翡翠の聖女は空を舞う
風圧で、マストが軋む。帆を繋ぐロープが、ギシギシと耳障りな悲鳴をあげる。
「……あっぶねえ」
騎士ちゃんがおれの意味不明な指示に反論一つなく従ってくれていなければ、今の急上昇だけでこの小さな船は粉々になっていただろう。
「ちょっと勇者くん!? なんかドラゴンみたいなでかいヤツが見えるんですけど!」
「ドラゴンだよ!」
「なんで!?」
「おれが聞きたいわ! 下げ舵! 高度落とせ!」
指示を出しつつ、その巨体を見上げる。
ジェミニが操っていたあのドラゴンよりも、明らかに大きい。一回り、いや二回り以上はあるだろうか。
どうしてこんなところにドラゴンが生息しているのか、とか。
なんでおれたちを目標に定めて襲ってきているのか、とか。
色々と突き詰めたい疑問はあるが、それよりもなによりも、
「なんでこの距離まで、あんなデカブツの接近に気が付かなかったんだ!?」
「賢者さまの索敵がお粗末だったのではありませんか?」
「うっせえですね。こちらの探知に引っかからなかったのは事実なんですから、仕方ないでしょう」
「とはいえ、あれに気づかないってのは」
明らかにおかしい。
そんな言葉を紡ぐ前に、おれの視界の片隅で、何かが倒れた。
「赤髪ちゃん!?」
抱き上げると、鮮やかな赤い髪の間から、ぽたぽたと違う色が落ちる。
……血だ。
全身が、すっと冷えていくのを、おれは他人事のように感じた。
すぐに駆け寄ってきた死霊術師さんが、容態を確認する。
「まずいですわね。先ほどの揺れの時に、強く頭をぶつけられたようです」
「……くそっ。賢者ちゃん!」
「言われるまでもありません……
おれが指示するまでもなく、賢者ちゃんは既に魔導陣の展開を終えていた。
軍用船の側面に備えられる、大砲の如く。魔法によって一瞬で増やされた合計百門の理不尽極まりない大火力が、ドラゴンに向く。
「
一斉射。
数え切れない火線が上空のドラゴンに向かって立ち昇り、完全に直撃する──
「おーほっほほ。さすがは賢者さま! 瞬殺ですわ〜!」
──はずだったそれらが、跡形もなく霧散した。
「はあ!?」
「賢者さま、もしかして今日は調子悪い日ですか? お腹が痛いとか? 明らかに攻撃届いていませんが」
「あなたはもう黙っていてください」
おかしい。
賢者ちゃんの調子が悪いとか、攻撃が届いていない、とかではなく。
明らかに、あのドラゴンに当たる前に、魔術攻撃が消えた。
防御魔導陣の類いではない。魔導陣が展開されているような素振りはなかった。
あれはまさか……
「……魔法?」
「ドラゴンがですか? さすがに冗談きついですね。トカゲの成り上がり風情が魔法を使うのは、千年早いですよ」
言いながらも、賢者ちゃんも目を細めてその竜の姿を見上げる。
こちらが攻撃を加えたということは、当然あちらからの反撃がくる。
予備動作はなかった。吐き出された火球は、明らかに普通の竜種が吐き出すそれとは、一線を画す威力を誇っていた。
「っ……防御魔導陣!」
「展開します」
着弾、爆発、衝撃。
幾重にも重ねられた熱風の暴力が、上方から叩きつけられる。
賢者ちゃんが展開した魔力の壁がなければ、今の一息で終わりだっただろう。
やばい。そして、まずい。
通常、遠距離攻撃手段を持つ大型モンスターを相手にする際、パーティーは散開するのがセオリー。敵の大火力で、一網打尽にされないためだ。しかし今、おれたちがいる場所は空中というドラゴンのフィールド。そして、船の上のおれたちは、どうしても密集せざるを得ない。
「……賢者ちゃん」
「一発ずつならなんとか防ぎ切れるかもしれませんが、連射されたら保証はできかねます」
こちらの主な遠距離攻撃手段は、賢者ちゃんの魔術攻撃のみ。それも何故か、あのドラゴンには届かない。
攻撃と防御は同時にはできない。
致命傷を与えるためには、どうしても接近する必要がある。
かといって、迂闊に船を寄せれば一瞬で粉々にされるのが関の山だ。
考えろ。考えろ。考えろ……!
あのバケモノを倒すために必要なものを。
火力が欲しい。
空中を自在に駆ける機動力がほしい。
火力……赤髪ちゃんの雷撃魔術なら、もしかしたら届く?
でも、ケガをして、血を流している女の子に、そんな無茶を?
そもそも、早く治療してあげないと、死霊術師さんの魔法で蘇生できない赤髪ちゃんは……
「はい。落ち着いて〜」
背後から赤髪ちゃんの体に触れた手が、出血を一瞬で止めた。
翠の魔法。聖女の加護。神の奇跡。
数年ぶりにそれを見せられて、思わず息を呑む。
「聖職者さん……!」
「はーい。まず深呼吸〜。焦らないで〜、とりあえず、あーちゃんは『
とんとん、と。
聖職者さんがおれの背中を叩く。今度はべつに魔法を使っていないはずなのに、さっきまでの興奮が嘘のように、呼吸が落ち着いた。
「……すいません」
「謝らなくていいよ〜」
「勇者くん! 第二波来るよっ!」
騎士ちゃんの警戒の声に、前を見る。
前方に迫るドラゴンは、その口から溢れんばかりの火炎の渦を吐き出していて。
「あはっ……『
それに対して、船首に飛び乗った聖職者さんは、前を見てただ嗤った。
魔力の励起はない。
魔導陣の展開もない。
武器を構えることすらしない。
ただ、その身一つで、可憐な美女は、モンスターの王から吐き出された暴力の渦に向き合う。
防御はなかった。
「──
選択されたのは、奇しくもまったく同じ攻撃だった。
ドラゴンと同じように。
まるで、その身が竜であるかのように。
聖職者さんは、大口を開けて、巨大な火の玉を吐き出した。
激突、衝撃。そして、相殺。
巨大なドラゴンのブレスが、賢者ちゃんの防御魔導陣でも受けきれるか怪しいほどの熱量の塊が、たった一人の人間の一息で、完封される。
「ふぅ……! お昼寝の邪魔をしたのは、お前かな?」
脱ぎ捨てた頭巾から、絹のような長い髪が零れ出て、風に舞う。
船主に立つ法衣が、はためいて揺れる。
「お空の上でドラゴンが相手だなんて……ひさびさに冒険らしくなってきたねぇ、ゆうくん」
おれたちの
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