翡翠の聖女はその身を変える

 殺すつもりで吐き出した結果が、相殺に終わった。

 なかなか良いドラゴンだ。

 ランジェット・フルエリンは、口元を釣り上げた。魔法の影響で鋭くなった犬歯の隙間から、火の粉が吐息のように漏れる。


「ゆうく〜ん。指示ちょーだい〜」

「っ……賢者ちゃんの魔法がかき消された! とりあえず、あのドラゴンに何が効いて何が通じるのか試したい!」


 ランジェットの問いかけに、勇者が端的に答える。

 すっかり立ち直った様子の彼の声は、とても心強いものだった。

 女の子が軽い怪我をしただけで、動揺する。先ほどはダメ出しをしてしまったが、ランジェットにとっては彼のそういうところも、また可愛らしい。


「おっけ〜。おねーさんにまかせなさ〜い。アリア〜! 船、思いっきり寄せて〜!」

「もぉおおおお! 聖職者さん人使い荒いって!」


 舵を取るアリアの文句を聞き流しつつ、ランジェットは右手のロンググローブを歯で噛み、引っ張って脱ぎ捨てた。同時に肩口に手をやって、いくつかの留金を外し、右の袖も剥ぐ。一切の露出のない貞淑な法衣のシルエットが、一瞬でノースリーブのワンピースのように変化する。

 自身の魔法の特性上、ランジェットが日常的に着用する衣服は、部位ごとに脱ぎ捨てることができるように特注で作り込んである。そうでもしないと、本気で魔法を振るった瞬間に、衣服が意味を成さなくなってしまうからだ。


「みんな振り落とされないようにね『翠氾画塗ラン・ゼレナ──」


 船首に立つランジェットは、腰を落とし、脚を広げ、構える。

 それは、予備動作だ。

 怪物の王を、物理的に殴打するための、用意。

 ランジェットは、自身の右腕を塗り潰し、変化させる。



「──変貌メタエント巨人の鉄拳アイアボルグ』」



 翡翠の聖女の右腕が、膨れ上がった。

 巨大なドラゴンの腹部に、常識外の拳が突き刺さり、殴り飛ばす。

 痛みに打ち震える竜の叫びが、大気をごうと震わせた。


「あは〜。殴れるじゃーん。物理有効〜!」


 ニィ、と。たしかな手応えに満足して、聖女はほっそりとした華奢な腕でガッツポーズを示した。

 しかし一方で、そんな強烈極まる打撃の足場にされた船は、たまったものではない。船体が横滑りし、天地がひっくり返るかのように、激しく揺さぶられる。

 世界を救ったパーティーが、たった一人の仲間の好き勝手な攻撃の余波に、絶叫する。


「のぁああああああ!?」

「揺れる揺れる! 転覆するって!?」

「あ、空の上でも転覆するって言うのでしょうか? 上下逆さまになるだけでは?」

「言ってる場合か!?」

「む。おはよう。なんかあった?」

「師匠はやっと起きたんですか!?」


 阿鼻叫喚の地獄絵図の中で、しかしシャナが声高に叫んだ。


「とにかく、物理攻撃なら有効のようです!」

「じゃあ〜もう一発殴る〜?」

「やめてー! 今度こそ絶対転覆するからーっ!」

「そこはアリアの腕でなんとかしなよ〜」

「無茶言うなー!」


 明らかなピンチ。目の前には強敵。それでも、ぎゃーぎゃーと喚きあう。

 それが楽しくて、懐かしくて、ランジェットは誰にも気づかれぬように、また微笑んだ。


「ゆうく〜ん。近づきにくいから、当てやすいようにして〜!」

「……あー、もうっ! 当てやすくするから、!?」


 口と態度だけは文句を言っていたが、そんな様子とは裏腹に。

 勇者はランジェットの言葉に応えるために、空中に身を躍らせた。

 要するに、船から飛び降りた。


「いぃ!?」

「勇者さん!?」


 常軌を逸した、正気を疑う行動だった。

 自由落下する獲物を、ドラゴンは逃さない。

 空を飛べない人間は、どこまでいっても翼を持つ生物には勝てない。


「コール。ジェミニ・ゼクス──」


 とはいえ元より、勇者は翼を持ったバケモノに、一人で勝つつもりは毛頭ない。



「──哀矜懲双へメロザルド



 勇者と、視界の中に納めたドラゴンの位置が入れ替わる。

 初見では対応できない転移。回避のためではない。味方に攻撃を当てさせるための、位置の入れ替え。


「はい、どーん!」


 直上より、もう一撃。

 先ほどよりも重く深く食い込んだ拳が、巨大な竜を一撃で叩き落とした。


「あは〜! 楽しい〜!」


 久方ぶりの連携に歓喜の声をあげる聖職者の体は、もはや

 ランジェットは、法衣の背中側を切り離して、すっぱりと脱ぎ捨てていた。理由は明白。空を駆けるために、背中の布はとても邪魔だからだ。


「人間さまは、飛べないって思った〜?」


 竜は、見上げる。

 不遜にも自身の直上を駆ける、翼の姿を。

 モンスターが、声を発することはない。しかし、竜はたしかに、驚愕で目を見開いた。

 魔術による人間の自由飛行は、未だに成立していない。今この瞬間も、彼らは魔力に頼り、道具に頼り、船という乗り物に縋って、空にしがみついている。

 魔術だけでは、空は飛べない。

 では、魔法なら? 


「あのさぁ。聖職者さん」

「んー?」

「落っこちるところを助けてくれたのは本当にありがたいんだけど、できればお姫様抱っこ以外がいいっていうか」

「あは〜。ゆうくん照れてる」

「うるさいな!?」


 聖女は、見下ろす。

 翠の色魔法は、人の身体に翼を与える。理屈はない。心がそう望むのであれば、そのように体を作り変えてみせる。

 自分自身と触れたものを『変身』させる。

 それが翡翠の聖女、ランジェット・フルエリンの『翠氾画塗ラン・ゼレナ』である。

 太陽を背に翼をはためかせ、宙を舞う姿は正しく天の御使い。

 人々の信仰を一身に背負うだけの力を秘めた、奇跡の色魔法。

 それは元々、人々に望まれた姿に、自分を変えるための魔法だった。

 今は違う。

 これは本来、自分が望む姿に、変わるための魔法だ。

 それを教えてくれたのは、勇者だ。

 たとえ、月日が経とうとも。

 たとえ、その名を呼べなくなろうとも。

 絆は消えない。事実は変わらない。

 ランジェット・フルエリンが、世界を救うパーティーの一員であった事実は揺るがない。


「相変わらず無茶苦茶するなぁ……」

「でも、わたしがどうせ助けてくれるって思ったから、船から身を投げ出せたわけでしょ〜?」

「いやそれはまぁ……」

「ゆうくんは、わたしのこと好き?」

「そりゃあ……きらいではありませんが」

「あは〜。急に敬語」

「うるさいなぁ!?」


 彼を抱きかかえて滑空しながら。

 その命の是非を握りながら、ランジェットは勇者に向けて囁いた。


「ランジェはねぇ、ゆうくんのこときらーい」

「えっ」

「ランジェを置いていくゆうくんがきらい。ランジェにかまってくれないゆうくんがきらい。ランジェに相談もせずに魔王をひろってくるゆうくんがきらい」

「……あの、はい。すいません。そういう文句、本当にあとで正座して聞くんで今はその」

「でも、そういうきらいなところぜーんぶひっくるめて、おねーさんはゆうくんを許してあげましょう」


 どうせ、この勇者はみんなから好かれているのだ。

 だから一人くらいは、聞こえない名前を連呼して、大嫌いだと言ってやるお姉さんが近くにいた方がいい。

 ひきつる彼の横顔を口吻できる距離感で堪能して、ランジェットはこの日一番の笑みを深く深く、なによりも楽しげに浮かべた。


「またランジェがゆうくんのことを大好きになれるように……がんばってかっこいいところを見せてね」

「うす。がんばります」


 ばかなおとこは、間違うもの。

 いいおんなは、人に許しを与えるものだ。

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