになるまで、かかった時間は僅か一ヶ月ほどだった。


「ランジェさんはさぁ……いつも神様みたいに振る舞ってて、疲れないの?」


 部屋で、二人きりになる治療のタイミング。

 そういう時間を、何の制約もなしに設けられるようになるまで、一ヶ月ほど。


「……あは〜。そりゃあ、疲れるよ〜。肩凝るしダルい〜。治療もめんどい〜。やらなくていい?」

「いや、それは早く治してください。おれが死んじゃいます」


 そのたった一ヶ月で、ランジェットが『素の自分』を見せてもいいと思える程度には、少年は人たらしだった。


「いくらランジェの魔法があるからって、働き過ぎ無茶し過ぎ馬鹿やり過ぎ〜。ちょっと、無謀が過ぎるんじゃないの〜?」

「大丈夫ですよ。おれ、魔法のおかげで硬いんで」

「ウケる〜。そういうことじゃないんだけど〜」

「だって、おれがどんなに死にかけてもランジェさんが治してくれるんでしょう?」

「……あは〜。きみってほんと人たらしだよね〜」

「え? ランジェさん人だったんですか?」

「間違えた〜。神たらし〜」

「そんな言葉あります?」

「今作った〜」


 ランジェットは、ひさしく忘れていた。

 ありのままで偽りなく、人と言葉を交わすのは、こんなにも心地が良いことなのだ、と。

 しかし、同時にこうも思う。

 ありのままの、偽りのない自分を、この少年はどのように感じるのだろうか、と。


「ね〜ね〜」

「なんです?」

「ランジェのこと、どう思う?」

「……どう、とは?」


 ほんの少しだけ、狼狽えた気配。

 その狼狽を楽しみつつ、さらに体を寄せ込んでいく。


「客観的に、未来の勇者様から見て、ランジェット・フルエリンはどんな風に見えるのかな〜って。どんな風に、感じてくれているのかなって」


 言葉の軽さとは裏腹に、わりと瀕死の状態だった少年を、ランジェットは躊躇いなく押し倒した。

 血液が、白いシーツに飛び散る。

 息遣いが荒くなったのは、きっと気のせいではない。

 少年の指先をやさしく導いて、ランジェットは自分の顔に這わせた。


「顔立ちはどう?」

「……きれいです」

「きれいなんだ〜? かわいいじゃなくて」

「いや、もちろんかわいいですよ? かわいいですけど、ランジェさんの顔はどちらかといえばキレイ系かなって」

「そっか〜」


 年の割にごつごつとした男の手。そのくせ、触れる仕草はどこか躊躇いがちで、指のひとつひとつに、生ぬるいあたたかさがあった。

 鼻筋に少年の指先を沈み込ませながら、ランジェットは微笑む。


「じゃあ……にしてみようかな」


 薄皮一枚の、その下で。

 何かが、致命的に歪む感触があった。


「え」


 軋む音一つなく、砕ける音が鳴ることもなく、鼻筋の骨が変形した。

 その事実に歪む少年の顔を、ランジェットはじっと見下ろした。

 見下ろしながら、問いかけ続ける。


「あんまりかわいらしい感じだと、親しみやすさが出過ぎちゃうから〜。だから自分の顔は結構、きれいめに変えてるんだよね〜。鼻筋はもうちょっと低めにして〜頬もちょっと丸くしたら愛らしくなるかな〜?」

「ランジェさん」

「目はもうちょっと大きくしたほうがいいかな〜? 髪質はどうだろうね? ランジェは長いのが好きだけど、少しクセとか付けて、色を変えてみてもいいかなぁ?」

「ランジェさん」

「声はどうかな〜? ランジェ、声は特に気を遣っていてね〜。そこそこ高めでも、よく通るようにがんばって調整したんだ〜。顔は鏡を見ながらイジれるけど、喉を変えるのはわりと大変で……」

「ランジェさん!」

「そんなこわい顔、しないでよ」


 かわいた声音で、ランジェットは自分を案ずる少年を、突き放すように言った。


「これは、変身だよ」


 これが、自分だと。

 これが、自分の魔法だと。

 これが、お前の怪我を治して救う、神に最も近い魔法の正体だ、と。

 ランジェットは、端的にわかりやすく、説明しただけだった。





「ごめんね〜。ランジェ、もう自分の最初の顔……覚えてないんだ〜」





 そう。変身、してしまったから。

 望まれるままに、変わってしまったから。

 だから自分は、もう戻れない。

 絶句する少年を励ますように、あえてランジェットは言葉を紡ぎ続けた。


「もともと、あんまりきれいな顔じゃなかったから……えらいひとに、たくさんイジるように言われてね〜。笑顔の練習とかもその顔でいっぱいしたから、もう戻せなくなっちゃって。忘れちゃって。バカだよねえ」


 少年は、戻すと言った。

 ランジェットを、神から人に戻す、と。

 けれどこの世には、神に奇跡を願ったとしても、叶わないこともある。


「気持ち悪いでしょう?」

「……そんなこと」

「ううん。気持ち悪いんだよ」


 取り繕おうとした否定を、上から言葉で潰す。

 それが、人間としては当たり前の感性だと思うから。

 故に、ランジェットは、それを肯定する。


「目は大きい方がいい。鼻筋は通ってる方がいい。声はよく通る方がいい。肌は白くてきれいな方がいい。胸は大きい方がいい。脚は長い方がいい。指先は細く長い方がいい。たくさん、たくさん変身してね。もう、戻れなくなっちゃった」


 より良く。

 より良質に。

 より美しく。

 そう望み、そう変わることは、本来は正しいことであるはずなのに。

 信仰の対象として変わり続けたこの身体は、人としては気持ち悪いほどに、正しさを重ねすぎた。

 いいや、違う。

 正しさを塗り重ねていった結果、どんな色が正しいのか、わからなくなってしまったのだ。


「ランジェは、人間じゃない神様の方がいい。そっちのほうが……そういう風に在った方が、正しいと思うから」


 黙り込んだ少年の体を、元通りに変身させて。

 その体を、傷一つなくきれいに戻して。

 自分から引き寄せて触れさせた指先を押し戻した上で、ランジェットは告げた。


「だから、ランジェはきみの仲間にはなれないんだ。ごめんね」

「……ランジェさん」

「ん〜?」

「正直に、言います」


 すべての傷が塞がり、活力を取り戻した少年はランジェットの言葉を待たずに、その身体をベッドに押し倒し返した。

 抵抗する間はなかった。

 それは、反撃だった。



「おれは、胸の大きい女性が、わりと好きです」



 それは、告白だった。


「……んん〜?」

「……正しく伝わってませんか? 実はおれは、おっぱ……」

「うるさい黙れ」

「あ、はい。すいません」


 少年は、しゅんと小さくなった。

 股間の方へ視線をやる余裕は、ランジェットにはなかった。

 顔の火照りを悟られないように、あるいは目の前の飢えた獣から身を守ることを優先するために、胸の前で腕を交差させるのが精一杯だった。


「でも、おれはランジェさんの胸が小さくなっても、ランジェさんのことは好きだと思うんです」

「……あは〜。おもしろい。死ねばいいのに〜」

「あ、はい。ほんとすいません」


 こちらを押し倒しているくせに、少年は小さくなった。

 ついでに、少年の股間に触れてあれも小さく変身させてやろうかと、ランジェットは考えた。

 しかし、少年はランジェットの肩を掴んだまま、言葉を続けた。


「でも、そういうことだと思うんです」

「わけわかんない〜。どういうこと〜?」

「戻れないなら、変わり続ければいいじゃないですか」

「……あは〜。なにそれ」

「ランジェさんの魔法は、特別だけど、特別じゃないですよ。だって、人間は死ぬまで変わり続ける生き物だから」


 神様は、とくべつだ。

 人とはちがう。人とは、同じではない。

 でも、それは決して特別なことではないと、彼は言う。


「顔を変えても、目を変えても、声を変えても、体を変えても……魔法は、ずっとランジェさんの中に、変わらずにあるでしょう?」


 とても控えめに。

 少年の指先が決して触れないように、ランジェットの胸の中心を指差す。


「変わり続けるけど、決して変わらない。矛盾に満ちた、見えない臓器。それが、心です」

「……かっこつけすぎ。きみの言葉じゃないでしょ。それ」

「あ、バレちゃいました? おれに、最初の魔法をくれた人の言葉です」


 照れ隠しに笑いながら、少年はランジェットと手を合わせた。

 強引に、顔の周りを這わせた時とは、違う熱。

 やさしく合わせた、手のひらの温もりが、自然と感じられて。


「ねえ」

「はい」

「ランジェがもっと醜くなって。ひどく変わって。原型もないくらい、ぐちゃぐちゃになって。顔も体も、何もかも変わって。そんなランジェを、きみはどうするの?」

「信じます」


 神に向ける信仰ではない。

 縋るような信仰でもない。

 それは、生まれてはじめて、ランジェット・フルエリンという人間が受け取った、ささやかな信頼だった。


「どんな姿でも……どんな姿に変わっても、おれはランジェさんを信じ続けます」

「……あはっ。なにそれ。意味わかんない」


 ランジェットは笑った。

 それを、いくら重ねたところで、ただの言葉である事実に変わりはない。

 それが、嘘なのか。真なのか。

 たしかめる術は、なにもない。

 そのように変わることが正しいのか、自分にはわからない。

 それでも、



「きもちわるいくらい、人が好きだね……きみは」

「きらいですか?」

「ん〜? ……好きに、なってあげちゃうかもね」



 信じる。

 そのたった一言が、ランジェット・フルエリンという人間を変えたのは、紛れもない事実であった。

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