勇者と聖職者さん・ファーストコンタクト

 人を神様にする最も簡単な方法。

 それは、信仰を集めることだ。

 翡翠の聖女、ランジェット・フルエリンが神になるための養育を受け始めたのは、彼女が五歳の頃である。

 翠の色魔法が発現すると同時にその力に目をつけたとある教団は、まだ幼い少女を信仰の旗印にするため、徹底的な英才教育を施した。食事、睡眠、教育。少女を取り巻くすべてを管理し、少女に影響を与える可能性のある不純物は意図的に取り除かれる環境の中に閉じ込めた。

 籠の中の鳥、という例えすら生温い環境の中で行われたのは……人に愛されるための人格の形成。

 人の目を引く、所作を作る。人の感情を惹きつける、視線を作る。人の心を掴む、話術を作る。普通の人間が普段、当たり前に行っているコミュニーケーションを、人を無意識に惹き付ける高いレベルで、習熟させる。

 少しずつ、しかし意図的に『民衆に愛されるたおやかな修道女』の造形を、気の遠くなるような毎日の繰り返しによって、繊細で汚れのない硝子細工のように仕上げていく。

 あるいは、年頃の少女なら逃げ出してしまうかもしれないその日々に、ランジェットはしかし平然と適応してみせた。


 彼女の心が、からだ。


 人々から信仰を集める最も簡単な条件は、彼らに奇跡を見せること。そして、魔法とは須らく、人が望む奇跡の再現である。常識を覆す異能。魔術とは根本から異なる、超常の力こそが、魔法。

 なによりも都合の良いことに。翡翠の聖女、ランジェット・フルエリンの魔法は、彼女を神の遣いとして認識させるのに、十分過ぎるほどの力を伴っていた。

 ランジェット・フルエリンの魔法が『救済の奇跡』として広く知られるようになった頃。後に勇者と呼ばれることになる少年が教会にやってきたのは、本当にただの偶然だった。


「魔王軍の四天王と、小競り合いがあったようです。教団も襲撃を受けましたが、現地の冒険者の彼らが身を呈して庇ってくれました。ぜひ、彼らにも奇跡の加護を」


 魔法による加護の祝福は、基本的に信者しか受けることができない。しかし、その経緯を仲介役の神父から聞いたランジェットは、ゆったりと頷いて微笑んだ。


「感謝いたします。勇敢な冒険者よ。どうぞ、前へ。私の手を取ってください」


 言葉を受けて、土と汗と血に塗れた少年が、顔を上げる。

 後悔と悔しさが、多分に滲んだ表情だった。


「……自分は結構です。それよりも先に、彼女の治療をお願いできますか?」


 お姫様抱っこの形で抱え込んだ金髪の少女を差し出して、少年はまた頭を下げた。仲間に対して、どこまでも献身的な姿勢だった。

 顔を隠していたヴェールの前を引き上げて、ランジェットは金髪の少女の傷を見る。腹部に裂傷。右足と左腕が折れている。頭部にも大きな外傷が見て取れた。

 体温が下がりつつある、その身体に触れる。

 このまま放置していれば、間違いなく死に至る重傷。治癒魔術のスペシャリストが持てる技術の全てをを駆使しても、全治数週間は掛かるだろう。


「身体の力を、抜いてくださいね……『翠氾画塗ラン・ゼレナ』」


 しかし、ランジェットの魔法ならば、一瞬で終わる。

 滴り落ちる、血の流れが止まる。縫わなければ塞がらないはずだった外傷が、跡も残さず消滅する。荒かった少女の呼吸が、やわらかなものに戻る。

 目の前で立証された聖女の奇跡に、少年は大きく目を見張った。


「もう大丈夫ですよ」

「これは、魔法ですか?」

「ええ。この身に、我らが主より授けられた、奇跡の力です」


 目を見開いたまま、少年は驚愕で塗り固められたように、動かなくなった。

 いつもと同じ反応だ。ランジェットは、内心で薄く溜め息を吐いた。自分の魔法の力を目の当たりにした人間は、大なり小なり、こんな顔を見せる。

 最初は、救ってくれたことへの感謝で満ちていた表情は、すぐに理解できないものを見る恐れに塗り替わり、やがて頭を垂れる崇拝に書き換わる。

 とはいえ、恐れを抱かせてしまっては、ろくな治療もできない。ランジェットは少年の警戒心を解くためにやさしく手を伸ばして、語りかけた。


「恐れる必要はありません。さあ、あなたにも奇跡の加護を……」

《b》「その魔法、欲しい!」《/b》

「ひゃあ!?」


 自分から、がっしりと。少年は自ら手を伸ばして、ランジェットの手袋に包まれた手を、力強く掴み取った。

 礼を失した少年の行動に、周囲が大きくざわつく。

 今、この少年はなんと言った? 

 まさかとは、思うが。

 恐れ多くも、浅ましく。

 我らが主の奇跡を「その魔法、欲しい」などと、宣ったのか? 

 驚きで跳ねかけた胸の内をなんとか鎮めて、ランジェットはなぜか目を輝かせている少年に向けて、優しく言葉を紡いだ。


「欲しい、という言葉は、あまり穏やかではありませんね。身勝手な強欲は、常に争いの種になります。あなたにそのつもりがなくとも、周囲の人々からいらぬ反感を買うかもしれませんよ?」

「す、すいません。失礼しました」

「興奮するのは、わかります。主の奇跡を目の当たりにすれば、驚くのも無理はありません。いかがでしょう? もしもあなたが、より深い主の慈悲の側に身を置きたいというのなら、我々と共に……」

「あ、そういうのは大丈夫です」


 入信の誘いをあっさりと蹴り飛ばして、少年は無邪気に笑った。


「だって、アリアを助けてくれたのは、あなたの魔法ですよね? べつに、神様の力じゃない」


 たった一言で、この場にいる全員を敵に回しかねない、劇物のような発言。

 ただの一言で、少年はランジェット・フルエリンが最も触れられたくない、核心の一つを突いた。


「おれ、魔王を倒して、世界を救いに行きたいんです。これから先の旅路で仲間を失わないためにも、あなたみたいな回復に特化した魔法使いがいてくれると、とても心強い。無理で急なお願いであることは、もちろん理解しています。ですがどうか、おれの仲間になってくれませんか?」


 あまりにも馬鹿げた提案。厚かましい願いだった。

 ざわり、と。剣呑な気配が、さざ波のように広がっていく。

 しかし、身構えた周囲の人間達を片手で制したのは、他ならぬランジェットだった。


「あなたのお気持ちは、嬉しく思います。しかし、この身は地の底に眠る我らが主の代行。あなたのためだけに、私の力を振るうわけにはいかないのです」

「……それはつまり、あなたは神様だから。だから、おれ個人に力を貸すわけにはいかない、と。そういうことですか?」

「まあ、そうなりますね」


 まだ年若い少年らしい。そのたどたどしい解釈に、ランジェットは再確認するように、ゆっくりと頷いた。


「なるほど。それなら、一つ質問があります!」


 ランジェット・フルエリンが、後に勇者と呼ばれる少年と出会ったのは、本当にただの偶然だ。

 誰かが仕組んだわけでもない。彼が、自ら望んで自分に会いに来たわけでもない。

 しかしだからこそ、今になってランジェットは思う。




「あなたを人間に戻せば、おれの仲間になってくれますか!?」

「……はぁ?」




 あの日の出会いは紛れもなく、自分にとって、奇跡だった。

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