ニューゲーム『ルナローゼ・グランツ』


「……」


 開け放たれた扉の前で、立ち尽くしたまま、ルナローゼは封筒を握り締めた。

 今すぐに開くべきか、迷っていると背後から声を掛けられた。


「ルナローゼ・グランツ様ですね?」

「はい」


 もしや、また人の皮を被った人外の類いか、と。

 あからさまに警戒する様子を見せたルナローゼに対して、身綺麗なスーツを着込んだ女性は、声を和らげた。


「突然の訪問を、どうかお許しください。私は、銀行の者です。リリアミラ・ギルデンスターン様より、ご依頼を受けて参りました」

「社長から?」

「はい。お祖父様……アルカウス・グランツ様からの遺言状と相続に関連する事項を、こちらにお預かりしております」

「それは……?」


 なぜ今更、と。

 疑問に思ったことを見透かしたように、女性は書類の束を胸の前で抱えて、微笑んだ。


「お聞きになれば、分かっていただけるかと思います。開封には、私が同席するよう命じられております。よろしければ、口頭で読み上げさせていただいても?」

「……わかりました。あがってください」

「では、失礼いたします」


 部屋の中に入ってもらい、ルナローゼの目の前には、二つの書面が並んだ。

 彼と、祖父が、自分に遺してくれたもの。

 少し悩んだが、祖父の遺言を聞きつつ、ルナローゼはサジタリウスの手紙を開くことにした。


「愛するルナローゼへ。おそらく、お前がこれを聞いている時、自分はこの世にいないだろう……」


 淡々と読み上げられる祖父の言葉を耳を傾けながら、意を決して封筒を開く。

 遺言状にしてはあまりにも可愛すぎる薔薇の便箋には、所狭しとサジタリウスの不格好な字が踊っていた。


 ルナへ。お前が、これを読む時、オレはもうこの世にいないだろう


 そんなところまで、似なくてもいいのに。

 祖父と彼の言葉が、手紙でまで被っていることに、ルナローゼは堪らず苦笑した。


「自分は祖父として、お前を甘やかしてばかりだったから、いくつか注意を遺しておく」


 オレはお前に甘えてばかりだったわけだが、まあ最後くらいはオレからの忠告も聞いておけ


「体は仕事の資本であるから、健康には気をつけろ。食事は幸せの基盤であるから、良いものを摂れ。睡眠は体の土台であるから、仕事に追われて睡眠を疎かにしてはならない」


 風邪には気をつけろ。食事は疎かにするな。あと、服だけ脱いでソファーで寝るな


「遺産はあまり残せないが、グランツの会社の看板と名義は、すべてお前に贈る。これらは然るべき時まで、リリアミラ・ギルデンスターンに預け、彼女の判断により、お前に贈られるように相続を整えておく。継いでくれると、嬉しい」


 オレは仕事のことは何もわからんが、お前なら上手くやるだろう。あまり心配はしていない。オレに遺せるものはそんなにないので、とりあえず金だけはお前に渡るようにしておく。会社に使ってもいいし、馬に賭けてもいい。好きに使え


 額面の大きさを見比べて、驚いて。

 それから、ルナローゼは可笑しくて、また笑いそうになった。

 もしもあの祖父が、自分が遺した資産よりも、彼が遺した資産の方が金額が大きいことを知ったら、さぞ悔しがるだろう。


 ──ククク……ありがとう。倍にして返す


 そういえば、彼はクズでカスでヒモなどうしようもない男だったけれど、約束は守る男だった。


「仕事の話ばかりしてしまったが、正直そんなことはどうでもいい」


 金の話ばかりになってしまったが、金がなくても人間は生きていけるものだ


 文字の温かさを、目で追う。

 言葉の温もりを、耳で感じる。


「お前は、おばあちゃんによく似た美人になるだろう。誠実で真面目な良い人を見つけて、幸せになりなさい。あと、自分が言えたことではないのは重々承知しているが、ギャンブルが好きな男はやめておきなさい」


 お前は言葉はキツイが、良い女だ。オレよりもイケメンでかっこいい男が、その内見つかるだろう。まあ、オレよりすごいイケメンじゃなかったとしても、お前に惚れ込む男はたくさんいるだろうから、しっかり心を射止めてやれ


 祖父と彼は、べつに似ていない。

 そもそも、人間と悪魔だ。同じ生き物ですらない。


「繰り返しになるが、最後にもう一度だけ伝えさせてほしい」


 もう十分に理解していると思うが、最後にもう一度だけ、言っておこう


 でも、二人の好きなものは、とてもよく似ていて。

 二人の間には、たしかに結ばれた友情があって。





「お前を愛している」

 お前を愛している





 それは、こんなにも、深く、大きく、強く。

 祖父と彼は、自分を、愛してくれていた。


「……ぁ」


 瞳から零れ落ちる涙が止まらなかった。

 吐き出した嗚咽が収まらなかった。

 一人で生きていかなければ、と思っていた。

 これからは、強くならければいけないと思っていた。

 違う。

 遺してくれたものがある。

 二人との思い出は、この心に秘めて、ずっと残しておけるものだった。

 思い出して良い。

 これから何度も、思い返して、泣いていいのだ。

 きっと、今日、この日のように。


「うっ……ぁぁぁぁ」


 泣いて、泣いて、泣いて。

 気がつけば、ルナローゼは流せるだけの涙を、流し尽くしていた。


「落ち着かれましたか?」

「……はい」

「大丈夫ですか?」

「大丈夫に……なります」

「お強いですね」

「……いいえ。私は弱いです」


 目元を拭ったルナローゼは、ゆっくりと顔を持ち上げた。


「だから、これから強くなります」

「……はい。それは経営者として、とても素晴らしい心構えかと思います」


 律儀に気持ちを整理するだけの時間をくれた女性は、やはり生真面目にハンカチを差しだしてくれた。

 有り難く受け取って、聞き返す。


「相続の確認と、遺産について。詳しいお話を伺ってもいいですか?」

「もちろんです。下に馬車を回してありますので、よろしければそちらへどうぞ」


 一つ。女性は礼をしてから、立ち上がったルナローゼに向けて、新たな敬称を付け加えた。


「ご案内させていただきます。社長プレジデント



 ◇



 リリアミラ・ギルデンスターンは、彼女の住まいから離れていく馬車を見送って、空を見上げた。

 死は終わりだ。

 死は決して美しいものではない。

 それは、どんなに飾り立てたとしても、冷たく、醜く、悲しいものであるがゆえに、必ず人の心に傷を残す。

 それでも。

 この心の色が、指先一つで死という終わりを覆せるからこそ、信じたいものがある。


 ──は、はじめまして! ルナローゼ・グランツです。わ、私のような若輩者に秘書業務が務まるか不安ですが……がんばります!


「お転婆娘が、社長の椅子に戻る」


 それは、一人の人間と、一人の悪魔が望んだもの。

 誰に聞かせるわけでもなく。

 あるいは、己自身に言い聞かせるかのように。


『退職願 ルナローゼ・グランツ』


 死霊術師は、もはやなんの役目も果たさない紙面を丁寧に折り畳んで、大切に懐へと入れた。


「契約は果たされた」


 紙一枚分の重さが、なによりも心地良かった。

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