勇者は宿敵を見ない
賢者の戯言に耳を貸すことは放棄して、トリンキュロは抵抗した。
上半身だけになった体をなんとか引き起こしながら、揺れる壁面を拳で殴りつけた。
触れて、魔法を発動させる。
形があるなら、それを変えてしまえばいい、と。強引に『
無駄だった。やはり指先が弾かれて、不格好に蠢く水の塊が壁面から剥がれ落ちる。
実体があるなら、力で強引に破ってしまえばいい、と。力任せに『
やはり無駄だった。壁面は衝撃の一切を吸収して殺し、ヒビが入る気配すらない。
それでも、壁面そのものの特性を変えてしまえばどうにかなるはずだ、と。縋るような思いと共に『
どこまでも無駄だった。触れた箇所は、どろどろに溶けて、腕に纏わりついた。
何もかもが、通じない。
トリンキュロが身体に宿す、数多の魔法が無力と化す。
「流水形成型鏡面多重拘束魔導陣……まあ、ちゃんとした名前は、そのうち考えるとしましょう」
「展開のためには、私が四方に立ち、魔力を注ぎ込み続けなければならず」
「おまけに、魔導陣の術式構築までに、十分以上の時間を要する」
「率直に言って、欠陥品もいいところですが」
「四天王第一位を、閉じ込めることができる」
「今は、その成果さえあれば十分です」
欠けた体で、芋虫のように籠の中で足掻く、かつての四天王第一位を見下ろして。
純白の賢者の頬が、隠しきれない興奮を伴って、紅潮する。
「ねえねえ、トリンキュロ」
「今、どんな気持ちですか?」
「散々見下して」
「一度は完璧に殺したと思った相手に、してやられる」
「リベンジ大失敗」
「そういうのって、どういう気持ちですか?」
「ほら」
「答えてみろよ」
敗者を、徹底的にいたぶる。
敗者を、執拗なまでに折る。
ともすれば悪辣な賢者の嘲笑に、トリンキュロは答えた。
律儀に、回答することを、選択した。
「流水系の魔術を器用に応用しているね」
「は?」
「展開した魔導陣全体に、魔法を感知する術式を織り込んであるのかな? 魔法が触れた瞬間に接触した部位を切り離して、干渉をその部位だけに、最小限の形で留めている。かといって、壁面が脆いわけじゃない。変幻自在のスライムで作った監獄みたいだ。本当に、良く出来ていると思うよ」
「……本当に、反吐が出るほど気持ちの悪い悪魔ですね。この期に及んで、まだ私のことを理解しようとするなんて」
「ああ。それはもちろん。きみの魔法を手に入れることは、魔王様の悲願だったからね、グランプレ」
「くだらない御託は結構です」
そこで会話を打ち切ろうとしたシャナは、しかし何かに気がついたように、杖を振り下ろそうとする手を止めた。
「ああ。そういえば」
「聞き忘れていました」
「トリンキュロ」
「最後に」
「これは本当に」
「些細な質問なんですが」
あれだけ勝ち誇っておきながら。
あれだけ見下ろしておきながら。
あれだけ嫌悪感を示しておきながら。
最後の最後に、トリンキュロを取り囲む賢者たちの笑顔と興奮が、ぬるりと抜け落ちる。
「あなた、勇者さんを何回殺しましたか?」
「あ? いや……くくっ……ふはははははは!」
トリンキュロは、切り離されても辛うじて残っている腹を、器用に抱えた。
我慢の限界だった。
自分にはこれだけの代えがいるというのに。
死んだところで、何度でも生き返るというのに。
そんな些細なことを気に掛け、感情を剥き出しにする賢者の人間性の妙に、悪魔は大笑した。
もはや抵抗を諦め、大の字になって、トリンキュロは答えた。
「賢いんだろ? お前がちゃんと数えておけよ。ばーか」
「ええ。覚えてないなら、どうでもいいですよ」
拘束結界の直上に、蓋をするように。
シャナは最後の仕上げとして、攻撃魔導陣を展開する。
一つ。二つ。そんな、簡単に数えられる数ではない。
まるで獲物を飲み込む蛇のように、数珠繋ぎになった魔導陣の数は、ちょうど百。
「砲撃魔導陣を百連で繋ぎました。その狭さでは、拡散も無駄です。ぜひとも、百回死んでください」
「勘弁してくれ。普通の悪魔は一回死んだらそれで終わりなんだよ」
トリンキュロは、視線を左右に動かして探す。
死を目の前にして、その姿を追い求める。
終始、蒼の魔法に苦しめられた、イトではない。
直接の敗因に繋がった、アリアではない。
今、この瞬間に己にとどめを刺そうとしている、シャナでもない。
トリンキュロは、世界を救った勇者を見た。
負傷したサジタリウスを助け起こして気遣いながら、こちらを見ようともしない……魔王を殺した勇者の背中を。
「……あーあ」
また勝てなかった。
辛い。
悔しい。
悲しい。
恨めしい。
胸の内に渦巻くこの感情を、この心を、正しく形容する言葉を、トリンキュロ・リムリリィは知らない。
故に、それでも、悪魔は口を開いた。
すべてを奪われても、その意志だけは口にするために。
「次は負けないよ。勇者」
四天王第一位の小さな体は今度こそ、完全に魔力の奔流に呑まれて消えた。
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