賢者の逆襲

「……なぜだ」


 敗北を喫したトリンキュロが最初に抱いたのは、純粋な疑問だった。

 地面に倒れ伏し、感覚を失った下半身が吹き飛んでいくのを、呆然と眺める。

 四天王第一位の身体は、腰の上を境界線にして、真っ二つに裂かれていた。しかし、体が二つに分かれた程度で、トリンキュロ・リムリリィが死ぬことはない。

 過不足なく、思考は働く。

 故に、考えてしまう。

 地面にうつ伏せに這いつくばりながら。指先の爪を立てて、悔しさを滲ませながら。

 それでもトリンキュロという悪魔は、単純な好奇心からそれを問いかけずにはいられなかった。


「アリア。きみの心は、完璧にへし折ったはずだ……それなのに、なぜ……」

「名前で呼ばないで。耳が腐る」


 低い声で拒絶しながらも、アリアはトリンキュロを見下して疑問に答えた。


「心は、折れてたよ」


 ただ、事実のみを告げる。


「あたしは、お前に負けて、魔法を奪われて、無様に殺されて、やっぱり勇者くんがいないと……何もできなくて」


 それでも、と。


「勇者くんの、視線を感じた。あたしを、見てくれていた。あたしが立ち上がって、お前にトドメを刺すことを信じていた。その信頼に、応えないのは嘘だ」


 人の心は、強いようで脆い。

 些細な一言で、悪意に満ちた指摘の一つで、簡単に折れて壊れて、砕け散る。

 言葉とは、人の心を射る矢だ。

 しかしだからこそ、長年培ってきた信頼と行動は、いとも容易く、悪意に満ちた言葉を超えていく。

 一人ぼっちのトリンキュロに、それは理解できない。


「それだけか。それだけで、お前は立ち上がったのか?」

「うん」


 アリアが生き返ったのは、リリアミラの魔法のおかげだが、紫の魔法で元に戻すことができるのは、体だけ。

 折れた心をもう一度引き戻したのは、間違いなく勇者とアリアの関係、そのものだった。


「酔狂だね。あいつも大概だけど、きみもやっぱりイカれてるよ。アリア」

「でなければ、勇者の隣に立つ資格はないよ」


 姫騎士と言葉を交わしながら、悪魔は地面を這う。

 トリンキュロは、足掻くことをやめない。『因我応報エゴグリディ』の再使用まで、六十五秒。

 体さえ、この体さえ復元できれば。

 まだ、打てる手はいくらでもある。


「待たせましたね。トリンキュロ」


 そんなトリンキュロの思考を、嘲笑う存在があった。


「グランプレ……」

「ええ。私です」


 いつの間に、そこまで増えていたのだろうか。

 這いつくばるトリンキュロを、取り囲むように。

 地面を走る蟻の一匹を、決して逃さないように。

 複数人に増えたシャナ・グランプレが、トリンキュロを包囲していた。


「待たせたっていうのは、どういう意味かな?」

「そのままの意味ですよ。あなたという悪魔に、とどめを刺す用意です」


 杖の先端が、無慈悲に向けられる。


「おかしいとは思いませんでしたか?」

「いくら、広範囲の攻撃魔術が使えない地下とはいえ」

「いくら、あなたが最初から、私たち全員が全力を出せない環境に誘い込んだとはいえ」

「あんなにも優秀で」

「あんなにも有能で」

「あんなにも用意周到な」

「あの勇者パーティーの賢者が!」

「あの世界最高の賢者が!」

「あまりにも存在感が薄すぎると!」

「そう疑問には思いませんでしたか?」

「もしも」

「ええ、もしも」

「もしも、疑問に思わなかったのなら」


 何人も、何人も、何人も。

 まるで精巧に作られた人形のように、増えていくシャナ・グランプレが、トリンキュロの周囲を取り囲む。声が幾重にも折り重なって、嘲笑が響き渡る。


「てめーは私を舐めすぎなんですよ。クソロリ四天王」


 直後、トリンキュロの周囲に変化があった。

 まるで、外界からの影響をすべて断つように。

 円形ではなく、四角形に形成された魔術結界が、トリンキュロを外界から遮断する。


「……はは。得意げな顔で何を披露してくるかと思えば、こんな結界でボクを……」


 言いながら、その半透明の壁に触れようとして、トリンキュロは気付く。

 硬い。そして、触れた瞬間に、指先が弾かれる。トリンキュロの頬にそれが跳ねて、流れ落ちる。

 指先を濡らしているのは、数滴の液体。

 トリンキュロの周囲を覆っているのは、硬い水で形成された壁、としか表現できない不可思議な結界だった。


「なんだ、これは……」

「世界を救った後、私の研究のメインテーマは、結界魔術になりました」


 四天王第一位の疑問に対して、世界最高の賢者の、答え合わせがはじまる。


「転送魔導陣のような高等魔導術式は、どうしてもその用途に特化した術式を仕込まなければなりません」

「たとえば、転送魔導陣の敷設には、天才魔導師である複数人の私が必要であり……さらに、万人がスムーズに扱えるようにするには、それなりの時間と魔力と調整を要します」

「さらにたとえば! そこの博打顔だけ悪魔が実際に行っているように、魔導陣の術式そのものを肉体に書き込み、特化させることで、ある程度、運用を簡易にすることは可能ですが……」

「その場合は他の魔術の使用を完全に捨てることになるので、これもまた現実的な手法であるとは言い難いでしょう」

「しかし、決闘魔導陣のように一定範囲に展開し、相手を閉じ込める結界には多大な戦術的アドバンテージがあることもまた事実」

「なので、賢くてかわいい私は考えました」

「魔法使いを完璧に閉じこめる結界魔導陣を作れたら……強そうだなぁ、と」


 声が重なる。聴き取りきれない。

 そんなバカな、と。

 トリンキュロは、体の震えを必死に抑えようとした。

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